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利用者‐会話:ボブソン

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「ネプリーグ」の編集について[編集]

こんばんは。Doorurbanといいます。以前に一度議論に参加させていただきました。

さて、2010年4月11日 (日) 15:54(UTC)の版[1]でのボブソンさんの編集を拝見し、自分なりに考えてみたのですが、どうもボブソンさんが「推敲」という作業を誤解されているのではないかと思い、こちらに書き込ませていただきました。

3箇所とりあげます。 1,039 行:の 「 しかしこの思い込みが仇となり不正解となる事がある。2005年11月7日放送で、泰造は「あわじしま淡路島)」を答えさせる問題に対し、本人は深く考えず「○○島」という形だろうと思い答えを書いたところ、「島」の読み方を「とう」と勘違いした為に「う」と書き、「あわじしう」となって不正解となった。」

1,056 行:の 「2008年4月28日5月12日放送では、問題中に泰造の席にセットの小物を置き忘れるハプニング(というより故意の可能性が高い<!--近日2日も置き忘れる事は考えられず、また故意でなければこのシーンはOAされずカットされるはずーー>)があり、その小物を取りにいったスタッフの謝罪を受けるついでに、ズルをして問題の答えを聞き出そうとしていた。」

1,093 行:の 「2010年1月11日のSPでは、佐藤隆太が、自身が主演のまっすぐな男チームのキャプテンとして出演したが、「紀貫之(きのつらゆき)」が読めなかった時に、「まっすぐ」や「あすよ<Ref>「あすよ」まで撃ってタイムオーバーのため定かではないが、ドラマの放送が翌日の1月12日から開始の為、「あすよるほうそう」などと撃とうとしていた可能性が高い。</Ref>」と撃ったりして、番宣をしていた。」

私はうまく説明して納得してもらう自信が無いですし、私が言うよりも説得力があるので国語の先生に聞いてほしいのです。ボブソンさんが学生なら簡単ですが違う場合は昔お世話になった先生に挨拶がてら聞きにいくのがいいのかなと思います。べつに塾の先生でも文系の大学生でも誰でもかまわないんですが、私とボブソンさん以外の詳しそうな第3者に質問してください。この場合、推敲の目的は「百科事典らしい分かりやすい文章をつくること。」で制約条件の「事実だけを書くこと。」を満たす必要がある、と伝えてください。

私の文章も後から見直すと修正したい部分が多々あります。上手な文章をご教授いただきいので、よろしくお願いいたします。--Doorurban 2010年4月13日 (火) 17:13 (UTC)[返信]

Doorurbanさん、遅くなりました。ご丁寧にありがとうございます。 私も極力Doorurbanさんの意向に沿えるように、文章を形成していきたいとは思いますが、簡略化のしすぎで客観的要素が失われる事は避けたいと思っております。

指摘された3ヶ所の私の修正は、制約条件の「事実だけを書くこと」や「分かりやすい文章をつくること」に反するかもしれませんが、根拠・理由がない場合、それは客観的文章に反すると思ったからでもあります。すなわち、簡略化しすぎた文章の場合、読む人によっては「どうしてこんな事が言い切れるのか?理由がないと納得できない」という事にもなりかねません。
それを避ける為には、ある程度「事実だけを書くこと」「分かりやすい文章をつくること」にそぐわなくても、それなりの根拠・理由を付加して客観的文章を作る為には、やむを得ないと思っております。

ただ、私はDoorurbanさんが間違ってるとは言ってませんし、思っておりません。客観的要素があり、かつ事実だけを書いた分かりやすい文章というのが理想です。そして、客観的要素というのは、一人では判断できないものでもあります。推敲しても客観性は保たれてるとお思いであれば、編集に異を唱えるつもりはございません。--ボブソン 2010年4月23日 (金) 08:09 (UTC)[返信]

検証不能ながらも信頼できるとみなしている事柄[編集]

こんばんは。「検証不能ながらも信頼できるとみなしている事柄」は、ご存じの通り検証不能なので、他の記事で使われていようと出典にはなりえません。すでにそういうコンセンサスはできあがっているはずですので、「他のページ」についても要出典の貼りつけ、記述の除去は順次おこなわれるでしょう。すでにコンセンサスができあがっているものについて、これ以上「ノートにて議論する」必要はありますか。--Ohgi 2011年8月3日 (水) 18:20 (UTC)[返信]

