児玉半九郎
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化8年(1811年) |
死没 | 安政3年10月19日(1856年11月16日) |
改名 | 児玉忠碩 |
別名 | 通称:半九郎 |
墓所 | 興元寺の隠居山墓地(山口県周南市) |
主君 | 毛利元蕃 |
藩 | 周防徳山藩 |
氏族 | 河田氏→児玉氏 |
父母 |
父:河田政直、母:善立寺見明の妹 養父:児玉忠清 |
妻 | 元子(児玉忠清の娘) |
子 |
久子(児玉次郎彦妻)、信子(波多野毅妻)、源太郎 養子:次郎彦 |
児玉 半九郎(こだま はんくろう)は、江戸時代後期の徳山藩士。諱は忠碩。徳山藩士・河田政直の長男で、児玉忠清の婿養子となる。嫡男は明治時代の軍人・児玉源太郎。婿養子に児玉次郎彦がいる。家格は馬廻、禄高は100石。
生涯
[編集]文化8年(1811年)に徳山藩士・河田政直の長男として生まれ、徳山藩士・児玉忠清の娘・元子[注 1]を娶って婿養子として児玉家の家督を継いだ[1]。
半九郎は文人気質に富み、小笠原流の礼式を教授し、向かいの家に住む漢学者・島田蕃根と語らう事を楽しみとしていた。また、行政能力にも恵まれ、評定役や代官、藩校・鳴鳳館の目付などを歴任した。後に杉山茂丸は『児玉大将伝』において半九郎の人物像を「権力を笠に着て徒党を組んだり、私利を営んだりする事を嫌う清廉な人物であったが、その一徹な気質はやや偏狭なきらいがあり、政治家向きの性格ではなかった」と評している。
天保13年(1842年)に長女・久子が生まれ、弘化4年(1847年)に次女・信子が生まれる。また、弘化2年(1845年)には浅見栄三郎の次男・次郎彦を養子とした[注 2]。
嘉永5年(1852年)閏2月25日、嫡男・源太郎が生まれる。源太郎が生まれた時に半九郎は島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、児玉家の家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた[2]。
嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになった。半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去。享年46。嫡男の源太郎はまだ5歳と幼く、半九郎の喪が明けた後に養子の次郎彦が半九郎の長女・久子と婚姻して、その家督を継いだ[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年8月。ISBN 978-4-28601-631-3。
- 小林道彦『ミネルヴァ日本評伝選「児玉源太郎」』ミネルヴァ書房、2012年2月。ISBN 978-4-62306-283-6。