内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件
内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件(ないかくより ざいたいわんもんぶしょかんいん がいせいじゅうぐんしゃとしてとりあつかいのけん)は、日本の台湾領有[1]直後の1895年(明治28年)7月10日に、当時の樺山資紀台湾総督より日本政府へ提出された「台湾ではまだ残留清兵との戦闘が続いているので、残留清兵が平定されるまで台湾勤務の文武諸官員を外征従軍者として扱ってほしい」という稟申[2]を、当時の伊藤博文内閣が「すべて日清戦争に伴うものの結果であり、特に反対する理由が無い」として閣議決定したことを報告した文書である。
同文書は、内閣書記官長であった伊東巳代治により、大本営陸軍参謀の児玉源太郎に1895年(明治28年)8月17日付けで報告された。(陸軍省大日記、日清戦役、明治28年9月「27 8年戦役日記 甲」収蔵)
原文(現代語訳)
[編集]文書は「表紙」、「閣議決定」、「樺山資紀台湾総督の稟申」の3つで構成されている[3]。
- ■表紙
- 第二九号 朝第五一九五号 内閣 送第八七号
- 別紙ノ通閣議決定相成候條 此段
- 及御通牒候也
- 明治廿八年八月十七日
- 内閣書記官長 伊東巳代治
— 内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件
- 陸軍次官 児玉源太郎 殿
- (別紙の通り、閣議決定となりましたので、そのことをお知らせいたします)
- ■閣議決定
— 内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件
- 別紙 臺灣事務局總裁 具申 臺灣島ニ文武ノ職ヲ奉スル者 事平定ニ至ルマテ 外征従軍者トシテ取扱ノ件ヲ審査スルニ 日清間ノ平和 既ニ回復シ 臺灣島ノ受渡完了シタル今日ニ於テハ 臺灣島ハ 固ヨリ既ニ帝國ノ版図ニ属スト雖 條約批准交換後二年間ハ 其ノ土民ハ 未タ純然タル帝國ノ臣民ト云フコトヲ得サルノミナラス 数多ノ清國ノ残兵 除要ノ地ニ拠リ 土民ト相合シテ 頑固ナル抗敵ヲ為シ 形勢恰モ一敵國ノ如ク 今後尚幾多ノ戦闘アルコトヲ免レサルヘシ 而シテ是皆日清戦争ニ伴ウノ結果ナルヲ以テ 事実上之ヲ外征ト見做シ 其ノ従軍者ヲ外征従軍者トシテ取扱フモ 敢テ不都合ノ廉[4]無 之ニ付 具申ノ通 閣議決定相成可然[5]ト認ム
- (別紙 台湾事務局総裁 具申 台湾島に勤める文武諸官員を、台湾が平定されるまで外征従軍者として取り扱うという件を審査しましたが、日本と清国の間の平和は既に回復し、台湾島の受け渡しも完了した今日においては、台湾島は、言うまでもなく既に日本帝国の領土に属しているとは言えども、条約批准交換後2年間はその土地の住民は、まだ純然たる日本帝国の臣民とは言えないだけでなく、数多くの清国の残兵が取り除く必要のある土地に立てこもり、土地の住民と合流して頑固な敵となって抵抗しており、状況はまるで一敵国のようで、今後なお多くの戦闘が起こることを免れる事はできません。そして、これは全て日清戦争に伴うものの結果なので事実上では[6]これを外征と仮定し、その従軍者を外征従軍者として扱うが、敢えて不都合だとする理由も無いので、之に付いて具申の通り、閣議決定すべきだと認めます)
- ■樺山資紀台湾総督の稟申
- 台閣一号
- 別紙 臺灣總督稟申 臺灣島ニ文武ノ職ヲ奉スル者 事平定ニ至ルマテ 外征従軍者トシテ取扱ノ件ハ 稟申ノ通ニテ然ルヘシト 局議決定候條 此段及具申候也
— 内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件
- 明治二十八年七月十日
- 臺灣事務局総裁伯爵伊藤博文
- 内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
- (別紙 台湾総督の稟申 台湾島に勤める文武諸官員は事が平定されるまで外征従軍者として取り扱うという件は、稟申の通りにするべきだと局議で決定したので、そのことをご報告します)
- 官第三四号 (別紙)
- 日清両國間ノ平和 既ニ回復シ 台湾島ノ受授ハ完了セリ[7]ト雖 本島ノ形勢ハ 恰モ一敵國ノ如ク 清国ノ将卒ハ 淡水三貂湾ニ於テ我兵ヲ射撃シ 又金咬蒋基隆等ニ於テ 頑固ナル抗敵ヲ為セリ 而シテ南方安平打狗等ニ於テ 我軍艦ヲ屢[8]砲撃シ 又新竹以南ハ尚夥多ノ残留清兵充満スルヲ以テ 今後幾多ノ戦闘アルヲ免レス 故ニ名義上ヨリ言ヘハ台湾ハ既ニ帝國ノ新領土タリト雖 実際ノ状況ハ外征ニ於ルニ異ナルコトナシ 故ニ本島ニ於テ文武ノ職ヲ奉スルモノハ 其平定ニ至ルマテ 總テ外征従軍者トシテ 諸般ノ取扱相成度 此段稟申候也
