コンテンツにスキップ

利用者‐会話:佐藤憲太郎/sandbox

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

佐藤憲一、 昭和43年4月10日 佐 宮城県栗原郡若柳町に生まれ

当時は家では商売 していたようだ

「ヤマニ」という屋号の玩具の卸業だったと、聞かされていた、自分が3歳の頃、 時代の流れか、チェーン店が増え仕事も減り

七人家族の大所帯だったが、借金の形土地も失い 家族バラバラに 

当時の町営住宅に住むことになり、親父は単身赴任で大阪へ、 お袋が自分たち家族人を養い、親父がいない間に 、隣り町(石越町)に土地を買いそのうち親父も単身赴任か戻り。家を建てる事になり、、改めて家族人で新居に暮らすことになる。 自分は小学校を転校することになり、いじめや、友達作りに大変苦労した記憶がある。 しかし、 いま思えばそれは それは とてもいい経験となっている。人の痛みや苦しみや 嬉しさを、考えることをするようになった、と思う。自分がされて嫌なことは、人(他人)もされると嫌であろう、とか 自分がされて嬉しいことは、きっと相手もうれしいいだろう。など、人の気持ちを考えるということを覚えた。てか、学んだのだ。 その後だんだんと良い友達にも恵まれてきた。 その仲間達や友達と剣道に出会い、中学 高校と剣道を続けた。 高校は工業高校進み 中学での剣道は、すごく厳しい練習に耐えたからか、得たことがたくさんあった。そのおかげなのか、高校の高体連大会では 県大会で三位と好成績を上げることができたのだ。 そして卒業間近、就職活動にて当時は一流企業のコンピュータ会社富士通ビジネスシステム)に就職した。 コンピュータエンジニアをし、二年目にして当時の上司の課長に推薦され営業への配属を推薦される。、しかし、営業とは、大卒者が配属される部署その営業所には有名大学を卒業した先輩方達ばかり、 田舎の無名工業高校卒の自分は必死に先輩方についていき、とにかく真似をし、何もかも真似をし、テクニックや話し方人との付き合い方、など、など恥をかき汗をかき ビジネスマン、として、 の基本から仕事の仕方、取り組む姿勢や気持ちの持ち方 とにかく、がむしゃらに、遊びも仕事もがむしゃらだった。 そして成果もあり、営業キャンペーンなどでは、関東地区でナンバー3の営業成績に、当時23歳 の自分に 部長より、課長試験を受けないか?と打診されたこともあった。が 大先輩の方々の手前低調にお断りした。出世街道驀地(まっしぐら)の矢先に、実家の母より電話があり、親父が、「両目が網膜剥離で手術をしなければいけないと、仕事出来ないかも」と、ピンチ、相当不安だったのであろう様子だった、ので 上司に地元への転属願いを出すが、却下され、やむを得ず、退職し実家へ帰ることにした。地元に戻り、就職先を探すも 経験した様な仕事は無く製造工場へと就職することにした、。 そこで、生産工場(FRP製品の製造)なのだが 営業所を立ち上げになることになり、俺を当てにするなよーと、思いながら、もちろん営業経験者 の自分が、中心となり、商社、建設業者相手にユニットバスを販売する{岩手県南宮城県内山形県内福島県、と受け持ちひろい範囲の営業テリトリだった、。 営業の先輩もいなければ、営業の上司もいなく、自由に営業回り、顧客開拓をしていった、 楽しくも あったが責任やプレッシャーは、かなりのものだった、もちろん得た事も たくさんあった。「自分は本当に運がいい、、常に、ピンチの時にはチャンスになっていたただ貪欲に すべての経験を吸収してきた様な気がする導かれるの様に。やはり、また時代の流れなのか住宅建て売り、ブームラッシュが終わり、その工場はユニットバスの製造と販売を辞めることになった。よって自分の役割(営業職)がなくなってしまい、退職することにした。その後 色々と転職を繰り返し人材派遣での製造工場ラインの工場にも勤めたこともあったし、それからも転職を繰り返し、色々な営業職にも就いた、おかげ(運良く)なのか、友達はたくさんできた、し たくさんの業種に出会った。これも、自分にとってはプラスになることばかり、だった、と、異業種に、それぞれ楽しかったので良かった。から、良しとして、技術屋から営業屋に営業戦略、戦術と成長した、自分に自信が着いた。過剰なくらい自信家に お調子乗りすぎ過ぎる時もあり、抑えて、謙虚にと、時折、自分に言い聞かせる。!

