元修義
元 修義[1](元脩義、げん しゅうぎ、生年不詳 - 525年)は、北魏の皇族。字は寿安。
経歴
[編集]汝陰王拓跋天賜の五男として生まれた。書伝を渉猟して、文才があり、孝文帝に見込まれた。元士から左将軍・斉州刺史に任じられた。斉州ではたびたび刺史が亡くなっていたため、修義は何度か上表して固辞した。孝文帝は「吉凶は人によるもの」と言って辞退を許さなかったため、修義はやむなく赴任した。修義の統治は寛容で、斉州にあること4年のあいだ、1人も殺さなかった。秦州刺史に転じた。孝明帝の初年、庶人とされていた元禧や元愉らの以前の罪を許し、陵墓のための土地を賜るよう上奏した。霊太后は修義の上奏を越権行為であるとして許さなかった。このころから修義は収賄に励むようになった。
後に吏部尚書に累進した。修義は賄賂の額を基準に人事を左右した。中散大夫の高居が上党郡太守の地位を求めたが、修義は他の人物に決めていたため、高居に地位を与えなかった。高居は大言して不遜な態度であったため、修義は部下に命じて高居を縛って引き回させた。高居は人々の前で「天唱賊」と呼ばわった。それを見た人が、賊とは誰のことかと訊ねた。高居は修義を指さして、「この座の上にある者が、天子の命にそむいて、賄賂の多い者に官を得させ、京師をあきらかに脅かしている。これは大賊ではないか」と答えたため、修義は顔色を失った。高居は修義の罪状を孝明帝に訴えようと図ったが、左僕射の蕭宝寅がさとしたため、取りやめた。
524年(正光5年)、秦州で莫折念生が乱を起こすと、修義は尚書右僕射を兼ね、西道行台・行秦州事となって、北魏の官軍を統率して反乱軍を討つこととなった。修義は酒を好み、毎日飲んでいたために精神を病んで、長安まで到着したが、軍事の役には立たなかった。元志が敗死し、反乱軍が東は黒水に進出するにいたって、代わって蕭宝寅が反乱討伐のために派遣され、修義は雍州刺史となった。525年(正光6年)5月11日、雍州で死去した。司空の位を追贈された。諡は文といった。
子の元均は、給事黄門侍郎となった。
伝記資料
[編集]脚注
[編集]- ^ 墓誌によると、諱は寿安、字は脩義とする。