— 内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件
- 明治二十八年六月十九日
- 臺灣總督子爵樺山資紀
- 内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
- (日清両国の間には既に平和が回復し、台湾の授受は完了したとは言えども、台湾島の状態はまるで一敵国のようで、清国の将兵は淡水[9]、三貂湾[10]で日本兵を射撃し、金咬蒋[11]、基隆[12]などで頑強に抵抗しました。台湾南部の安平[13]や打狗[14]などではしばしば日本の軍艦を砲撃し、また、新竹[15]以南はまだ多くの残留清兵で満ちているため、今後多くの戦闘が起こることを免れません。そのため名義上から言えば台湾はすでに日本の新領土だとは言えども、実際の状況は外征における状況と変わらないので、そのため台湾に勤める文武諸官員は、台湾が平定されるまで、すべて外征従軍者として諸般の取扱いをしていただけますよう申し上げます)
「閣議決定」の「條約批准交換後二年間」について
[編集]「閣議決定」に書かれている「條約批准交換後二年間ハ 其ノ土民ハ 未タ純然タル帝國ノ臣民ト云フコトヲ得サル」の「二年間」とは、下関条約[16](日清講和条約)第五條に定められた「割譲地の住人に自分たちの支配国および居住地を自由意思で選択させるための準備期間」である。この第五條により、台湾などの日本に割譲された土地の住人は、その土地に住み続けるか、それとも別の土地に引っ越すかを自由に選択できる。ただし、2年後も住人が割譲地に住み続けていた場合、日本の都合でその住人を日本国民と見なすことができる。
下関条約第五條
[編集]第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ 右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ 自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ 其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ 但シ右年限ノ滿チタルトキハ 未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ 日本國ノ都合ニ因リ 日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ 日清兩國政府ハ 本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ 該省ノ受渡ヲ爲スヘシ 而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ 右受渡ヲ完了スヘシ
- (日本へ割与された地方の住人で、割与された土地の外に住みたい(移住したい)と欲する者は、自由にその所有財産を売却して退去することができる。そのため、本約批准交換の日より2年間を猶予する。ただし、その年限(2年間)が満了したときは、まだ割与された地方を退去しない住人を、日本の都合で日本国民と見なすことがある。
- 日清両国は本約批准交換後、直ちに各1名以上の委員を台湾省へ派遣し、該当する省の受け渡しをする。そして本約批准交換後2か月以内に、右受け渡しを完了する。)
内地勤務者と外征従軍者の取り扱いの違い
[編集]恩給と加算年
[編集]内地勤務と外征従軍者の異なる点のひとつは恩給(年金)である。軍人恩給は「恩給法[17][18][19]」で定められており、軍人恩給を受給するには、軍人であった期間が相当年数(下士官以下の兵であれば在職年数が12年)あること、または公務により受傷・罹病(りびょう)し一定以上の障害を持っていることなどが要件となる。
在職年は実際に勤務した年数のほか、激戦地での勤務や特殊な勤務に従事した場合、加算年と呼ばれる仮想の在職年を含んだ年数で計算される。加算年は1か月につき最高3か月付加され、3年間勤務すれば恩給が受給可能になる。つまり通常勤務よりも8年間分も早く多く恩給が受給可能となった。
台湾に適用される加算年としては、以下のものが挙げられる[20]。
