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利光統久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
利光統久
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 鎮詮→統久
官位 弾正忠[1]
主君 大友氏
氏族 利光氏
父母 父:利光鑑教[1]
兄弟 統久、平助[1]、右馬助
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利光 統久(としみつ むねひさ)は、戦国時代武将

経歴・人物

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鶴賀城利光鑑教嫡男[1]天正14年(1586年)11月、島津軍が豊後に侵攻した際(豊薩合戦)、父は肥前筑前に出征中であったため、弟の平助らと共に城兵を率いて抗戦しても、島津の大軍を前に城を守り切るのは不可能であると判断し、家臣の牧宗之助を末弟と偽って人質に出して一時的に島津軍と講和した[1]

父利光鑑教の帰城後[2]、油断した島津家久勢に夜襲やゲリラ戦を行い、よく抵抗して島津勢を撃退したが、12月7日、物見櫓で島津軍の撤退を視察する鑑教は流れ弾に当たり討死した[3]。統久と城兵は宗魚の死を隠して戦いを続け、なおも5日ほど持ち堪えた。一連の戦いで、島津軍は3千人、城の方は千人ほどが戦死したとされる。だが、直後の戸次川の戦いで大友の主力軍が家久に大敗したため、やむなく降伏する事となった。主君・宗麟は利光氏の忠勤を賞して開城させ、 城兵を臼杵に収容した。


脚注

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  1. ^ a b c d e 阿部猛西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、p.545(1987)
  2. ^ 豊後へ帰国の途中で豊前・龍王城にあった大友義統に謁して別れを告げ、鶴賀城に向かったという。
  3. ^ 一説に敵の矢に射られて戦死した。

参考資料

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