入来院重豊 (14代当主)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正11年8月5日(1583年9月20日) |
別名 | 通称:千代五郎、又五郎 |
戒名 | 扇皇定永大禅定門 |
官位 | 弾正少弼 |
主君 | 島津義久 |
氏族 | 入来院氏 |
父母 | 父:入来院重嗣 |
兄弟 | 重豊、又六 |
妻 | 島津忠将娘(不仲により後に離縁) |
子 | 養子:重時(島津以久次男) |
入来院 重豊(いりきいん しげとよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。入来院氏14代当主。
生涯
[編集]入来院重嗣の嫡子として誕生。天正2年(1574年)8月、重豊が主君・島津義久に対し謀反を企てているとの風聞が立った。重豊は驚き、拝領していた領地の山田・寄田・田崎・天辰(以上、現・薩摩川内市)を義久に献じ、起請文を提出したことで本領の入来院75町は安堵された。その後は天正4年(1576年)の日向国高原城攻めや、天正6年(1578年)の耳川の戦いに参加する。
天正8年(1580年)の肥後国矢崎城攻めの際は病を得たため、家老の山口重秋・種子田秀高を名代に兵卒数百人を率いさせたが、重秋・秀高を含む50余人が討ち死にしている。天正9年(1581年)相良氏の水俣城攻めの際は脇大将を仰せ付かった。
天正11年(1583年)、死去。子が無かったため、島津以久の次男・重時が養嗣子となり名跡を継いだ。
参考文献
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)
- 『戦国人名事典』コンパクト版(新人物往来社) ISBN 4-404-01752-9