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利用者‐会話:218.227.59.123

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こちらこそいつも、ご迷惑をかけまた、ご助言をたまわりありがとうございます。 お申し出は、同意致します。 産卵期の蛾とその幼虫(毛虫)に襲われて、かぶれたためこれから病院にまいりますので、あとでゆっくりメッセージを 書かせて頂きたいと存じます。 まずは取り急ぎ、お返事まで。 --219.120.30.142 2006年9月20日 (水) 07:23 (UTC)[返信]

側用人は、おっしやるようにこれ以上細かく述べなくてもよいかもしれません。史料不足と、あなたが様がおっしゃるように側用人として確定できる人物が少ないからです。

藩士小林シゲリが、江戸藩邸の側用人から公用人となったという記述を長岡藩の公文書以外で見たことがあるような気がしますが、私の記憶が定かではありません。彼は維新後、司法官となり、判事として各地の地方裁判所の所長を歴任しています。

あるいは長岡藩では用人の中に、側用人的用人と、用人的用人がいたのかもしれません。長岡藩の職制を説明した各種書籍を閲覧しても、藩主の側衆に該当する役職は何だったのか、いま一つわからないように思います。

また藩主が江戸定府のときに設置される公用人(江戸定府でないときは、江戸留守居役・同添役)について、今後どう触れるかですね。お任せしますのでよろしくお願いします。

本題から外れますが、根岸氏にお詳しいようですが、分限に根岸姓が見えないときもあり、謎が残ります。この家系はどのようであったか、越後長岡藩の家臣団、根岸氏の項目に、ご存じのことをお書き添え下さると助かります。

また後ほど。 --219.120.30.142 2006年9月20日 (水) 07:53 (UTC)[返信]


「職制」―「江戸組」の項に
”文久の頃、河井継之助が11代藩主忠恭の時この職につけられ、京都での情勢収集・分析奔走し藩主の京都所司代辞職を勧め、幕閣への書面提出などに携わった。河井は、150石が適用されていたので、はじめは添役級の公用人であったと推定される。”
と、ありますが、京都所司代の下の公用人と江戸詰めの公用人はまた別だと思います。藩主が京都所司代であった際、江戸詰めの藩士の一部を所司代下の役につけるという例はあります。しかし、それは兼任ということではなく、あくまで人事異動であり、国元・江戸・京都とそれぞれ別個の職制がなされていたはずです(その際、相互がどのように機能しあっていたのかは藩政システムの解明という点で興味深い)。
ですので、引用文では、江戸詰めと京都詰(所司代下職制)の公用人がごっちゃになっており、記述は適切とはいえないと思います。
この際、藩主の京都所司代就任期の京都詰の職制も記述してはいかがでしょう。幸い、京都市歴史資料館編『京都武鑑』や東谷智「所司代就任期の長岡藩家臣団-京詰めの藩士を中心に-」『長岡郷土史』第42号という資料もあるようですし。ただ残念なことに、私の身近の図書館では双方とも手に入らず、私の手ではどうしようもありません。ですので、もし可能でありましたら、ご検討の上よろしくお願いします。
あと「河井は、150石が適用され」というのは初耳なんですが、後学のため典拠となる資料をお教えください。--61.210.25.210 2006年9月23日 (土) 03:54 (UTC)[返信]

61.210.25.210です。早速のご返答恐れ入ります。京都詰の職制および河井の石高の件についてはわかりました。京都詰の記述に関しては、役職の細かな説明はいらないと思いますが、所司代就任時に京都詰にはどんな役職があったかや国元・江戸詰の藩士から編成されたことなど、東谷論文の内容をごくごく簡単に紹介程度に記述するのは構わないかと思います。
あと『京都武鑑』について、お話を聞く限り、同論文も当然これを主な史料として書かれていると思われます。以前、誰かからか何かからか忘れましたが、①文久2年と3年(月は不明)の武鑑が掲載。②公用人の欄に河井継之助の名はない。③2つの間で人事に変更があるのは、公用人の三間市之進のみ、というのを聞いたことがあります。③から、『河井継之助伝』に引用されている「三間正弘自叙伝」(これは現存する史料なんでしょうか?)の記述内容(三間が藩主辞任の説得に失敗し帰藩)と一致します。一方、②から、河井が公用人となった事実を裏付ける史料は(現段階では)ない、ということになります。『河井継之助伝』からは、河井が忠恭の所司代辞任前に京都を去ったのか、一緒に去ったのかはわかりませんので、2つの武鑑が出される間のこととも推測できます。しかし、それでも、河井とともに途中から京都詰になったとされる永井慶弥などが役職に見えないのは不思議です。このあたり妥当な藩政史料がないのが残念です。
とりあえずこんなところです。これからもがんばってください(私は見るだけ)。--61.210.25.210 2006年9月23日 (土) 13:20 (UTC)[返信]

公用人の記述、一部削除の件、わざわざご連絡ありがとうございました。その後、書き足しをさせて頂きましたが、一般的な説明も入ってしまって、やや冗長になってしまいました。いづれは精選する必要があるかもしれません。
あなた様が精選されてしまっても、異論はありません。
あまり職制・軍制が膨大になると、また記事分割の話題が出ると思いますので、どの程度の分量にするかは、思案のしどころです。 特に京詰めの家臣団・職制は、臨時なものなので、あっさりと流さないと、収拾がつかなくなる恐れがありますがどのように、お考えでしょうか。
城持ち大名には、全国諸藩にも御城番組と云うものが、存在します。藩主の転封に随従しない卒分たる家臣です。長岡藩の場合は、御城番組についての史料が乏しくて、どのような機構になっているのかよくわかりません。ご存じでしょうか?
小諸城主牧野氏の場合は、御城番組は、大目付支配であって、大目付が御城番組組頭を兼帯しています。
あと笠間藩のページをあなた様の別ページの投稿に併せて、修正しておきましたので、そちらも御校閲下されば幸いです。
笠間牧野家の系を200俵から8万石に栄進したとあるは、歴史小説からの引用で、史料の確認はしていません。御納得いかなければ削除して頂いてもかまいません。
笠間に関する史料はあまり手許になく、また私は笠間藩の調査・研究は、ほとんどしていない状況です。
                                           --219.120.30.142 2006年9月24日 (日) 19:34 (UTC)[返信]


長岡家老牧野氏(本姓山本氏)の嫡流は、越前松平家に仕官したとありますが、

  • 山本宮内 500石 伏見御供番衆・(御小姓) 本国三河
  • 山本作兵衛 300石 伏見御供番衆・(御歩行頭) 本国紀伊
  • 山本勝(庄)九郎 200石 伏見御供番衆・(大小姓) 本国三河
  • 山本清右衛門 300石 御馬廻衆 本国甲斐
  • 山本対馬 9,400石 (御普請与頭) 本国三河

が分限帳に見られますが、どの系を指すかご存じですか?

山本対馬の系が、山本摂津守と称したようですが、山本勘助の一族としているようなので、これがそうでしょうか? 末裔について、何かご存じですか? --219.120.30.142 2006年9月26日 (火) 23:36 (UTC)[返信]