Ohgiさん、ご丁寧にありがとうございます。

仰せの事は理解しようと努めておりますが、残念ながらOhgiさんは、権利ばかり主張して義務を一切果たしていないように思えております。

Ohgiさんが上記の事を述べる上で必要な義務は、

Ohgiさんが信頼できる情報源とはどういうものなのでしょうか?
→過去の放送ですら信頼できる情報源でないのならば、それ以上のものがあるという事でしょう。それって何ですか?それとも、そんなものはないのでしょうか?

「すでにそういうコンセンサスができあがっているはず」ならば、何故それらの例を示さないのでしょうか?
→もっとも、「はず」といってる時点で、Ohgiさんの推測の域に過ぎないと判断されても仕方がないということです。だからこそ、そういった例を示す必要があると思っております。

検証可能か検証不能かを、Ohgiさんを基準とした主観的意見のレベルで考えているのではないでしょうか?
→そもそも、過去の放送が検証不能と決め付けるのにも、些か疑問があります。①でどういった答えが来るかにもよるでしょうが、私は過去の放送が100%検証不能だとは思っておりません。

少なくともこの3つの義務が、Ohgiさんの主張を聞くためには必要不可欠であり、全て述べてもらわないと話になりません。

そして、「ノートにて議論する必要がありますか」と聞いておられますが、そんな事を尋ねてくるのには心底驚きましたね。 それはお互いを納得させる義務を果たそうとせず、自分の意見を突き通そうとするワガママな考えを持っているから出てしまう言葉なのです。

無論、そこまで言うからには、私もOhgiさんの返答によっては、納得しようとする姿勢もあるという事です。お互いが納得できるようにするのは普通に考えれば当然の事だと思っております。よい返答を期待しております。--ボブソン 2011年8月4日 (木) 14:32 (UTC)[返信]

こんばんは。
「信頼できる情報源」と「検証可能な情報源」は、必ずしも一致するものではありません。テレビ番組が「信頼できる情報源」か否かという面では、番組にもよりますけど概ねウィキペディアで出典に使える程度には「信頼できる」のではないかと考えております。むしろ今回は自己公表された情報源をその公表者の記事で使うのですから、「信頼できる情報源」であることには疑いの余地はないでしょう。(「記事が、自己公表された情報源を最重要な情報源としてい」るのでアウトではありますが。)
しかし、DVDなどが出ておらず、ビデオ・オン・デマンド等でも配信されていない、そんな番組を、正規の方法でどうやってあとから見ることができましょうか。正規の方法では、ちょっと検証する方法が思い浮かびません。あるなら出典として使用可能だと考えられますので、ぜひともお教えください。
そもそも「検証不能ながらも信頼できるとみなしている事柄」と要約欄に書いてありますので、「検証不能」であることはご理解いただいていると思いますが、なぜそのようなことをお尋ねになりますか。--Ohgi 2011年8月4日 (木) 15:37 (UTC)[返信]

Ohgiさん、ご丁寧にありがとうございます。いつもすぐに返答ができる訳ではございませんので、それについてはご了承ください。

『「信頼できる情報源」と「検証可能な情報源」は、必ずしも一致するものではありません。テレビ番組が「信頼できる情報源」か否かという面では、番組にもよりますけど概ねウィキペディアで出典に使える程度には「信頼できる」のではないかと考えております。むしろ今回は自己公表された情報源をその公表者の記事で使うのですから、「信頼できる情報源」であることには疑いの余地はないでしょう。』
→「信頼できる情報源」と「検証可能な情報源」が一致するものではない事は存じております。むしろ、それを言い換えれば、情報源は以下の4つに分けられると言えるでしょう。

(A)「信頼でき、かつ検証可能な情報源」
(B)「信頼できないが、検証可能な情報源」
(C)「信頼できるが、検証可能ではない情報源」
(D)「信頼できず、かつ検証可能ではない情報源」