- 在勤加算
- 「職務をもって台湾、朝鮮、関東州、樺太、南洋群島に一定期間引き続き在勤したとき」に「1月につき半月以内(1/3月、半月)」の割合で年数が加算される。
- 国境警備・理蕃加算
- 「職務をもって日本、満洲の国境警備又は理蕃のため危険地域内に勤務したとき」に「1月につき2月以内(1月半、2月)」の割合で年数が加算される。
恩給との関連を示す文書
[編集]国立公文書館所蔵の文書「台湾島ニ文武ノ職ヲ奉スル者事平定ニ至ルマテ外征従軍者トシテ取扱ハシム」[21]は同じく「閣議決定」と「樺山資紀台湾総督の稟申」を保存した文書だが、その2つの文書の後に、内地勤務者でも特に功績の高かった人間には従軍年を加算するよう求める文書が添付されているため、「樺山資紀台湾総督の稟申」が加算年についての請求であったことが分かる。
- 台湾事務局総裁具申 台湾島ニ文武ノ職ヲ奉スル者 事平定ニ至ルマテ外征従軍者トシテ取扱ノ件
- 右謹テ奏ス
- 明治二十八年八月一日
- 内閣総理大臣伯爵伊藤博文(花押) — 台湾島ニ文武ノ職ヲ奉スル者事平定ニ至ルマテ外征従軍者トシテ取扱ハシム
- (以下、原文のカタカナをひらがな表記。括弧は引用者注)
シリーズ・JAPANデビュー 第1回「アジアの“一等国”」に関しての説明
[編集]2009年(平成21年)4月5日にNHK総合テレビで放映されたドキュメンタリー『プロジェクトJAPAN シリーズJAPANデビュー 第一回「アジアの“一等国”」』は、その内容に偏向編集や事実歪曲、名誉棄損があったとして、番組で証言した台湾人出演者と視聴者の双方を合わせた1万人以上が放送局のNHKを訴える裁判史上最大の集団訴訟へと発展したが、原告の敗訴で確定した。
同年6月17日、NHKは「プロジェクトJAPAN」公式ウェブサイトに、抗議への回答として「シリーズ・JAPANデビュー 第1回「アジアの“一等国”」に関しての説明[23]」を掲載し、その中の「『日台戦争』について」のくだりで「内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件」の内容を引用した[24]。ただし上記「台湾島ニ文武ノ職ヲ奉スル者事平定ニ至ルマテ外征従軍者トシテ取扱ハシム」のように、この電報を保存した公文書は複数存在するが、NHKは回答文において引用文書名を明らかにしていないため、どの公文書から引用したのかは不明である。
NHKは、樺山台湾総督と伊藤博文首相が台湾領有直後の戦闘について、電報で「外征」という言葉を使用していることを取り上げ、これらの歴史的事実により、当時の日本政府が台湾での戦闘を「対外戦争(外国との戦争)」として扱っていたと主張した。
NHK回答
[編集]
- イ、「外征従軍者」
- 1895年6月、初代台湾総督の樺山資紀は、首相伊藤博文宛の電報の中で、「本島の形勢は恰も一敵国の如く、(中略)、実際の状況は外征」との認識を示し、台湾に派遣された文武諸官員の扱いを「外征従軍者」とするよう申し入れます。これに対し、伊藤首相は「事実上之を外征と見なし、その従軍者を外征従軍者として取り扱う」と回答し、閣議で了承されました。
— シリーズ・JAPANデビュー 第1回「アジアの“一等国”」に関しての説明
- 上記の「戦時認定」と「外征従軍者」に関する歴史的事実により、台湾における戦闘は法制度上において「外征」すなわち対外戦争として扱われています。
「外征」すなわち対外戦争
[編集]「対外」とは「外部または外国」[25]という意味であるため、対外戦争は「外部または外国との戦争」という2つの意味を持つ。 NHKは回答文に『「外征」すなわち対外戦争』と書いており、対外戦争を「外征」と同じ意味だとしているため、NHK回答における対外戦争という語句は「外国との戦争」という意味となる [26]。
樺山資紀台湾総督の稟申 原文 | |
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日清両國間ノ平和 既ニ回復シ 台湾島ノ受授ハ完了セリト雖 《本島ノ形勢ハ 恰モ一敵国ノ如ク》 清国ノ将卒ハ淡水三貂湾ニ於テ我兵ヲ射撃シ 又金咬蒋基隆等ニ於テ 頑固ナル抗敵ヲ為セリ 而シテ南方安平打狗等ニ於テ 我軍艦ヲ屢砲撃シ又新竹以南ハ尚夥多ノ残留清兵充満スルヲ以テ 今後幾多ノ戦闘アルヲ免レス 故ニ名義上ヨリ言ヘハ台湾ハ既ニ帝国ノ新領土タリト雖 《実際ノ状況ハ外征》ニ於ルニ異ナルコトナシ 故ニ本島ニ於テ文武ノ職ヲ奉スルモノハ 其平定ニ至ルマテ 總テ外征従軍者トシテ 諸般ノ取扱相成度 | |
