初見八郎
初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年3月5日[1]) - 1930年(昭和5年)5月31日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。
経歴
[編集]常陸国猿島郡東山田村(現在の茨城県古河市)出身。豪農、茨城県多額納税者である初見吉左衛門の四男[2]。幼くして漢学、その後中江兆民の仏学塾でフランス語、経済学、漢学を学び[3]フランス語語教授となる。中江兆民が主筆となっていた日刊政論や立憲自由新聞などの新聞記者を務め、1891年(明治24年)以降は翻訳や執筆活動を行う。その後、中江兆民の推薦を受けて1894年(明治27年)の第3回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。政治活動の最中に渋沢栄一と出会い、渋沢が開設した銀行の役員や、毛武鉄道株式会社(板橋〜足利間)の発起人を兄である初見敬二郎などと共に務め、国会議員として八郎自身の地元の地域発展に尽力した[4]。
第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から出馬して当選したが、増税問題への対応をめぐって憲政本党を離党し、三四倶楽部を結成した[3]。また、東部貯金銀行の創設に関わり、相談役となった[5]。
第7回衆議院議員総選挙でも再選されたが、次の選挙では落選し、しばらく実業に専念した[3]。1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立憲同志会から出馬して当選し、4たび議員に就任した。
東山田郷有林下げ戻し運動 この初見八郎が撰文を担当した「東山田郷有林紀念碑」は、江戸時代以来の共有林が明治維新後に国有林とされてしまったことから 八俣村が国に対して下げ戻しの行政訴訟を起こして勝訴したことを記念して、大正5年(1916)に建立されたものです。この東山田郷有林下げ戻し運動は、明治時代に地方の小村が国を相手取って訴訟を起こして勝利した数少ない事例として、地方自治の歴史上ひじょうに有意義なものであり、その支援に初見八郎も深くかかわっていたのです。ちなみにこの石線の文実は書家としてたいへん著名な北田井(高)が挿したもので、それに関する初見八郎宛のはがきも残されています。(三和資料館)[6]
明治時代に地元八俣村に建てられた邸宅は後に廃墟となり放置されていたが、2015年に取り壊された。
墓は神奈川県鶴見区の總持寺。
親族
[編集]・初見敬二郎 初見吉左衛門長男。土浦五十銀行頭取
・初見莊之助 敬二郎の弟、横尾勝右衛門養女セイを妻とする
・初見五郎 敬二郎の三男。逓信省名古屋逓信管理局技師兼電信課長、電気情報通信学会第十一代会長、書家小野鷲堂氏の娘を妻とする
・山口藤三郎 初見敬二郎の二男、炭鉱商山口嘉三の娘ゆうと婚姻し婿養子となる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 細井肇『現代日本の政治家』国光社、1916年。