そして 生産工場(FRP製品の製造)に勤めている頃に現在の妻と出会い、結婚することになる。結婚式も盛大に行われた。親のおかげです、感謝です。新婚旅行にも行きました。人生初の海旅行です。飛行機に乗るのも初めてで、それは、自分の人生観や世界は広い、小さな国の小さな人間の一人なのだと、自分のちっぽけさがしみじみ身に染みた。この世に生を受けた自分の存在はなんなのか?とか、何のために生まれてきたのか?などと、少し哲学みたいに自問自答をし始めた そして、自分の存在価値は、自分で作るのだ!、と自分に問う。自分の人生や、存在意味存在価値など常に心にある毎日を過ごしていた、色々と転職を繰り返し人材派遣での製造工場ラインの工場にも勤めいた頃夜勤明け、妻から電話があり、


「フラフラする顔が痺れる、」夜勤明けだが妻を近くの病院へ連れていくが 原因分からず、地元の公立病院へ行き整形外科でCT検査したところ頭に影があると言われ救急で脳神経の専門の病院へ行ってくださいと、救急車で行きますか、それとも付き添いの旦那さんといきますか?とで自家用車で一関の磐井病院へ行くことにした。え?なに?なに?と、最悪?と混乱した中病院へ向かいながら涙が込み上げてきて病院到着、即、入院となった真っ先に妻の家族自分の実家へと連絡をする。もう、頭は真っ白だった、息子を迎えに行ったり息子への説明はしばらくお母さん病院にお泊りだからと伝治療は薬のみで10日間の入院で済みました。 一時ははどうなる事かと心配でしかたがなかった。 でも無事元の生活に戻り、一安心。地獄のような10日間だったそして復帰して間もなく妻はまた所属していたバレーボールチームに戻り練習や試合にもバンバン参加した、いつも楽しそうにナレーの話をするから、俺も参加、チャレンジしてみた、キツイ キッツイ!こなに激しいのかとよくやってるなーと妻のパワー に今更驚いた。 派遣先の仲間たちを誘いまた練習に参加させてていただいたそこで火が付き、自分達でチームを作りバレーボール協会にも登録し大掛かりになってきた。そのとき作ったチーム及び団体名響心会と言うスポーツ振興団体ができた 仲間の中にサッカー経験者がいたのでフットサルチームも立ち上げることにもなった。バレーもフットサルも大活躍し響心会もまとまりが良くお花見会やバーベキュー会なども盛んだった。自分中心となって纏めてきた響心会は色々な意味で勉強になった。大人になってからの青春の様だった 友達以上の仲間ができた気がするその友人、良きひと人間たちに恵まれた。俺は本当に運がいいそこで、 俺がやらねば、俺がみんなを纏めなければと、自分の存在意味や存在価値など少しだけど感じられた、楽しい嬉しい仲間たちはそれぞれの得手不得手を尊重し合う奴らだったから人間関係は最高の団体だった、行政とのスポーツ振興団体登録など行政との絡みも学んだ。 人材派遣での製造工場も不況の影響でリストラがあり、自分も再度、営業職を目指す。就職活動し食品営業など転々とし,

事務機販売の会社に入りそこで先輩の手伝いで顧客を引き継ぎ、介護詩担当することになる。登米市の社会福祉法人や小規模施設もたくさん回った。そして、介護の現場を見る機会が増えた。毎日が昨日と同じ毎日の中

