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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ8

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小諸藩の家臣団を大幅に増補・改訂

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小諸藩の家臣団を大幅に増補・改訂しました。まだ出典が甘いところがありますが、ひまをみて、適宜、補いたいと思います。長岡支藩なので記述の整合性も求められると思います。--今泉総一郎 2009年12月27日 (日) 21:34 (UTC)

小諸藩の家臣団の記事に手を加えていただきましてありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。また槇家系記は豊川市立図書館で、写本が閲覧できるそうなので、その内容はウィキペディアの掲載要件を満たすことが判明しました。--今泉総一郎 2009年12月31日 (木) 09:39 (UTC)

越後長岡藩の家臣団

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長岡竹垣氏は、由緒記の記述量が多く、何やらいろいろありそうです。越後長岡藩の家臣団に簡単に、書いては見ましたが、補筆などを頂くと、光栄です。--今泉総一郎 2010年1月7日 (木) 08:10 (UTC)

長岡家臣の安田氏、柿本氏、稲垣権右衛門家、長岡家臣としては大身ですが、着座家ではなかったのでしょうか。確認まで。--今泉総一郎 2010年1月7日 (木) 17:37 (UTC)

  • 【長岡の歴史】によれば、文化6年に安田多膳・柿本五左衛門が中老職に補せられており、柿本氏の場合は文政6年・嘉永4年にも中老職であったようですが、中老職は着座家である事が多いそうです。柿本家は初代が「後忠成公の守役」を勤め、2代目が用人、3代目は奉行役・寄会組、4代目も奉行役ですから着座家の可能性は高いと思われますが確証は持ち合わせていません。稲垣権右衛門(1100石)は年頭着座を許されて当然と思えますが、記録は未見でその扱いは解りません。--故城一片之月 2010年1月8日 (金) 14:27 (UTC)
  • 越後長岡藩の家臣団の引用文献に手を加えましたが、御随意に改訂ください。非売品とあるものは、すべて公立図書館に寄贈があり、閲覧可能なものに限定しました。小諸藩牧野氏年譜は、2次史料ですが、その1次史料を出せてとの要望を出されると、絶対にできないことはありませんが、私の時間的・経済的能力を超えてしまいます。小諸藩伺書は、一次史料で、出版物は存在しません。小諸では旧藩の士族の格式を公表することを、極端に嫌う傾向があると聞きます。小諸家臣・旧藩士族の格式をネットで公表したことは、郷土誌発展のための布告でもあります。この史料は、太政官に小諸藩庁が提出したもので、原史料は政府に提出されたもので、小諸には、写本があったとしても、原史料は存在しないものです。写本が小諸に残っているか否かは、私は知りません。鉄三郎氏の話によると、地元の郷土史家に会って話しを聞くと、前述のような事情と、小諸騒動の影響がいまだに尾を引いていることを痛感するそうです。--今泉総一郎 2010年1月8日 (金) 15:44 (UTC)
  • 越後長岡藩に山口氏の記述がなかったので、書いてみました。山口氏は何やら、わけありのようですが、何か情報を御持ちのようであれば、教えてください。--今泉総一郎 2010年1月8日 (金) 18:01 (UTC)
山口氏に関して、既に提示している長岡藩関係の参考資料以外に特に情報はございません。--故城一片之月 2010年1月10日 (日) 14:46 (UTC)
  • 番頭の説明のコメントアウトですが、私の書いたものではありませんが、当面は削除で同意します。槇三左衛門家の文書が出典だったと思いますが、いま写本が見当たらないのです。

当家は、由緒記には番頭として、登場しますが、平成の長岡市の展覧会では、奉行の家柄として紹介され、槇三左衛門家の古文書が出品され、地元の郷土史家の先生は、みなさん読んだことがあるはずです。長岡のどこかで写本が読めるのではないかと思います。この槇氏は、奉行から加増されて、番頭に異動するということを繰り返していた家です。つまり奉行から、中老・年寄り役には、全員はできないから、10石から20石の加増をして、花道として番頭にするということが行われていたようです。微禄の長岡家臣の槇氏は、この槇三左衛門家のわずかな加増分で、分家として分出されていった家系なのです。--今泉総一郎 2010年1月12日 (火) 17:28 (UTC)

