入来院重聡
表示
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 千代五郎(幼名)→重聡 |
別名 | 重総、通称:又五郎 |
戒名 | 定祐寺殿陽中定祐居士 |
官位 | 加賀守・弾正少弼 |
主君 | 島津忠治→忠隆→勝久→貴久 |
氏族 | 入来院氏 |
父母 | 父:入来院重豊、母:北原貴兼娘 |
兄弟 | 重聡、高城(たかじょう)重隆室 |
妻 | 正室:白浜重秀娘 |
子 |
祁答院重貴室、東郷重朗室、重朝、 高城(たかじょう)重弼室、雪窓夫人(島津貴久継室)、 平太次郎 養子:重貞(高城(たかじょう)重隆の次男) |
入来院 重聡(いりきいん しげさと)は、戦国時代の武将。入来院氏11代当主。
生涯
[編集]入来院重豊の嫡子として誕生。本貫地である薩摩国入来院の他に、薩摩では永利名山田・草原・田崎・天辰(以上、現・薩摩川内市)・羽島(現・いちき串木野市)、大隅国では平松・森山・前原(以上、現・姶良市)を領し、筑前国・筑後国にも飛び地を有していた。
重聡は延徳2年(1490年)8月21日に家督を相続、これより守護・島津氏方として忠勤し、永正7年(1510年)に12代守護島津忠治より隈之城を与えられている。享禄2年(1529年)には、薩州家の島津実久と戦い、百次・山田(共に現・薩摩川内市)以西を攻略した。
このころ島津家は、守護職を与えられた島津貴久と、守護職復帰を企てる島津勝久、守護簒奪を企図する島津実久の三派に分かれるが、重聡は享禄3年(1530年)より島津忠良・貴久父子に従い軍功を為し、以後より終生変わらずこれに付き従う。また、享禄・天文の頃、忠良の所望により自身の娘(雪窓夫人)を貴久に嫁がせた。雪窓夫人は島津四兄弟といわれる貴久の男子のうち、義久・義弘・歳久の三名を生んでいる。
天文5年(1536年)7月、度々の軍功により百次城を、天文6年(1537年)3月には郡山城を安堵される。その後、天文6年(1537年)1月の伊集院竹山城攻めなどにも参加し忠孝を為したが、天文8年(1539年)閏6月に貴久が市来平城を攻め落とすと、老体のために軍労を果たせないことを理由に暇を申し出て、嫡子・重朝に後事を託した。天文年間(1532年 - 1555年)に病死した。
参考文献
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)
- 『戦国人名事典』コンパクト版(新人物往来社) ISBN 4-404-01752-9
- 『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』(南方新社 2011年) ISBN 978-4-86124-207-6