児玉元次
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永2年7月23日(1625年8月25日) |
改名 | 児玉元経→児玉元次→湯原元次 |
別名 | 通称:六次郎→又右衛門尉 |
官位 | 従五位下、宮内少輔 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 児玉氏 |
父母 | 父:児玉元良、母:湯原春綱の娘 |
兄弟 |
元兼、景唯、元次、 二の丸殿、益田景祥室 |
子 | 就次 |
児玉 元次(こだま もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。毛利氏の家臣。通称は六次郎。父は毛利氏の五奉行を務めた児玉元良。
生涯
[編集]毛利氏の五奉行を務めた児玉元良の末子として生まれ、毛利輝元と毛利秀就の2代に仕えた。
天正17年(1589年)1月11日、輝元の加冠により元服し、「元」の偏諱を与えられる。同年、輝元に従って上洛し、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。また、同年7月13日には従五位下に叙せられ、宮内少輔に任官した[注釈 1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、幼少の秀就の後見として江戸へ付き従った。この頃の元次は母方の「湯原」の苗字を名乗っており、慶長6年(1601年)1月7日に輝元と秀就から「又右衛門尉」の官途名を与えられた際の宛名が「湯原六次郎」となっている。
寛永2年(1625年)7月23日、江戸で死去。嫡男の就次は慶長7年(1602年)に既に死去していたため、就次の子の就信が後を継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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参考文献
[編集]- 『萩藩閥閲録』巻61「児玉十兵衛」