神戸氏、根岸氏、北越戦争後の家臣の家禄などを、だいぶ時間をかけて、補充訂正してみました。再補充、再訂正は歓迎します。また神戸氏が殺人事件をおこした年は、いつだとお考えになりますか。--今泉総一郎 2010年1月14日 (木) 13:36 (UTC)

記事加筆、大変お疲れさまです。記事および出典等の充実は大歓迎です。気が付いた点は及ばずながらお手伝いしてみます。鉄三郎氏は正月期間に真木氏等で少し寄稿されたようですが、未だお忙しいのでしょうか?--故城一片之月 2010年1月14日 (木) 13:47 (UTC)

彼は、真木氏・槇の第一級史料を、ある人に近く見せてもらえるらしいので、それを踏まえて、真木氏のことは書きたいのが本音らしいのです。その史料がウィキペディアの掲載基準に合致するかの問題がありますが、掲載に合致しなくても、それを踏まえて書くのと、書かないのとでは、やはり違いが出てくると思えます。文化・文政期以前のナマの古文書らしいです。いまは都内においでですが、母上の体調が悪く、老・老介護だと嘆いていました。私も神戸氏、根岸氏、戦後130石以上の家臣に挑戦したところ、老眼にかなり応えてしまいました。--今泉総一郎 2010年1月14日 (木) 17:44 (UTC)

成る程、鉄三郎氏は寄稿・編集は儘ならぬ御様子なのですね。私としては焦らず可能な形でいつでも参加されることを期待します。--故城一片之月 2010年1月15日 (金) 14:45 (UTC)

御無沙汰しております。真木氏(牧野氏重臣)に== 出自及び真木(槇)氏の概略 ==の項目を作り、越後長岡藩の家臣団の記事からの移動体制を作りました。--鉄三郎 2010年1月17日 (日) 17:40 (UTC)

故城一片之月さんは、真木氏の改易の理由を私が破廉恥事件としたものを、不明と書き換えましたね。真木氏の破廉恥事件の具体的内容は、故城一片之月さんは、本当に知らないのですか?。私は知っていると思っていました。誰でも査読できる文献で事件の内容を、おおよそつかめるからです。諸士由緒記にだけ理由が不明と書いてあるにすぎません。藩内では、広く知られて長く笑い物になっていたのかもれません。この事件は300年以上も前の話しですが、長岡市の長興寺に真木氏は檀徒としていまも残り、長興寺の檀徒としては槇氏や稲垣氏よりも、真木氏のほうが、現代では大族になっているようです。特に新しい墓地の区画のほうに、いってみると新しい真木氏の墓がいくつもあることがわかります。極めてローカルな問題という意味では、稲垣権右衛門家の事情と少し似ているところもありますが、真木氏の場合は、現代の真木家の人々が何か悪いことをしたり、落ち度があったり、自己顕示欲から、笑止千万なことをしたわけでもありません。私は長興寺の真木氏の先祖は、●●●●ということをして、改易された過去を持ったということが広く知れて、人々に注目を浴びると気の毒だと思ったので、細かく書かなかったのです。刃傷事件とか公金横領事件とか、不調法とかのようなものではないからです。しかし、私がここに書かなくても、いずれ誰かが郷土史の書籍の中に書いてしまうかもしれません。鉄三郎さんの持っている史料写本によると小諸真木氏は、長岡真木氏と、恥ずかしくて同族と思われたくなくて、槇氏に改姓したのではないかと推察すらできる史料があるようです(これは責任を持った話しではありません)。--今泉総一郎 2010年1月27日 (水) 20:02 (UTC)
私が破廉恥事件と書いたところに要出典とか貼らないように希望します。真木氏が諸士由緒記で理由を不明としたのは、本当は知っていたのに不明と書いて提出したのだと、私は思っています。この僭称は正義感から考えて是正されるべきだと思う一方で、●●●●事件をおこした真木氏ということになると、現代の長興寺の檀徒の真木さんたちが、お気の毒ですから、その中間、バランス感覚からこのような記述にしたしだいです。。--今泉総一郎 2010年1月27日 (水) 20:11 (UTC)
真木氏改易について理由を不明とするのは、単に「破廉恥事件」の事実を存じないし、手元資料に思い当たるものが無いからであって、特に含みが有る訳でもないのです(出典には不明の文言はないが理由が不記載なので不明と書いたと思います)。むしろ、今泉さんが「破廉恥事件」の事実を知っていて記述するならば、むしろ事実を明示されるべきと思いますが。この衆目を引く表現については内容を知りたがる利用者は必ずや出現するでしょう。私に要出典タグを貼るなと仰っても、いずれ誰かに要求された場合、貴方は出典提示の義務を履行しなければならなくなると思いますよ。
この件について、私は稲垣権右衛門のケースとは全く異なると認識しています。何故なら真木氏改易のケースは過去の出来事で歴史的事項であるが、稲垣権右衛門のあの話は稲垣家の現在の子孫の方の行為そのものであって、現在生存中と思われる人の名誉そのものに抵触する可能性のある事案(ウィキペデイアの禁じる事案はこの点ですよね)という決定的違いがあることを御理解ください。
逆に出典を提示出来ずに検証性を満たせないとすれば記述・掲載は控えねばならないし、出典要求に答える義務は規定されているのですよね。私はそう考えますが如何でしょうか?--故城一片之月 2010年1月28日 (木) 12:40 (UTC)

