初梅 (駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | 1944年(昭和19年)度計画 |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
起工 | 1944年12月8日 |
進水 | 1945年4月25日 |
竣工 | 1945年6月18日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1947年7月6日中華民国へ引き渡し「信陽」となる 1961年12月1日に除籍後、解体 |
要目(計画値) | |
排水量 | 基準:1,262トン 公試:1,530トン |
全長 | 100.00m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
主缶 | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000馬力 |
速力 | 27.8ノット |
航続距離 | 18ノットで3,500海里 |
燃料 | 重油370トン |
乗員 | 211名 |
兵装 | 40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) 四式水中聴音機 |
初梅(はつうめ)は日本海軍の駆逐艦。仮称4815号艦、橘型(改松型)駆逐艦14番艦として舞鶴海軍工廠で建造され、日本海軍駆逐艦の中で最後の竣工となった。
艦名は「その年初めて開いた梅、また、咲いてまもない梅の花」(聯合艦隊軍艦銘銘伝p458)のこと。
艦歴
[編集]竣工後はそのまま舞鶴で訓練、待機し、6月28日舞鶴付近で敵機の攻撃を受け損傷した。7月30日、小浜湾で触雷し着底した「榎」の救援中、小浜で3回にわたり空襲を受け損傷、そのまま舞鶴で終戦を迎えた。10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月6日に、上海で中国に駆逐艦雪風などとともに引渡され、接三号と仮命名された後、信陽(シンヤン)と正式に命名された。艦番号は「DD-15」。
「信陽」は艦の状態がよく、日本軍が残した12センチ砲2門、2.5インチ砲三門、40ミリ機銃2門、20ミリ機銃4基などで再武装して中華民国海軍海防第一艦隊に編入された[1]。国共内戦中の1949年(昭和24年)4月22日に逸仙や営口(旧67号海防艦)などとともに共産党軍包囲下の南京を脱出、途中で共産党軍の砲撃により威海(旧海防艦194号)が脱落するも上海ついで台湾に到着[1]。「信陽」の修理の際には、状態が悪く早期に解体された同型艦「華陽」(「蔦」)の部品が流用された[2]。1955年(昭和30年)にはアメリカ製の5インチ単装砲2門、40ミリ単装機銃7門、20ミリ機銃6基などアメリカ海軍制式の兵装に換装された[1]。1956年から1957年までは南巡支隊に所属し、金門島を巡る小競り合いに際して哨戒などの任務に就き、中共艦艇とたびたび交戦した。金門砲戦の際には台湾海峡の警備哨戒に従事した[1]。「信陽」は1961年(昭和36年)12月1日に除籍され解体された[3]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』372頁による。
- 艤装員長
- 澤岡信男 大尉:1945年4月30日 -
- 駆逐艦長
- 澤岡信男 大尉[注釈 1]
注釈
[編集]- ^ 『艦長たちの軍艦史』には艦長の就任日は記載されていない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年
- 「歴史群像」編集部『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年、ISBN 4-7698-1246-9
- 田村俊夫「中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4