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内田正偏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内田 正偏
時代 江戸時代中期
生誕 元禄6年(1693年
死没 寛保3年2月29日1743年3月24日
別名 主膳(通称)
戒名 澄雲院殿観道融清大居士
墓所 東京都台東区蔵前の竜宝寺
官位 従五位下、信濃
幕府 江戸幕府
下野国鹿沼藩
氏族 内田氏
父母 父:内田正勝、母:青山幸実の娘
正室:毛利元次の娘
正親平野長里、娘(富田知徳正室)
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内田 正偏(うちだ まさゆき)は、江戸時代大名下野鹿沼藩の第3代藩主小見川藩内田家3代。

生涯

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元禄6年(1693年)、第2代藩主・内田正衆の長男・内田正勝の子として生まれる。翌年、父の死により嫡子となり、元禄12年(1699年)に正衆が死去したためその跡を継いだ。このとき、叔父の内田正長に1500石、同じく叔父の久世正広に500石を分与したため、鹿沼藩は1万3000石となった。

宝永6年(1709年)3月7日に叙任する。しかし享保9年(1724年)10月29日、狂気により妻女を傷つけてしまった罪を問われ、幕府より蟄居処分となった。江戸で見初めた町人の妻を正偏が鹿沼に連れて帰り、それを追って尋ねてきた父子を無礼と下の者に斬り捨てさせ、それから狂気に走るようになったという伝承がある。

家督は子の正親が継いだが、所領を3000石減らされた1万石で下総小見川藩に移された。

寛保3年(1743年)2月29日に死去した。享年51。

系譜

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父母

正室

子女