ご指摘は仰せのとおりであります。まず検証可能性は問題なくクリアします。私は故城一片之月さんの手元の資料だけでも、大凡は、わかると思います。次にウィキペディアの解説記事にすべて、要出典が貼られていたり、出典が書いてあるわけではありません。出典が怪しい記事が大量にウィキペディアには存在しますが、要出典を貼られるほうが、むしろ少ないようです。鉄三郎さんの記述した記事にあなたは、要出典を大量に貼りました。鉄三郎さんは、それを好意的に受け取ったようですが、要出典を乱発すると、執筆者が悪感情を持つようなこともあるようです。真木氏の改易理由は不明とはせずに、罪により改易とだけ、とりあえず書き換えておきます。諸士由緒記の記述通りであるから、問題はないと思います。不明とするのは、私としては抵抗があります。--今泉総一郎 2010年1月28日 (木) 17:50 (UTC)

長岡の歴史1と、長岡市史双書15を、故城一片之月さんが、所有していると推察しています。小諸の真木家文書がなくても、前記2冊を注意深くよく読むと、大凡わかります。--今泉総一郎 2010年1月28日 (木) 18:01 (UTC)

判明しました。『越佐叢書』所収、高野余慶「由旧録」にそれらしきというか、そのものズバリの記述を発見しました。しかし、貴方の言うような破廉恥な内容ではないと思いますね。当時それは常識であり、今の我々の時代の価値観を当てはめるのは適当ではないでしょう。否、現代でさえも受入られつつある事柄であるし、そもそも筆者の高野余慶は「武士の一分を如何に取り扱うか」という主題の中で一つの類例として挙げただけで、真木氏等の罪と切腹は主題になっておらず、争論の説得・仲裁に失敗した渡辺仙右衛門(【寛文分限】には渡辺千右衛門)が己の武士の面目を通すために自害した、その判断の是非を問い・論じているのです。別にウィキペデイアで採り挙げても何ら差し支えない内容です。因みに鉄三郎氏は渡邊孫左衛門の事は記述されているのに何故、真木氏については事実を伏せる必要があるのか、その違いはどこにあるのでしょうか?--故城一片之月 2010年1月29日 (金) 14:49 (UTC)

