出島灯台
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出島灯台 | |
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位置 | 北緯35度7分2.83秒 東経135度55分40.87秒 / 北緯35.1174528度 東経135.9280194度座標: 北緯35度7分2.83秒 東経135度55分40.87秒 / 北緯35.1174528度 東経135.9280194度 |
所在地 | 滋賀県大津市今堅田一丁目字出島274番1(地番による表記) |
塗色・構造 | 黒塗り、木造 |
灯質 | 白熱球 |
塔高 | 8 m (地上 - 塔頂) |
初点灯 | 1875年 |
出島灯台(でけじまとうだい[1][2])は、滋賀県大津市今堅田一丁目に立つ黒塗り木造の私設灯台。琵琶湖唯一の灯台で、大津市有形民俗文化財に指定されている。
概要
[編集]出島灯台が立つ付近は、琵琶湖がもっとも狭まったところで岩礁も多く、1875年(明治8年)に客船「満芽丸」の転覆で乗客47人が亡くなる水難事故が発生した[3]。これを受けて、同年に近くの船会社により出島灯台が建てられた。以来、1918年(大正7年)に光源が灯油から白熱灯に変わるまで、出島の9戸の家が当番を決めて灯台の灯を灯し続けていた。白熱灯に変わった後は自動点灯になっていたが、出島灯台は1951年(昭和26年)にその役目を終え、今はモニュメントとして修復保存されている[4]。
沿革
[編集]- 1869年(明治2年)3月 - 大聖寺藩(大津汽船局)による日本初の湖上蒸気船「一番丸」が就航。
- 1871年(明治4年) - 大津県が大津百艘船を廃止し、和船運航者の特権が消滅。
- 1872年(明治5年)10月 - 県令の松田道之が、県勢振興のため琵琶湖での水運事業を自由とする旨を告諭。湖上水運の競争が激化。
- 1875年(明治8年)2月 - 満芽丸が小松沖で転覆し、乗客47名が犠牲となる水難事故が発生。
- 1875年(明治8年)- 出島灯台の初点灯。光源に灯油ランプを使用。
- 1918年(大正7年)- 光源を電灯に変更。
- 1951年(昭和26年)- 灯台としての役目を終える。
- 1961年(昭和36年)9月 - 第2室戸台風により倒壊寸前となる。
- 1973年(昭和48年)- 地元の熱心な保存運動により現在の姿に復元。
- 1989年(平成元年)- 点灯が途絶えていたが、地元有志により点灯再開。
- 1991年(平成3年)2月1日 - 大津市有形民俗文化財に指定される。
周辺
[編集]脚注
[編集]- ^ 表記について、大津市指定文化財名称では出島の灯台であるが、出島灯台表記で「でけじまのとうだい」と読んでおり、また景観協定締結時に地元と協議の上で出島灯台と名称を決定した経緯があるためどちらの表記でも問題ない。2015年7月22日 大津市役所都市計画部に確認済 今堅田のことを「でけじま」という。地元住人は「でけじまとうだい」と呼ぶ。
- ^ “景観協定(出島灯台のまち景観協定)”. 大津市 (2014年1月23日). 2015年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月25日閲覧。
- ^ 似内 惠子. “みなと文化研究事業/港別みなと文化アーカイブス/滋賀県・塩津/塩津港のみなと文化” (PDF). 一般財団法人 みなと総合研究財団. 2015年7月25日閲覧。 第2章 「みなと文化」の要素別概要/(4)人物/③ 一庭啓二 の項を参照
- ^ “歴史街道 ロマンへの旅(大津市/湖族の郷・堅田)”. ABC朝日放送 (2007年9月4日). 2015年7月25日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 景観協定(出島灯台のまち景観協定) - ウェイバックマシン(2015年7月25日アーカイブ分)
- “出島の灯台”. 公益社団法人びわこビジターズビューロー (2015年7月7日). 2015年7月25日閲覧。
- “出島の灯台”. 公益社団法人びわ湖大津観光協会. 2015年7月25日閲覧。
- 似内 惠子. “みなと文化研究事業/港別みなと文化アーカイブス”. 一般財団法人 みなと総合研究財団. 2015年7月25日閲覧。 滋賀県・塩津の項