どこの介護現場も同じ風景、ホールのいつものテーブルの前におばあさん奥ノテーブルにはおじいさん達、いつもの風景、僕は事務用品の配達、 どこの施設のホールの風景はいつもと変わらない ある時、いちもの様に納品配達、いつものテーブルの前にいる おばあさんが、「いつもご苦労様、」と声をかかけてくれた。」そこからお話す 様になって、おばあさんの昔の話しや農作業の話しや家族の話しただ聞いていただけだけど、楽しそうに話してくる。僕は今日の天気の話しぐらいしか話題が見つからない、納品受領書にサイインをもらいそそくさと、仕事にもどる、おばあさんに「またね」と、そしてまた、そのうち、その施設に納品しに行く と いつもの風景、いつものテーブルにいつものおばあさん「ご苦労様と」 「今日も暑いね~」などと、話すと、「少し休んで行かいん」と 車イスに座っているから多分、足が不自由なのだろう?!くらいにしか思わなかったけど、 不自由な自の事より赤の他人の.僕を気遣ってくれた ,その言葉が もの凄く嬉しかったし、感激した。 後ろを振り返ると従業員職員さんたちは、汗ダラダラになって走り回ってる。介護の現場はこういうものなのかな?っておもった、どこの施設も同じ お年寄りはおとなしく テーブルの前に居る。 段々と同じ毎日の中、疑問、が増えてくる、なんで? どうして? と お年寄りと話す機会が増えてくると.この人達は体が不自由で、おとなしく してる、のではない! と感じた。従業員、職員ん、の為におとなしく、ただ、座ってるんだ! お昼前になると、部屋からお年寄りが、運ばれてくる、連れてこられてるのでは無い‼️ 偽善だな、こりゃ((>_<) これでいいのか? これが老人ホームってやつなのね! そして、また疑問 自分だったら?じ自分が老人ホームの、介護員だったら?あのおばあさんやおじいさん達に同じ様にするのかな?身体不自由さ以外、違う面で自由にできないかなぁ と、 なんで、老人ホームに、入ってるの? と、 思うようになってきて、いつも、じふんだったらら?、どうする? と、自問自答を考える、同じ毎日を過ごす中、 ある時^、あるおばあさんに「あんだ、ヘルパーさんじゃないの?」と言われた「うん 事務機屋さんだよ」と そうだ! 自分だったらの?答えを見ける、方法を、見つけた! 自分でやろう!自分がたくさんの疑問の答えを、見つけて自分の思う疑問を、答えを見つけよう! どうやって? 携帯やパソコンで検索、検索!! とりあえず、ヘルパー?、資格 え~ ?? この歳で勉強?今更? でも、俺なら、できる!だ いや、俺がやるべきだ!と、思った! 2011年~福祉介護の仕事を自分で始て困ってる人を助けたり、したいと思ってます。しかし、 2015年に、脳梗塞で、右脳を全部壊死し、失って生死を彷徨い、半身不随、不自由してますが 左脳たけで、生きて行きます。! 神に選ばれた人間だもの