そして、テレビ番組すなわち、過去の放送を「信頼できる情報源」とみなしている点では、Ohgiさんも私も同じとみなしてよろしいかと思います。つまりこの時点で、(A)か(C)の情報源に絞られます。

とすれば、Ohgiさんと私の違いは、Wikipediaに掲載する情報源に関しては、Ohgiさんは「(A)でなければならない」という理論に対し、私は「(A)が理想ではあるが、場合によっては(C)でもよい」という理論であり、ここがおそらく両者の最大の違いであり、最大の争点であると思っております。信頼できない(B)や(D)は論外ですが…

『しかし、DVDなどが出ておらず、ビデオ・オン・デマンド等でも配信されていない、そんな番組を、正規の方法でどうやってあとから見ることができましょうか。正規の方法では、ちょっと検証する方法が思い浮かびません。あるなら出典として使用可能だと考えられますので、ぜひともお教えください。』
→おそらく、①に対する回答かと思われます。私は上記の理論から過去の放送は(C)とみなしており、(A)のような情報源を検証する方法がないならば、過去の放送を情報源にすればよいと思っております。

Ohgiさんの仰るような、DVDやビデオ・オン・デマンドの配信などは、検証可能であっても著作権などの問題からWikipediaに載せられる事ができない可能性もあるため、(A)の情報源でなければならないというOhgiさんの理論には無理があると思います。さらに、もしOhgiさんの(A)の情報源でなければならない事を基準とすると、テレビ番組に限らず、現在のWikipediaの全ページの一文一文にもそういった出典が抜けている箇所が多々ある事になり、それらを全て追加しなければならない事になります。

Ohgiさんの理論を元に進めると、一文一文に(A)の情報源を付け加えていかなければならないため、その情報源を全て追加したとすれば、Wikipediaのページの容量はどうなるでしょうか?膨大過ぎる上に、読み手にとって分かりづらくなるという事の想像がつかないでしょうか?
Wikipediaのページの決まりとして、「簡略化し、分かりやすい表現を用いる」という事もルールとしてあると思います。そういった意味で、(A)でなければならない情報源はある程度は必要ながらも、それを一文一文くまなく載せる事は、逆に簡略化した分かりやすいWikipediaのページ作りに反するという事です。

もちろん私のように、「(A)が理想だが、(C)でもよい」という理論にも弊害があります。検証可能ではないとなれば、悪しきユーザーの悪戯などによる、偽情報や真実でない事も書かれる可能性はあるでしょう。
ですがそれを防ぐ為に、投稿ブロックや半保護などの措置もあるのです。仰せの通り、(C)は(A)と同様に信頼できる情報源である事はお認めになっていらっしゃるので、それは信頼できる情報源であると分かるユーザーのそういった措置によって、回避できるものであると思っております。

つまり、「(A)でなければならない」ことを徹底するOhgiさんの理論には、一つの利益を求めると同時に、その他の損益をも生む結果となっているのです。利益のみであればそれでよいのですが、損益をも混在してしまうので良くないという事です。

それに対し私は、(A)が理想であるが、(A)を満たす為の『検証する方法が思い浮か』ばないのであれば、(C)でもよいという理論ですので、それで対応させればよいという考えです。弊害はあれど、損益も少なく済むという考えです。

現在のWikipediaのルールがこういう方法なので、もしこれを覆すには、②に回答してWikipediaのルールが変わっている事を示さなければなりません。

『「検証不能ながらも信頼できるとみなしている事柄」と要約欄に書いてありますので、「検証不能」であることはご理解いただいている』
→多少誤解されております。テレビ番組が検証不能とまでは言っていないつもりです。ただ、客観的には検証可能とも言えず、検証不能である事に完全否定はできないので、仮に検証不能であるとしたというレベルの上で、他の事柄を含めて言ったまでです。

納得されたかどうかは分かりませんが、一応、問われた事に対して回答させていただきましたが、いかがでしょうか?--ボブソン 2011年8月7日 (日) 08:32 (UTC)[返信]