山本、稲垣、九里、渡辺の姓は長岡家臣に同姓者が多くいます。同姓であれば、同族あるという保証はどこにもありませんが、稲垣、九里、山本の3家の同姓者は、ほぼ同族だと思われます。ところが同姓者の長岡家臣であっても、渡辺氏は同族ではありません。同族異流や、まったくの異流の者が混ざっているようです。切腹となった渡辺家は帰参を果たしていますが、幕末まで長岡家臣としては残らなかったと聞いていますし、当家の墓地は長興寺や、栄涼寺にはありません。したがって影響を受ける子孫が、ローカルな世界には存在しないからだからだと推察します。鉄三郎さんの記述は1字、まちがっていますので、数日中にネットカフェからでも訂正しておきます(渡辺氏の名)。--今泉総一郎 2010年1月29日 (金) 19:30 (UTC)

「越後長岡藩#上級家臣の過員」節について

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3代忠辰のころになると、不要な大身は減石されたといわれる部分は、どこで仕入れたのか、もう一度、確認します。それまで取り下げします。故城一片之月さんも、ノートでそのようなことを書かれていたと思いますが、どこで仕入れた情報ですか。

上級家臣の超員で家臣の名を書いて説明することじたいが、不要だという見方に傾きつつあります。--今泉総一郎 2010年1月22日 (金) 16:44 (UTC)

しかし、一番、はじめに3代忠辰のころになると、不要な大身は減石されたという記述は、私ではないので、しばらく要出典として、削除を提案します。--今泉総一郎 2010年1月22日 (金) 16:46 (UTC)

削除意見に同意ですが、コメント・アウトでも良いかも知れません。--故城一片之月 2010年1月22日 (金) 17:34 (UTC)

長岡家臣稲垣氏

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長岡家臣、稲垣氏をまとめたいので、ご協力をお願いします。

  • 長岡藩政史料集6には、稲葉という姓の家臣が3人掲載されていますが、稲垣の誤記と考えてよいか。
  • 稲垣善右衛門家は、御家中附では400石であり、稲垣権右衛門家の分家で、本当にまちがいないのでしょうか。そうだとすれば善右衛門家の項目を立てることになります。
  • 【家中禄高調】と稲葉権左衛門300石、稲垣権之丞400石(寺社奉行)があります。彼らが世襲家老家の嫡子で、部屋住み召しだしを受けて寺社奉行というのは、考えにくいと思います。善右衛門家が、分家であるとすれば、本家の権右衛門家より、格上まで昇進した可能性もあるかもしれません。
  • 稲垣善右衛門家が分家であれば、当時の遠慮の美学か、本家のミエで、由緒記に掲載を辞退した可能性すらあると思われます。

--今泉総一郎 2010年1月10日 (日) 08:08 (UTC)

稲葉氏は【由緒記】の編纂以後に家臣団入りしたものと推察されます。嘉永3年(1851年)の【家中禄高調】で権左衛門のときに知行300石で初見。安政6年(1859年)の【安政分限帳】では稲葉又兵衛が知行300石。文久2年(1862年)の『御家中総名順』では御取次御持筒頭300石で阪之下に居住とあり。慶応3年(1867年)以降作成とされる『長岡城下町絵図』(長岡互尊文庫蔵の復刻版)にも阪之下・稲葉又兵衛(200石)が認められ、稲葉氏の存在は確実であり稲垣氏の誤記ではなさそうです。そして稲葉氏は維新後の藩減封処分後は上士100石支給の扱いを受けながらも自嘲するかのように物久集(もくず)と称しています。
稲垣権右衛門が減知を受けた理由を【由緒記】は「未詳」としており、編纂時には既に基本情報が失われていたか、何らかの事情(不祥事など)で伏せていた可能性もあるのでしょうが、今ここでその辺を寄稿するに足るような資料が存在するのでしょうか?
なお、権右衛門家と善右衛門家の関係については【由緒記】の記述を信頼するよりありませんね。権右衛門の長男が初代・稲垣小右衛門成啓(500石)であり、貞享年間の同小右衛門久長の長男が初代・稲垣善右衛門、次男が初代・稲垣友左衛門。初代・善右衛門は部屋住み時代に100石の支給を受けており、のち父の家督のうち400石を継承するも、先に支給の100石は自身知行としては存続が認められず、この内より弟・友左衛門に50石分知とあり、残分50石は収公となったようですね。もっとも友左衛門はのち50石加増(都合100石)ともあり、結果的には100石分知と同じ効果となっていますね。また、稲垣権之允(400石)が善右衛門の子孫かどうかは今のところ資料的確証を持ちませんので私は何とも言えません。--故城一片之月 2010年1月11日 (月) 02:57 (UTC)

