利用者‐会話:原 祥
はじめまして。高萩万次郎における編集ですが、wikipediaは典拠文献に基いて執筆するという原則がありますので、もしかしたら典拠文献自体に間違った情報が含まれていることもありうるのですが、修正するのにも典拠となる文献が必要となります。ですから現行の記事において誤った情報が含まれているのかもしれませんが、典拠文献を確保してから編集しなければなりませんので、いったん差し戻させていただきました。よろしくおねがいします。--でここ(会話) 2014年3月16日 (日) 13:46 (UTC)
(追記)すいません。もう一度申し上げますが、wikipediaは典拠文献に基いて執筆するという大原則があります。これはwikipediaの欠点でもあろうと思うのですが、たとえ間違った情報、古い情報を修正するにしても、典拠となる文献を確保する必要があるのです。どうか、この点を理解した上での編集をお願い致します。--でここ(会話) 2014年3月16日 (日) 13:58 (UTC)
(追記)典拠文献の提示ありがとうございます。あとは、今川文献と異なる二点(実名を「喜右衛門」、飯能でなく高萩を本拠としたこと)に関して、タグを用いて典拠文献・ページ数を示していただければ、記事は完璧なものになります。--でここ(会話) 2014年3月16日 (日) 14:12 (UTC)
でここ様、何度もコメントいただき、有難うございます。当方ウィキペディアを使ったのが初めてなため、編集の仕方がわからず大分不細工な次第になってしまいました。 申し訳ありません。今に至っても「脚注」のやり方がわからず苦労しているところです。 万次郎親分に関しましては、増田知哉氏の研究が文献、金石文を用いた本格的研究の嚆矢であり、今川氏の『新・侠客百選』もそれを受けて『侠客百選』から 記事を訂正をしたという経路があるのですが、なにぶん『新・侠客百選』の影響が強く、万次郎親分についてのイメージがあらぬ方向にすすんでしまったこと(万次郎=国分三蔵など)が たいへん悔やまれます。ご指摘の通り「万八郎」という名を訂正する文献をあげるべきなのですが、これが大変難しい。 と言うのも「万八郎」とした証拠が全く存在しない。戸籍(明治十四年)、墓石(現高萩)、文書(飯能市、学習院大学、青梅市その他)、里伝、更に 増田氏の研究、どれを見ても全く存在しないのです。おそらく誤植ではないかとすら思うのですが、ご指摘の通り、wikipediaは文の訂正のために文献を上げねばならぬので、 この点、納得いただけなければ、「万八郎」を使われても当方反論のしようがありません。 現在調査中ですので、紙の形で公表できる時には、その点について一言触れておきたいと思います。長文誠に失礼しました。--(原)
- 原様、返信ありがとうございます。原様はたいへん博徒関係にお詳しいご様子ですので、編集に参加していただけることは大変ありがたく思います。私も武蔵・関東方面の文献には不案内で、おそらく今川氏の著作は一般に読まれて楽しむことを目的として書かれた文献であろうと思われますし、髙橋氏が指摘なさっているように万次郎=国分三蔵説の根拠があやふやといった問題点を抱えているのがわかっていながらも、利用せざるを得ませんでした。原様の編集でそのあたりがクリアになりましたので、大変ありがたく思っております。それでは、失礼致します。--でここ(会話) 2014年3月17日 (月) 02:24 (UTC)