別府町 (加西市)
別府町 | |
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北緯34度55分4.4秒 東経134度53分35.3秒 / 北緯34.917889度 東経134.893139度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 兵庫県 |
市町村 | 加西市 |
面積 | |
• 合計 | 0.7 km2 |
人口 (2012年3月31日)[1] | |
• 合計 | 344人 |
• 密度 | 490人/km2 |
男190人、女154人 | |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
679-0103 |
市外局番 | 0790 |
ナンバープレート | 姫路 |
位置座標は兵庫県立農林水産技術総合センター |
別府町(べふちょう)は、加西市の町名である。万願寺川の支流である普光川の中流域に位置している。郵便番号は、679-0103。2012年3月31日現在、人口は、344人(男190人、女154人)、世帯数133世帯である。
沿革
[編集]別府町は、古くは多可荘[2]、後、富家庄に属していた[3]。当地は在地土豪別府氏の本拠地で、別府氏は光照院領の荘官を勤めた[2]。別府氏によって開墾されたので、当地は別府と呼ばれるようになった[4]。別府氏は、のち江戸期には代々庄屋を勤めた[2]。
岡山市足守文庫によると、もと豊臣氏の蔵入地で、1595年(文禄4年)時点では、村高のうち303石余が木下家定領であった。1600年(慶長5年)姫路藩領となり、1617年(元和3年)姫路藩の支藩領、1639年(寛永16年)幕府領、元禄年間頃(1688〜1704年)陸奥国白河藩領、1708年(宝永5年)から1742年(寛保2年)大阪城代土岐氏領、後、安永年間頃(1772〜1780年)清水家領、1864年(元治元年)からは陸奥国会津藩領となった。1873年(明治6年)別府新田村、1876年(明治9年)又蔵新田、1884年(明治17年)九兵衛新田をそれぞれ合併した。1889年(明治22年)富合村の大字となる。1891年(明治24年)時点において、戸数157戸、人口は男441人、女410人であった。1926年(昭和元年)において、戸数225戸、人口1355人、田144町余・免租地33町余であった[5]。1965年(昭和30年)に加西町の大字、1967年(昭和42年)加西市別府町[6]となり、1968年(昭和43年)1月、別府町字草野丙89〜197番地が青野原町となった[7]。
年表
[編集]- 江戸時代まで
- 1600年 - 姫路藩領となる。
- 1617年 - 姫路藩支藩領となる。
- 1639年 - 幕府領となる。
- 元禄年間頃(1688〜1704年) - 陸奥国白河藩領となる。
- 1708〜1742年 - 大阪城代土岐氏領となる。
- 安永年間頃(1772〜1780年) - 清水家領となる。
- 1864年 - 陸奥国会津藩領となる。
- 明治以降
- 1873年 - 別府新田村を合併する。
- 1876年 - 又蔵新田を合併する。
- 1884年 - 九兵衛新田を合併する。
- 1889年4月1日 - 町村制の施行に伴い、富合村別府となる。
- 1955年3月30日 - 加西町別府となる。
- 1967年4月1日 - 加西市別府町となる。
- 1968年1月1日 - 別府町草野丙89〜197番地が青野原町となる。
小・中学校の学区
[編集]交通
[編集]- 鉄道
- 町域内に鉄道駅は設置されていない。最寄駅はJR西日本加古川線社町駅である。
- 道路
- 兵庫県道79号高砂加古川加西線
- 兵庫県道371号高岡北条線
- (地区の北端に中国自動車道が通過する)
施設
[編集]- 加西市立別府幼稚園
- 富合郵便局
- 加西農業改良普及所
- 兵庫県立農林水産技術総合センター
- 市営別府団地
寺社
[編集]- 寺院
- 天台宗尾崎山光福寺[9]
- 神社
- 大将軍神社
- 大宮妙見大明神
脚注
[編集]- ^ 地区・町別、面積、世帯数、人口、人口密度
- ^ a b c 角川書店 1988.
- ^ 加西郡教育会 1929, p. 52.
- ^ 加西郡教育会 1929, p. 61.
- ^ 加西郡教育会 1929, pp. 61–62.
- ^ 加西市条例 第1章 市制 「市の区域内の町の名称」
- ^ 加西市条例 第1章 市制 「町及び字の区域ならびに名称変更」
- ^ a b 通学区域一覧 加西市
- ^ 光福寺
参考文献
[編集]- 角川書店『角川日本地名大辞典』 28巻(初)、角川書店、東京都〈兵庫県〉、1988年9月。ISBN 978-4040012803。
- 加西郡教育会 著、兵庫県加西郡教育会 編 編『加西郡誌 : 御大典紀念』兵庫県加西郡教育会、1929年 。2014年2月13日閲覧。