御回答ありがとうございます。稲垣権右衛門家については、ルールにもとずき寄稿するだけの記事が薄いように思われます。稲垣氏は小諸にもあり、こちらは未解明の一次史料をあたってみますが、非公開文書であれば、ここには寄稿できないことになります。小諸家臣稲垣惣領家の稲垣源左衛門家が、幕末まで子孫が残っていないため、余計に究明が難しくなっています。小諸家老稲垣(340石)は、稲垣源左衛門家の分家でが、一次史料の小諸家臣稲垣家文書が残っているため、解読したいと思っています。しかし、時間的、経済的、体力的余裕がないので、いつになるかわかりません(苦笑)。小諸稲垣氏は長岡で200石を受けながら浪人して50石で与板で再仕官がかなっています(出典、小諸藩文書)。この時期と稲垣権右衛門が減知を受けた時期が、ほぼ同じようなのです。この辺の記述をすればもちろん独自研究になるわけです。郷土史研究家の加藤某さんの論文にもあったようですが、これも出版されたり、公立図書館に所蔵がないので、引用しないことにします。その内容も憶測記事でした。--今泉総一郎 2010年1月11日 (月) 06:41 (UTC)

稲垣善右衛門の家督相続が400石で行われて、自身の100石は認められず。結局、その後のゴタゴタを計算すれば、収入は同じことですね。しかし筋目を重んじる長岡藩ですから、これで500石の筋目は認めずという解釈も成立します。もし500石の筋目を認めたら、疋田氏より家禄では、格上の筋目を持つことになります。--今泉総一郎 2010年1月11日 (月) 11:51 (UTC)

長岡藩で言う「筋目」とは必ずしも確定した知行高そのものを指すものではなく、先祖の戦功などの由緒に基づくものであって知行高とはその結果ですから、本知行が400石であるか500石であるかは筋目との関連性の上でさほど直接的問題ではないと私は思います。高野餘慶「士に家格あり、役格あり、知行格あり。此中家格ハ、先祖の由緒によりて代々其筋目を重んする事なれハ、秩禄の高下によらさる也。」(出典→『越佐叢書』所収「由旧録(巻之下)」pp69-70)--故城一片之月 2010年1月14日 (木) 15:20 (UTC)

上記はよくわかりました。稲垣氏に限ったことではありませんが表現方法として、どうしたらよいとお考えですか。つまり世禄300石の家が50石の分家を分出して250石になる。しかし、分出前の300石の家格は尊重される。この分出る前の旧家禄のことは、何と呼び、ウィキペディアではどう表現したら良いでしょうか。--今泉総一郎 2010年1月14日 (木) 17:36 (UTC)

【由緒記】ではしばしば、「旧俸○○石・△△貫」等と呼んでいるようですが、藩士俸給は家老・先家等ごく少数の例外を除けば時代によって動くものですから、そもそも、知行高(300石とか)で掲載基準の線引きをしようとすることで無理を生じているのかもしれません。むしろ、特筆性で書けば自ずと掲載範囲は収まるものと私の場合は考えます。たとえ、下級藩士でも掲載すべき人物はある筈ですし。例えば今泉省三氏は『長岡の歴史』では五家老家と先法家までは詳述してますが、あとは必要に応じて記述しているようですし。--故城一片之月 2010年1月14日 (木) 18:15 (UTC)