NHK回答 | 原文 要約 |
台湾の状況はまるで一敵国のようで、(中略)実際の状況は外征 | 下関条約で日清間の戦闘が停止され(第十条[28])、台湾はすでに日本領になったのに、《台湾島の状態はまるで一敵国のように》清国の将兵が日本を攻撃してくる上に、まだ多くの残留清兵がいるので、今後も必ず戦闘が発生する。
そのため法律上では台湾はすでに日本国内だが[29]、《実際の状況は外征における状況と変わらない》ので、台湾勤務者は台湾が平定されて危険が無くなるまで外征従軍者扱い[30]にしてほしい。 |
■NHK回答の主な省略内容
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閣議決定 原文 | |
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日清間ノ平和 既ニ回復シ 臺灣島ノ受渡完了シタル今日ニ於テハ 臺灣島ハ 固ヨリ既ニ帝國ノ版図ニ属スト雖 條約批准交換後二年間ハ 其ノ土民ハ未タ純然タル帝國ノ臣民ト云フコトヲ得サルノミナラス 数多ノ清國ノ残兵 除要ノ地ニ拠リ 土民ト相合シテ 頑固ナル抗敵ヲ為シ 形勢恰モ一敵國ノ如ク今後尚幾多ノ戦闘アルコトヲ免レサルヘシ 而シテ是皆日清戦争ニ伴ウノ結果ナルヲ以テ 《事実上之ヲ外征ト見做シ 其ノ従軍者ヲ外征従軍者トシテ取扱フ》モ 敢テ不都合ノ廉無 之ニ付 具申ノ通 閣議決定相成可然ト認ム | |
NHK回答 | 原文 要約 |
事実上之を外征と見なし、その従軍者を外征従軍者として取り扱う | 講和が成立して台湾島は既に日本領になったが、条約批准交換後2年間は住人を日本国民とは言えない[31]だけでなく、まだ多くの清国の残兵が住民と一緒に頑固に抵抗していて、状況はまるで一敵国のようで、今後もまだ多くの戦闘を避けられない。 これ(条約批准交換2年後の統治国確定までに発生すると見込まれる、清国の残兵と住民による戦闘の多発)は全て日清戦争に伴うものの結果なので、《事実上これを外征と見なし、その従軍者を外征従軍者として扱う》ことにするが、敢えて不都合だとする理由も無いので閣議決定する |
■NHK回答の主な省略内容
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脚注
[編集]- ^ 台湾島は、日清戦争の講和条約である下関条約(1895年4月17日)によって、清国から日本へ正式に割譲された。
- ^ (ひんしん。りんしん)上役に申し上げる。同義語に稟白(ひんぱく)。
- ^ 「標題:内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件」 アジア歴史資料センター Ref.C06022096100 「27 8年戦役日記 甲」
- ^ (かど)特に理由、原因となる事柄。
- ^ あいなってしかるべし
- ^ すでに1985年4月17日の下関条約と同年6月2日の台湾授受により、「法制度上では」台湾は日本国内になっている
- ^ この電報が発信された1985年7月10日の時点で、同年4月17日の下関条約によって台湾は正式に日本領となり、6月2日の台湾沿岸沖における日本樺山総督・清国李経方(芳)欽差大臣両名の横濱丸船中商議により、すでに台湾の授受が完了していることを指す。
- ^ (る)しばしば。
- ^ (たんすい)。現・新北市淡水区。
- ^ (さんちゃおわん)。現・新北市貢寮区三貂角。台灣行政院農委會林務局 国家歩道系統>淡蘭-東北角海岸国家歩道系統>三貂嶺旧道。および台湾トラベルマップ>三貂嶺古道 「『三貂嶺』は雪山山脈の北段で、1626年5月,スペイン人が台湾東北角近海を航海時に多くの怪石と海蝕平台のある沿岸を見つけ、その地形が聖城サンディアゴに似ていたことから『St.Diago』と名づけ、その後現地の人々が『三貂角』(サン ディアオ ジャオ)と呼ぶようになり、現在では『三貂嶺』(サン ディアオ リン)と命名されたといいます。」
- ^ (きんこうしょう)。現・新北市瑞芳区。
- ^ (きいるん)。現・基隆市。旧名は鶏籠(読みは同じ)。
- ^ (あんぺい。あんべい)。現・台湾台南市安平區。
- ^ (だぐ)。現・高雄市。高雄港。
- ^ (しんちく)。現・新竹市。
- ^ 「御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約」 アジア歴史資料センター Ref.A03020213100 。および『日本外交年表竝主要文書』(原書房)165-169ページ。下関条約全文はwikisource:ja:下関条約で確認できる。
