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刁作謙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
刁作謙
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)
死去: 1974年
出身地: 清の旗 広東省嘉応州興寧県
職業: 外交官・ジャーナリスト
各種表記
繁体字 刁作謙
簡体字 刁作谦
拼音 Diāo Zuòqiān
ラテン字 Tiao Tso-ch'ien
和名表記: ちょう さくけん
発音転記: ディアオ ズオチェン
英語名 Dr. Philip K. C. Tyau
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刁 作謙(ちょう さくけん)は、中華民国の外交官・ジャーナリスト。成章。弟に外交官僚、学者の刁敏謙

事績

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10歳の時に、父に従いホノルルに移る。中学卒業後に帰国し、上海の私立聖ヨハネ学院で学んだ。同大学を卒業後、イギリスに留学してケンブリッジ大学で学び、文学士、法学博士の学位を取得、同国で弁護士となる。1908年、文学修士の学位も取得して中国留学生監督秘書となり、翌年には監督となった。

1910年宣統2年)に帰国し、留学生試験を受けて進士翰林院編輯となる。辛亥革命勃発前後には、『北京日報』英語版の主筆を務めた。1912年民国元年)、北京政府で外交部秘書、大総統秘書を務め、後に駐英公使館参賛となる。1914年(民国3年)、ロンドン総領事事務を兼任した。

1916年(民国5年)に帰国して外交部幇弁秘書となり、翌年には国務院秘書幇弁を兼任した。以後、外交部で各職を歴任し、外交部情報局局長代理にまで昇進した。1920年(民国9年)2月、公立北京清華学校監督に任ぜられ、9月には外交部参事兼和約討論会秘書長となっている。

1921年(民国10年)8月、駐キューバ公使に任ぜられ、10月、ワシントン会議中国代表団秘書長を兼任した。翌年1月、駐パナマ特命全権公使も兼任する。1926年(民国15年)に帰国し、その翌年に安国軍外交討論委員会委員、天津イギリス租界回収委員会委員、外交部条約修訂委員会委員を務めた。

国民政府においても、北京税務学校教授、外交部条約委員会顧問を務めた。1929年(民国18年)から1931年(民国20年)まで北平新聞社社長となっている。1933年(民国22年)、外交部簡任秘書となり、同年9月、シンガポール総領事署理として派遣された。1935年10月、正式に総領事(公使待遇)に昇進し、マレー半島の各領事館を監督・指揮している。翌1936年(民国25年)に召還されて外交部両広特派員となり、1943年(民国32年)7月まで務めた。1974年、死去。享年95。スポーツを愛好し、テニス・サッカー・ゴルフの名手であったという[1]

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  1. ^ 『最新支那要人伝』116頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。