2に対する返答としては、Wikipedia:検証可能性という文章の提示を以って十分であると考えています。「ウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけ」でありまして、正規の方法で検証をすることが不可能な情報源が出典として使用できるはずがありません。
出典をつけすぎて「簡略化した分かりやすいWikipediaのページ作り」ができなくなってしまうことは、ウィキペディアにとって「損益」ではないですよ。高品質な記事ほど「ページの容量」は大きくなるでしょうし、「読み手にとって分かりづらくなる」というのは、脚注にリンクがつくので、紙の媒体で脚注をつけるよりもわかりやすいのではないかと思います。むしろ、読者にとっては参照しやすい情報源、参照しにくい情報源があるでしょうから、記事についている出典が多ければ多いほど、読者は検証しやすくなります。これは「損益」ではなく「利益」です。
「Wikipediaのページの決まりとして、「簡略化し、分かりやすい表現を用いる」という事もルールとしてある」ということですが、こんなルールは知りません。もちろん私もわかりやすい記事のほうがいいと思いますし、不文律としてこういうものもあるかもしれませんが、三大方針よりも優先すべきこととは思えません。--Ohgi 2011年8月7日 (日) 08:58 (UTC)[返信]

Ohgiさん、ご丁寧にありがとうございます。

2に対する返答としては、Wikipedia:検証可能性という文章の提示を以って十分であると考えています。
Wikipedia:検証可能性がご返答というのは、質問した私にも責任はあると感じてはおりますが、ちょっと質問の意味をOhgiさんが理解されていないように思われます。

なぜ理解されてないかを順を追いながら申します。

Wikipedia:検証可能性の記載されている事は尤もな事ではあります。ですが、これはつい最近出来上がった新ルールではなく、Wikipediaが作成されて間もないルールであると思います(多少の変遷はある事も理解しております)。そのルールに則り、多くのページが作成されたわけですが、「ネプリーグ」で今回ご指摘された箇所に限らず、「ネプリーグ」以外にも多くのWikipediaのページにおいて、Ohgiさんが述べる基準に満たない(C)の情報源でも、これを容認して満たしているページが多々あるのです。

つまり、現在のページ作りの流れではという意味でですよ、現在のページ作りの流れでは、Wikipedia:検証可能性というルールの範囲において、『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』などといった記載はありつつも、Ohgiさんが主張する(A)の情報源しか存在し得ないページ作りにはなっていないという事なのです。言い換えれば、ほとんどのユーザーが(A)だけでなく(C)でもよいという流れのままページを作成しているのであり、信頼できる(C)を排除するような動きにはなっておらず、(C)を容認している暗黙の了解なのです。

そして本題です。質問を理解されていないという事はどういう事かと申しますと、私が聞いているのは、こういった暗黙の了解を見直そうとする最近の新たなルールが作成されたのかという事であり、それを示して欲しいという事なのです。「検証可能性」を示しただけでは、暗黙の了解として(C)を容認しても問題はないという流れの現在のルールであり、不十分であるという事です。

こんな暗黙の了解だから(C)を容認しても仕方ないとする姿勢に、おそらくOhgiさんは納得されないでしょう。しかし、これを根本的に覆すには、私だけでなく、あらゆるユーザーを納得させなければなりません。

だからこそ、そういった最近の新たなルールがあれば多少はOhgiさんの意見も可能ですが、それを示せず「検証可能性」だけに留まるならば、私を納得させる事はできても他のユーザーを納得させる事はできず、結局は(A)(C)が正しいという事になるでしょう。

出典をつけすぎて「簡略化した分かりやすいWikipediaのページ作り」ができなくなってしまうことは、ウィキペディアにとって「損益」ではないですよ。高品質な記事ほど「ページの容量」は大きくなるでしょうし、「読み手にとって分かりづらくなる」というのは、脚注にリンクがつくので、紙の媒体で脚注をつけるよりもわかりやすいのではないかと思います。
→「脚注にリンクをつければよい」、実に想定内のお答えです。しかし、そう簡単に上手くいくでしょうか?

