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児玉半九郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
児玉半九郎
時代 江戸時代後期
生誕 文化8年(1811年
死没 安政3年10月19日1856年11月16日
改名 児玉忠碩
別名 通称:半九郎
墓所 興元寺隠居山墓地山口県周南市
主君 毛利元蕃
周防徳山藩
氏族 河田氏児玉氏
父母 父:河田政直、母:善立寺見明の妹
養父:児玉忠清
元子児玉忠清の娘)
久子児玉次郎彦妻)、信子(波多野毅妻)、源太郎
養子:次郎彦
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児玉 半九郎(こだま はんくろう)は、江戸時代後期の徳山藩士。忠碩。徳山藩士・河田政直の長男で、児玉忠清の婿養子となる。嫡男は明治時代の軍人・児玉源太郎。婿養子に児玉次郎彦がいる。家格は馬廻、禄高は100石。

生涯

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文化8年(1811年)に徳山藩士・河田政直の長男として生まれ、徳山藩士・児玉忠清の娘・元子[注 1]を娶って婿養子として児玉家の家督を継いだ[1]

半九郎は文人気質に富み、小笠原流の礼式を教授し、向かいの家に住む漢学者・島田蕃根と語らう事を楽しみとしていた。また、行政能力にも恵まれ、評定役や代官、藩校鳴鳳館の目付などを歴任した。後に杉山茂丸は『児玉大将伝』において半九郎の人物像を「権力を笠に着て徒党を組んだり、私利を営んだりする事を嫌う清廉な人物であったが、その一徹な気質はやや偏狭なきらいがあり、政治家向きの性格ではなかった」と評している。

天保13年(1842年)に長女・久子が生まれ、弘化4年(1847年)に次女・信子が生まれる。また、弘化2年(1845年)には浅見栄三郎の次男・次郎彦を養子とした[注 2]

嘉永5年(1852年2月25日、嫡男・源太郎が生まれる。源太郎が生まれた時に半九郎は島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、児玉家の家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた[2]

嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになった。半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年10月19日に憂悶の内に死去。享年46。嫡男の源太郎はまだ5歳と幼く、半九郎の喪が明けた後に養子の次郎彦が半九郎の長女・久子と婚姻して、その家督を継いだ[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 文化9年(1812年)生まれで、半九郎の1歳年下。
  2. ^ 7年後の嘉永5年(1852年)に実子の源太郎が生まれているように、直系男子誕生の可能性はまだ十分に残されていた時期に次郎彦を養子に迎えた事情は不明である。

出典

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  1. ^ 小林(2012)、p3。
  2. ^ 小川(2006)、p133。
  3. ^ 小林(2012)、p4-5。

参考文献

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  • 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年8月。ISBN 978-4-28601-631-3 
  • 小林道彦『ミネルヴァ日本評伝選「児玉源太郎」』ミネルヴァ書房、2012年2月。ISBN 978-4-62306-283-6