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八条隆正

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八条隆正

八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年明治16年)6月27日[1] - 1950年昭和25年)2月3日[1][注釈 1])は、明治末から昭和前期の大蔵官僚政治家華族貴族院子爵議員

経歴

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伯爵油小路隆董の三男として生まれ、子爵八条隆邦養子となる[1][2]。養父・隆邦の死去に伴い、1896年(明治29年)9月8日、家督を相続し子爵を襲爵した[1][3]

1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業[2][4]1909年(明治42年)大蔵省に入省し、税務監督局属兼大蔵属、同監督局事務官、東京税務監督局経理部長などを歴任[2][4]1915年(大正4年)7月15日、依願免本官となり退官した[5]。その後、産業組合中央金庫理事長、日本銀行監事、住宅営団監事、内閣顧問、大蔵省顧問帝国農会特別議員、国民貯蓄奨励委員会委員、学習院評議会会員などを務めた[4]

また、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して1915年7月10日[6]から1933年(昭和8年)4月12日[7]までと1937年(昭和12年)4月24日[8]から1946年(昭和21年)2月12日[9]まで在任した[4]。同年公職追放となった[10]


親族

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  • 妻:八条遺子(ゆいこ、養曾祖父八条隆吉四女)[1]
  • 次男:八条隆孟(たかなが) - 東京帝国大学在学中に左翼活動家となり、1933年に治安維持法違反で検挙された(赤化華族事件[11]。東京帝大の学習院出身者でつくる「目白会」の中で後輩たちと読書会をひらき、「無産者新聞」を普及、数十人を組織していたと言われる[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』51頁では「3月3日」。

出典

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  1. ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』下巻、363-364頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第14版 下』ハ51頁。
  3. ^ 『官報』第3961号、明治29年9月9日。
  4. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』51頁。
  5. ^ 『官報』第887号、大正4年7月16日。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
  10. ^ 『朝日年鑑』昭和22年版、90頁、「公職追放者一覧」。
  11. ^ a b 治維法違反で検挙、自殺した公爵の娘とは?日本共産党「しんぶん赤旗」2008年4月9日

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 『朝日年鑑』昭和22年版、朝日新聞社、1947年。
日本の爵位
先代
八条隆邦
子爵
八条家第4代
1896年 - 1947年
次代
華族制度廃止