Ohgiさんはこの答えから、一文一文にくまなく出典をつけてもいいというお考えとみなしております。とすれば、今回の「ネプリーグ」のようなページでは、句点だけでも300を越すと思われますので、一文一文に出典をつけるとあれば約400以上の出典を脚注にリンクさせてもいいという考えになります。

そんな多くの出典をリンクさせておいて、容量には問題がなく分かりやすい文章にもなり得るというお考えには理解ができません。

あるいは、(A)を満たす情報源がないならば、その文章はバンバン消していけばいいというお考えでしょうか?それはおそらく下記のような弊害が起こります。下の文章をご覧下さい。


(1)私は饅頭を買いました。
   ↓
(2)これからおばあさんの家に行く為、お土産として饅頭を選んだからです。
   ↓
(3)おばあさんの家に行く途中、私は道に躓き転倒してしまいました。
   ↓
(4)おばあさんの家に着いた時、顔に傷跡があって血も少し流れていました。
   ↓
(5)おばあさんは手当てをしてくれて、私に1000円くれました。


この中で、(1)と(5)は(A)を満たす情報源が存在しておりますが、(2)(3)(4)には存在しておりません。Ohgiさんのお考えでは(A)を満たす情報源がなければならないので、(1)と(5)だけを載せ、(2)(3)(4)は省略しなくてはなりません。したがって、編集した文章は以下の通りになります。


(1)私は饅頭を買いました。
   ↓
(5)おばあさんは手当てをしてくれて、私に1000円くれました。


???意味が分かりませんよね?実際にはこういう弊害も起こります。

これは単純な文章ですが、実際にWikipediaの文章に当てはめてみてください。こういった事になり支離滅裂な文章になりかねない事も否定はできませんよね?

これは私の推測も含まれますが、Ohgiさんのお考えである(A)による情報源で、Wikipedia:検証可能性を徹底化するという考えは方針として間違いではないものの、実際にWikipediaで文章を作るに当たり、(A)の情報源のみでは文章作りが困難であるという事をこれまでのユーザーが察知したのだと思います。だからこそ、検証可能性というルールとしては一応存在するものの、暗黙の了解というものが必要になるという流れになると思います。(C)が加わるのは仕方ないのだということだと思います。

これを見て、いやまだ(A)だけでも十分に可能なんだというお考えがあるならば、それはそれでいいでしょう。ただ、その為には私に留まらずあらゆるユーザーにおいて、大きく変えようとしていることをアピールしないと説得力がないと思います。--ボブソン 2011年8月10日 (水) 17:33 (UTC)[返信]

脚注にリンクをつける方法をご存じでしょうか。Help:脚注に詳しく書いてありますが、MediaWikiで脚注にリンクをつけるのは、非常に簡単です。脚注がついているページは、私が書いた記事でも国民ソケットなど、他の方が書いた記事でも古川沼那智参詣曼荼羅など、うまくいっているものが多くあります。
「これを見て、いやまだ(A)だけでも十分に可能なんだというお考えがあるならば」について、可能じゃないですよ。(2)から(4)を書くために出典を必死で探している人がいます。しかし、出典がないために書けず、悔しい思いをしている人だっているんです。
「ほとんどのユーザーが(A)だけでなく(C)でもよいという流れのままページを作成しているのであり、信頼できる(C)を排除するような動きにはなっておらず、(C)を容認している暗黙の了解なのです。」に関して、その「(C)でもよいという流れのままページを作成している」利用者は、単に検証可能性を読まないで投稿している方でしょう。検証可能性を読まない人がいることを根拠に、検証可能性を無視していいという論理は通用しません。--Ohgi 2011年8月11日 (木) 01:22 (UTC)[返信]

Ohgiさん、ご丁寧にありがとうございます。そして完全に勇み足をしてしまいましたね。

返信を当分していなかったので、私がOhgiさんのご質問に対して回答に詰まったとお思いになり、合意が形成されたものと判断されたのでしょうか?

