初代仙台国包
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初代仙台国包(しょだいせんだいくにかね、文禄元年(1592年) - 寛文4年12月3日(1665年1月18日))は江戸時代の陸奥国の刀工。俗名は本郷源蔵、のちに吉之允。
新刀最上作にて最上大業物。古刀大和保昌派の末流と称す。文禄元年(1592年)国分若林に生まれ、仙台城下に住まうが慶長19年(1614年)藩主伊達政宗の命により上京し、越中守正俊の門人となる。元和5年(1619年)帰国し、寛永3年(1626年)山城大掾受領。寛永13年(1636年)入道して用恵と名乗った。正保2年(1645年)隠居し、寛文4年(1664年)12月3日73歳で没した。その後も国包の名は明治の13代目まで続いている。
作柄としては保昌派の作を狙っており、鎬高く地鉄は揃った柾目肌、刃文は沸のついた直刃や互の目を焼き、帽子は焼詰めて掃掛ける。
瑞巌寺の雲居和尚が初代国包に与えた文書「仁沢の偈」に国包の読みは「くにかん」と振り仮名が書かれており、「くにかね」は誤りである[1]。2代目以降は「くにかね」と呼ばれている[2]。
作刀
[編集]脚注
[編集]- ^ “63 刀工国包の読み”. 要説宮城の郷土誌 (1983年)(仙台市民図書館,種部金蔵 編). 仙台市 (2016年). 2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月26日閲覧。
- ^ “東北大学総合学術博物館『展示品あんない』13p”. 東北大学総合学術博物館『展示品あんない』13p. 東北大学 (2016年). 2016年3月26日閲覧。