刈谷原城
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刈谷原城 (長野県) | |
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別名 | 鷹巣根城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 海野氏流刈谷原氏 |
廃城年 | 1590年(天正18年) |
遺構 | 堀切、土塁 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
登録文化財 | 史跡等未登録[1] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 |
松本市No.1049 「鷹巣根城」[2] |
位置 | 北緯36度18分57.7秒 東経137度58分56.8秒 / 北緯36.316028度 東経137.982444度座標: 北緯36度18分57.7秒 東経137度58分56.8秒 / 北緯36.316028度 東経137.982444度 |
地図 |
刈谷原城(かりやはらじょう)、または鷹巣根城(たかすねじょう)は、長野県松本市刈谷原町にあった日本の城(山城)。
概要
[編集]標高896メートルの城山(鷹巣根城山)に所在する。松本市の遺跡地図では「鷹巣根城」の名で登録されている[2]。
鎌倉時代に海野幸継(海野氏)の五男である刈谷原五郎幸棟によって築かれた城と伝わっている。
その後、刈谷原氏にかわって小笠原長時の家臣で太田道灌の一族ともされる太田長門守資忠が城主になったが、1553年(天文22年)に武田信玄が侵攻し、落城した。武田信玄は今福石見守友清を城主としたが、1582年の武田氏滅亡、本能寺の変などの天正壬午の乱に乗じて小笠原貞慶がこの地を奪回すると、赤沢式部少輔を城代にした。しかし、赤沢氏が謀反を企て切腹させられると、小笠原頼貞が入った、1590年(天正18年)に小笠原貞慶が讃岐に移封となったときに廃城になったと考えられる。
脚注
[編集]- ^ a b 「まつもとの文化財」松本市公式HP
- ^ a b 「松本市遺跡地図の確認方法(埋蔵文化財包蔵地一覧表)」松本市公式HP
参考文献
[編集]- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
- 宮坂武男 著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館』第7巻 戎光祥出版 2013年