宮城県栗原郡若柳町に生まれ
当時は家では商売 していたようだ

「ヤマニ」という屋号の玩具の卸業だったかな自分が3歳のころ時代の流れか、チェーン店が増え仕事も減り

七人家族の大所帯だったが、借金の形に 家も土地も失い 家族バラバラに 

当時の町営住宅に住むことになり、親父は単身赴任で大阪へ、 お袋が自分たち家族人を養い、親父がいない間に 、隣り町に土地を買いそのうち親父も単身赴任か戻り。家を建てる事になり、、改めて家族人で新居に暮らすことになる。 自分は小学校を転校することになり、いじめや、友達作りに大変苦労した記憶がある。 しかし、 いま思えばそれは それは とてもいい経験となっている。人の痛みや苦しみや 嬉しさを、考えることをするようになった、と思う。自分がされて嫌なことは、人(他人)もされると嫌であろう、とか 自分がされて嬉しいことは、きっと相手もうれしいいだろう。など、人の気持ちを考えるということを覚えた。てか、学んだのだ。 その後だんだんと良い友達にも恵まれてきた。 その仲間達や友達と剣道に出会い、中学 高校と剣道を続けた。 高校は工業高校進み 中学での剣道は、すごく厳しい練習に耐えたからか、得たことがたくさんあった。そのおかげなのか、高校の高体連大会では 県大会で三位と好成績を上げることができたのだ。 そして卒業間近、就職活動にて当時は一流企業のコンピュータ会社富士通ビジネスシステム)に就職した。 コンピュータエンジニアをし、二年目にして当時の上司の課長に推薦され営業への配属を推薦される。、しかし、営業とは、大卒者が配属される部署その営業所には有名大学を卒業した先輩方達ばかり、 田舎の無名工業高校卒の自分は必死に先輩方についていき、とにかく真似をし、何もかも真似をし、テクニックや話し方人との付き合い方、など、など恥をかき汗をかき ビジネスマン、として、 の基本から仕事の仕方、取り組む姿勢や気持ちの持ち方 とにかく、がむしゃらに、遊びも仕事もがむしゃらだった。 そして成果もあり、営業キャンペーンなどでは、関東地区でナンバー3の営業成績に、当時23歳 の自分に 部長より、課長試験を受けないか?と打診されたこともあった。が 大先輩の方々の手前低調にお断りした。出世街道驀地(まっしぐら)の矢先に、実家の母より電話があり、親父が、「両目が網膜剥離で手術をしなければいけないと、仕事出来ないかも」と、ピンチ、相当不安だったのであろう様子だった、ので 上司に地元への転属願いを出すが、却下され、やむを得ず、退職し実家へ帰ることにした。地元に戻り、就職先を探すも 経験した様な仕事は無く製造工場へと就職することにした、。 そこで、生産工場(FRP製品の製造)なのだが 営業所を立ち上げになることになり、俺を当てにするなよーと、思いながら、もちろん営業経験者 の自分が、中心となり、商社、建設業者相手にユニットバスを販売する{岩手県南宮城県内山形県内福島県、と受け持ちひろい範囲の営業テリトリだった、。 営業の先輩もいなければ、営業の上司もいなく、自由に営業回り、顧客開拓をしていった、 楽しくも あったが責任やプレッシャーは、かなりのものだった、もちろん得た事も たくさんあった。「自分は本当に運がいい、、常に、ピンチの時にはチャンスになっていたただ貪欲に すべての経験を吸収してきた様な気がする導かれるの様に。やはり、また時代の流れなのか住宅建て売り、ブームラッシュが終わり、その工場はユニットバスの製造と販売を辞めることになった。よって自分の役割(営業職)がなくなってしまい、退職することにした。その後 色々と転職を繰り返し人材派遣での製造工場ラインの工場にも勤めたこともあったし、それからも転職を繰り返し、色々な営業職にも就いた、おかげ(運良く)なのか、友達はたくさんできた、し たくさんの業種に出会った。これも、自分にとってはプラスになることばかり、だった、と、異業種に、それぞれ楽しかったので良かった。から、良しとして、技術屋から営業屋に営業戦略、戦術と成長した、自分に自信が着いた。過剰なくらい自信家に お調子乗りすぎ過ぎる時もあり、抑えて、謙虚にと、時折、自分に言い聞かせる。!

そして 生産工場(FRP製品の製造)に勤めている頃に現在の妻と出会い、結婚することになる。結婚式も盛大に行われた。親のおかげです、感謝です。新婚旅行にも行きました。人生初の海旅行です。飛行機に乗るのも初めてで、それは、自分の人生観や世界は広い、小さな国の小さな人間の一人なのだと、自分のちっぽけさがしみじみ身に染みた。この世に生を受けた自分の存在はなんなのか?とか、何のために生まれてきたのか?などと、少し哲学みたいに自問自答をし始めた そして、自分の存在価値は、自分で作るのだ!、と自分に問う。自分の人生や、存在意味存在価値など常に心にある毎日を過ごしていた、色々と転職を繰り返し人材派遣での製造工場ラインの工場にも勤めいた頃夜勤明け、妻から電話があり、


「フラフラする顔が痺れる、」夜勤明けだが妻を近くの病院へ連れていくが 原因分からず、地元の公立病院へ行き整形外科でCT検査したところ頭に影があると言われ救急で脳神経の専門の病院へ行ってくださいと、救急車で行きますか、それとも付き添いの旦那さんといきますか?とで自家用車で一関の磐井病院へ行くことにした。え?なに?なに?と、最悪?と混乱した中病院へ向かいながら涙が込み上げてきて病院到着、即、入院となった真っ先に妻の家族自分の実家へと連絡をする。もう、頭は真っ白だった、息子を迎えに行ったり息子への説明はしばらくお母さん病院にお泊りだからと伝治療は薬のみで10日間の入院で済みました。 一時ははどうなる事かと心配でしかたがなかった。 でも無事元の生活に戻り、一安心。地獄のような10日間だったそして復帰して間もなく妻はまた所属していたバレーボールチームに戻り練習や試合にもバンバン参加した、いつも楽しそうにナレーの話をするから、俺も参加、チャレンジしてみた、キツイ キッツイ!こなに激しいのかとよくやってるなーと妻のパワー に今更驚いた。 派遣先の仲間たちを誘いまた練習に参加させてていただいたそこで火が付き、自分達でチームを作りバレーボール協会にも登録し大掛かりになってきた。そのとき作ったチーム及び団体名響心会と言うスポーツ振興団体ができた 仲間の中にサッカー経験者がいたのでフットサルチームも立ち上げることにもなった。バレーもフットサルも大活躍し響心会もまとまりが良くお花見会やバーベキュー会なども盛んだった。自分中心となって纏めてきた響心会は色々な意味で勉強になった。大人になってからの青春の様だった 友達以上の仲間ができた気がするその友人、良きひと人間たちに恵まれた。俺は本当に運がいいそこで、 俺がやらねば、俺がみんなを纏めなければと、自分の存在意味や存在価値など少しだけど感じられた、楽しい嬉しい仲間たちはそれぞれの得手不得手を尊重し合う奴らだったから人間関係は最高の団体だった、行政とのスポーツ振興団体登録など行政との絡みも学んだ。 人材派遣での製造工場も不況の影響でリストラがあり、自分も再度、営業職を目指す。就職活動し食品営業など転々とし,