実を言いますと、即座に回答してもよかったのですが、Ohgiさんは私の質問の一部しか答えておらず、また都合の悪い部分はごまかしているご返答の傾向にあるため、おそらく次もそんなご返答となる事が予想され、回答してもあまり意味がないと思い、作戦を変更してOhgiさんのご反応を伺う為に、わざと更新せずにいたのですよ。いわば駆け引きというものです。

Ohgiさんの理論って、確か(A)以外の情報源は認めないというお考えでしたよね?それは、今までにここで散々仰ってきたわけですから、今さら否定してはいけません。

だとすれば、私が合意を形成されたとする際にも、それが示される信頼できかつ検証可能な(A)の情報源がある事を前提に編集したはずですよね?ですが、私はそんなものを示した覚えもないですし、そんな情報源を出した覚えもありません。

いわば、「私が合意を形成された」は(A)の情報源ではないので、Ohgiさんの理論では、編集の材料や理由にしてはいけないという事になるのです。

(A)の情報源以外認めないはずのOhgiさんが、私が合意を形成されたなどという、明らかに(A)でない情報源、あるいは推測で編集するなんておかしいですよね?どういう事でしょうか?矛盾してませんか?

誤解のないように言っておきますが、更新が途絶えた為に回答に詰まったとお思いになられるような事に対しては間違いであるとは言いません。

  • もし編集する前に再度Ohgiさんがノートにて催促し、それにも関わらず更新を途絶えたままにしていたならば、そういう風に判断される事もやむを得ないでしょう。それは同時に、Ohgiさんの勇み足を誘導する事が出来ず、私の駆け引きは失敗だった訳です。
  • ですが、Ohgiさんはそれをせず、「私が合意を形成された」などという(A)でない情報源を用いて編集をした事により、自ら(A)の情報源だけで編集する事はできなかったという事をその編集によって認めてしまいました。それが、Ohgiさんの勇み足であり、それを誘導する事ができ、私の駆け引きは大成功という訳です。

Ohgiさん、ここまで散々嫌味口調で言ってますが、私は何もOhgiさんの意見が完全に間違ってるとは言ってないつもりですし、真っ向から対立するつもりはないです。これも誤解のないように言っておきますが、最初に申した通り、納得しようとする姿勢はあるわけなんです。 返答に時間をかけてはおりますが、回答に詰まって更新を途絶えさせるような卑怯なマネをするつもりはありません。どんなに時間がかかろうと、更新は行いますし、認める時は認めます。

ですが、あなたの勇み足編集でも証明されたように、実際に(A)の情報源だけしか認めない編集なんて不可能なんですよ。

そして、前のご回答ですが、

脚注にリンクをつける方法をご存じでしょうか?
→存じております。私もたまにそういう方法でリンク付けをしたりして編集しております。それを前提の上で容量が大きいという事です。もしもリンク付けせずかつ容量に問題ないというお答えだった場合は話になりませんからね。

出典がないために書けず、悔しい思いをしている人だっている&検証可能性を読まないというユーザーがいる
→それらとて(A)の情報源によって示す事ができるのでしょうか?それも示せないならば、Ohgiさんの理論ではダメという事になります。また勇み足です。
ただ、大多数のユーザーもいる訳ですし、そういった思いをしてきたユーザーや読まないユーザーもいる事に否定はできません。そこはOhgiさんの理論には疑問がありつつも受け入れましょう。問題はそこよりも、下の回答です。

検証可能性を読まない人がいることを根拠に、検証可能性を無視していいという論理は通用しません。
→ですから、そんな事をここで述べたってせいぜい私だけを納得させるにすぎないんですよ。

今現在そういう論理が通用しているという認識が、多くのユーザーにあるんですから、前と重複するも敢えて言いますが、私だけでなくあらゆるユーザーにおいて、大きく変えようとしていることをアピールしないと説得力がないんです。そうした大きな動きを示してくれれば、あらゆるユーザーも納得させられるので示して欲しいと何度も言ってるのに、Ohgiさんはその辺をごまかしてるのか回答していないんですよ。

駆け引きや嫌味口調については謝罪いたします。ですが、これによってOhgiさんの勇み足を誘導させ、ある程度Ohgiさんに理解してもらう為に敢えて行いました。

もし次に回答される際には、多くのユーザーを納得させるための大きな動き、少なくともこの部分は絶対に示してください。またごまかし回答になる事のないようによろしくお願いします。--ボブソン 2011年8月18日 (木) 14:54 (UTC)[返信]

