分部光勝
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 慶長4年3月29日(1599年4月24日) |
別名 | 忠兵衛[1]、中務[1](通称) |
戒名 | 桂芳院昌岩浄久[1] |
墓所 | 三重県津市河芸町上野の圓光寺 |
主君 | 織田信包、豊臣秀吉 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 父:分部光嘉、母:分部光高養女 |
兄弟 | 光勝、長野正勝室、渡辺久勝室 |
生涯
[編集]元亀2年(1571年)[1]、伊勢中山城主[2]分部光嘉(のちに伊勢国上野藩初代藩主)の長男として、奄芸郡中山村(現在の三重県津市栗真中山町)に誕生[1]。母は分部光高養女(分部光恒娘)[1]。
分部家は長野家(長野工藤氏)に仕えた家である。織田信長に従った父とともに、一時期長野家を継いでいた信長の弟・織田信包(長野信良)に属し[1]、その後は豊臣秀吉に仕えて[1]、その馬廻となった。
慶長4年(1599年)3月29日[1]、29歳で早世[1]。光勝の甥(長野正勝の子)にあたる光信が分部家の嗣子となった。
備考
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/12