事務機販売の会社に入りそこで先輩の手伝いで顧客を引き継ぎ、介護詩担当することになる。登米市の社会福祉法人や小規模施設もたくさん回った。そして、介護の現場を見る機会が増えた。毎日が昨日と同じ毎日の中

どこの介護現場も同じ風景、ホールのいつものテーブルの前におばあさん奥ノテーブルにはおじいさん達、いつもの風景、僕は事務用品の配達、 どこの施設のホールの風景はいつもと変わらない ある時、いちもの様に納品配達、いつものテーブルの前にいる おばあさんが、「いつもご苦労様、」と声をかかけてくれた。」そこからお話す 様になって、おばあさんの昔の話しや農作業の話しや家族の話しただ聞いていただけだけど、楽しそうに話してくる。僕は今日の天気の話しぐらいしか話題が見つからない、納品受領書にサイインをもらいそそくさと、仕事にもどる、おばあさんに「またね」と、そしてまた、そのうち、その施設に納品しに行く と いつもの風景、いつものテーブルにいつものおばあさん「ご苦労様と」 「今日も暑いね~」などと、話すと、「少し休んで行かいん」と 車イスに座っているから多分、足が不自由なのだろう?!くらいにしか思わなかったけど、 不自由な自の事より赤の他人の.僕を気遣ってくれた ,その言葉が もの凄く嬉しかったし、感激した。 後ろを振り返ると従業員職員さんたちは、汗ダラダラになって走り回ってる。介護の現場はこういうものなのかな?っておもった、どこの施設も同じ お年寄りはおとなしく テーブルの前に居る。 段々と同じ毎日の中、疑問、が増えてくる、なんで? どうして? と お年寄りと話す機会が増えてくると.この人達は体が不自由で、おとなしく してる、のではない! と感じた。従業員、職員ん、の為におとなしく、ただ、座ってるんだ! お昼前になると、部屋からお年寄りが、運ばれてくる、連れてこられてるのでは無い‼️ 偽善だな、こりゃ((>_<) これでいいのか? これが老人ホームってやつなのね! そして、また疑問 自分だったら?じ自分が老人ホームの、介護員だったら?あのおばあさんやおじいさん達に同じ様にするのかな?身体不自由さ以外、違う面で自由にできないかなぁ と、 なんで、老人ホームに、入ってるの? と、 思うようになってきて、いつも、じふんだったらら?、どうする? と、自問自答を考える、同じ毎日を過ごす中、 ある時^、あるおばあさんに「あんだ、ヘルパーさんじゃないの?」と言われた「うん 事務機屋さんだよ」と そうだ! 自分だったらの?答えを見ける、方法を、見つけた! 自分でやろう!自分がたくさんの疑問の答えを、見つけて自分の思う疑問を、答えを見つけよう! どうやって? 携帯やパソコンで検索、検索!! とりあえず、ヘルパー?、資格 え~ ?? この歳で勉強?今更? でも、俺なら、できる!だ いや、俺がやるべきだ!と、思った! 2011年~福祉介護の仕事を自分で始て困ってる人を助けたり、したいと思ってます。しかし、 2015年に、脳梗塞で、右脳を全部壊死し、失って生死を彷徨い、半身不随、不自由してますが 左脳たけでも、生きて行きます。!必要とされているなら。どうやら命に重さがあるようだ。ぼくのは重いらしい。