「多くのユーザーを納得させるための大きな動き」、これは今は提示できません。この部分が提示できないがために、ご察しの通りごまかしておりました。こちらについて、Wikipedia:コメント依頼/ボブソンで、今からその動きをしてみることにしました。Wikipedia:コメント依頼/ボブソンでは、ボブソンさんのお考えについて要約したところがありますので、ボブソンさんのご見解と相違がないかご確認いただければありがたいです。
そもそも、「暗黙の了解」だって、「簡略化し、分かりやすい表現を用いるというルール」だって、明文化されたものがどこにもないのだから、それの反証などどこにもありません。もしも、「暗黙の了解」や「簡略化し、分かりやすい表現を用いるというルール」が明文化されているのなら、これらの不適切なルールへの反証がどこかにあるはずですから。
私の動きについて。今回の動きは、Wikipedia:合意形成#合意形成を参考に、「合理的な期間」反対意見がなかったので、合意形成と判断しました。Wikipedia:検証可能性は標準名前空間の記述に適用される方針でありまして、それ以外の名前空間での私の発言、あるいは標準名前空間においても私の行動それ自体については適用するつもりがありません。--Ohgi 2011年8月18日 (木) 15:45 (UTC)[返信]

Ohgiさん、ご丁寧にありがとうございます。

合意形成につきまして、合理的な期間に基づいたという部分については納得いたしました。そういう事であれば、私情による判断でないという事も多少は伺えます。

ですが、掲載している期間について明確な定義とはいえず、人によっては曖昧と捉えられても不思議ではない表記なので(←具体的にいうと、「168時間程度が妥当でしょう」と記載されている部分が曖昧ということ)、168時間経過後に即座に合意形成と判断されるのは早計であると思います。少なくとも前にも申した通り、返信がないならば再度ノートにて催促する必要はあったと思われます。この議論が多くの他者を含むならともかく、ターゲットは私だけなので催促にて意思を確認する事は困難ではないはずです。

Wikipedia:検証可能性は標準名前空間の記述に適用される方針でありまして、それ以外の名前空間での私の発言、あるいは標準名前空間においても私の行動それ自体については適用するつもりがありません。
→それは明らかにずるいご回答です。

というより、適用する場合としない場合とがあるなどとするそのようなご回答が許されてるから、多くのユーザーがwikipedia:検証可能性による(A)の情報源しか用いてはならないというルールにも、守っても(適用しても)守らなくても(適用しなくても)いいという考えも許されるという事になるのです。また勇み足という事になりますよ。

そもそも、「暗黙の了解」だって、「簡略化し、分かりやすい表現を用いるというルール」だって、明文化されたものがどこにもないのだから、それの反証などどこにもありません。もしも、「暗黙の了解」や「簡略化し、分かりやすい表現を用いるというルール」が明文化されているのなら、これらの不適切なルールへの反証がどこかにあるはずですから。
→それはOhgiさんの理論に沿った考え方です。最も肝心であるOhgiさんと私の理論が根本的に違うという事をお忘れではないでしょうか?

明文化されたルール、すなわちこれも(A)の情報源です。「暗黙の了解」「簡略化し、分かりやすい表現を用いるというルール」は明文化されたルールではなく(A)の情報源ではありません。ですからOhgiさんの理論では確かにダメなんです。

ですが、私は(B)や(D)の情報源でもなく、(C)の情報源だと思っております。今までの編集がこれらに沿っており、「暗黙の了解」や「簡略化」のルールが信頼できない情報源であるとは言えないからです。そして私の理論では(A)(C)でも良いので、明文化されてなくても良いという事です。

つまり、こういった私の考えを覆すには、Ohgiさんの理論ではなく私の理論に立った上で、「暗黙の了解」「簡略化」のルールが(A)でも(C)でもなく、(B)や(D)といった信頼できないという事を立証するしかありません。

私も、Ohgiさんの考えを覆す上で、Ohgiさんの理論に立った上で前回のような駆け引きを行いました。他人の意見を覆すのに自分の理論で立てても説得力がないのです。

「多くのユーザーを納得させるための大きな動き」
→少なからず、そういう動きを行おうとしている事はありそうですね。これについてはおそらくそのページに移った方が良さそうですね。--ボブソン 2011年8月20日 (土) 15:03 (UTC)[返信]