- ^ “総務省 政策統括官(恩給担当)”. 2020年1月8日閲覧。
- ^ “総務省 恩給”. 2020年1月8日閲覧。
- ^ “恩給法(大正十二年法律第四十八号)”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2014年6月13日). 2020年1月8日閲覧。 “2016年6月1日施行分”
- ^ 総務省 加算年一覧表 (PDF)
- ^ 「台湾島ニ文武ノ職ヲ奉スル者事平定ニ至ルマテ外征従軍者トシテ取扱ハシム」 アジア歴史資料センター Ref.A01200841500 国立公文書館>内閣>公文類聚>賞恤/社寺>公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十九巻・社寺・教規・神社・寺院・雑載、賞恤・褒賞・恩給・賑恤
- ^ 併のニンベンを削除、左下に点
- ^ "プロジェクトJAPAN:未来へのプレーバック。[シリーズ・JAPANデビュー 第1回「アジアの“一等国”」に関しての説明]|NHK Archived 2009年8月19日, at the Wayback Machine." 2009年6月17日。
- ^ 番組中で使用して問題となった「日台戦争」という言葉の妥当性について回答し、特に「戦争」という呼称の根拠として引用された。
- ^ 『広辞苑 第五版』 岩波書店、1998年、1593頁。
- ^
外征の意味。
- 『新辞林』( 1997年7月10日 第一刷発行)。「戦争のために外国に軍隊を出すこと。外役。」
- 『国語辞典』(岩波書店 2000年11月17日 第一刷発行 第6版)。「〔名・ス自〕外国へ軍隊を出すこと」
- 『角川国語辞典』(角川書店 昭和59年1月20日 73版発行)。「名・自サ変 外国へ出兵して戦争すること。外役。」
- 『日本語大辞典』(講談社 第二版 六刷 2000年8月4日)「サ変自 外国へ攻めていくこと。invade another country」。
- ^ C06022096100(第5-6画像目)、「内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件」 防衛省防衛研究所、1895年(明治28年)。
- ^ 下関条約「第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ」。批准交換日は1985年5月8日(第十一條参照)
- ^ 台湾はすでに日本領なので、台湾で働く文武諸官員は制度上、内地勤務として扱われる。
- ^ 恩給は任務の危険度によって加算されるが、内地勤務は原則として加算されない。上記、恩給との関連を示す文書の「台湾島ニ文武ノ職ヲ奉スル者事平定ニ至ルマテ外征従軍者トシテ取扱ハシム」において、海軍大臣 西郷従道と陸軍大臣 大山巌が、陸海軍連名で「内地勤務者でも特に功績の高い者には従軍加算年を付けてほしい」と、わざわざ内閣に要請しているのはそのため。
- ^ 下関条約第五条。上記#「閣議決定」の「條約批准交換後二年間」について参照。
- ^ 住民が日本の統治に抵抗した背景には、在台湾清国官吏の扇動があったという疑いがあることが『近衛師団台湾征討史』 - 国立国会図書館 (明治29年5月24日発行)に書かれている。6月2日の台湾授受の商議において、樺山総督は清国の洩底兵営内から発見された証拠の告示文を提示し、下関条約で台湾が日本領になることが決まったにもかかわらず、清国官吏が日本への徹底抗戦を兵士や住民や呼びかけているのはなぜかと李經芳欽差を詰問し、すでに日本政府にもこの告示文の一件を報告済みであることを伝えた。李欽差は非常に動揺して「これは絶対に清国の関知していることではない。共和政府(台湾民主国)設立のことも私は台湾に来た後で聞いた。共和政府はすでに文武官を抑留して命令に従わせ、帰国を許さない。私の想像だが、この対日徹底抗戦を呼びかける告示文は清国官吏を脅迫して書かせたものではないだろうか。もし上陸すれば、私も彼らと同じ目にあうに至るだろう」と、台湾民主国と清国の関係を全面否定した(「臺灣島の授受」9ページ)。また、事前に清国北洋大臣李鴻章が伊藤博文に台湾島民の暴動を伝えていたことにも言及し、さらに日本軍上陸に際して残留清国兵が攻撃を仕掛けてきたことが日本側の台湾における軍事行動の原因となったことも説明されている(同6-7ページ)。