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利用者‐会話:Chokorin/Log3

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月間感謝賞受賞のお知らせ

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Chokorinさんに、2010年9月の月間感謝賞が贈られました。寄せられた推薦と感謝の言葉は次のとおりです:

* totti 2ウィキ: 歴史や文化の優れた記事の執筆・加筆に感謝して。特にここ最近の四国国分中国大返しなどの秀吉関連の記事は楽しく読ませてもらっています。

また、Chokorinさんには、ウィキマネーが、推薦者から6ウィキ、また月間感謝賞受賞に10ウィキ、合計16ウィキ贈呈されています。

これからのますますのご活躍を祈念いたします。--totti 2010年9月30日 (木) 18:52 (UTC)[返信]

もったいないお言葉の数々、恐れ入ります。tottiさん、わざわざのお知らせ、まことにありがとうございました。これからもいっそう執筆に励み、百科事典としてのWikipediaの充実に貢献したく存じます。これからも、よろしくお願い申し上げます。--Chokorin 2010年10月1日 (金) 02:20 (UTC)[返信]

Chokorinさん。本来こういう批判を私はやらないのですが、今回は意見を表明します。

記事と無関係な、私への態度などの批判がおありなら、私のノートにでも書いください。あの場所は記事について書く場所です。あのような場所で他者への批判をされれば、そこが荒れる原因になると思います。

さて、「意見表明は、自らの立場や観点が問われることでもありますので、その点御留意ください」とのことですが、記事の選考において自らの意見を述べた者について、その発言によって、その人の立場や観点の何かが問われるのでしょうか?いったい私の立場とはいかなる立場で、いかなる観点が推測されるから、それが何に対して問題を引き起こすというのでしょうか?そして、そのような立場や観点を、誰がどういう理由で問うのでしょうか?当方の今回の発言では、なんら留意すべき点はない。と私は考えます。不用意な意味不明の批判は、相手に拡大解釈されたりして、不要な摩擦をユーザー間に生むだけであると考えます。

もし、誰かに何かをさせたいのなら、「これこれこういう理由で、こういう結果になるから、こうした方がよいと思う」という提案にされることをおすすめします。--FUBUKI 2010年10月17日 (日) 06:44 (UTC)[返信]

「読み手の知識や読解力が問われる」の方がよかったでしょうか。それだと、少し角が立つような気がしたもので。選考には、良質4条件をどれくらい満たしているかという基準がちゃんとあるわけですから、それに沿って選考しない人には本来は選考者としての資格がないものとわたしは思います。単なる揚げ足取りを「選考」とは呼ばないのです。御留意ください。--Chokorin 2010年10月17日 (日) 07:03 (UTC)[返信]
読み手の知識や読解力が問われるとは、つまり私にそれがないとおっしゃってることですかね。かかる侮辱的な言辞を相手にぶつける必要があるのでしょうか?不当な発言の撤回をお願いします。--FUBUKI 2010年10月17日 (日) 07:48 (UTC)[返信]
わかりました。撤回しましょう。前回の反対意見にくらべ、今日のコメントは改善されていることですし。--Chokorin 2010年10月17日 (日) 07:59 (UTC)[返信]

Chokorinさん。わかっていただけなくて残念です。その人の知識や読解力などの能力を問題にして、平然と侮辱的な言辞を相手に投げかけることには問題があるとおもわれませんか?(もし、問題があるとお考えなら>前回の反対意見にくらべ、今日のコメントは改善されている<と付ける必要はないと思いますが…)。不当とは私への評価が不当ということではないですよ。この辺で私は失礼します。まだ何かご不審でしたら、一度、井戸端などで広く他の方の意見をおもとめになられるのがよいかも知れません。では、ごきげんよう。--FUBUKI 2010年10月17日 (日) 09:55 (UTC)[返信]

果たして「侮辱」なんでしょうか? 別にあなたに知識や読解力が「ない」とは一言も言っていないんですがね。「自らの立場や観点が問われる」のと同様「読み手の知識や読解力が問われる」のでしょう。発言するということは、常に何かが問われるということなのです。それとも「(自分に対してだけは)無責任の言いっぱなしを認めろよ」とおっしゃりたいんでしょうか? --Chokorin 2010年10月17日 (日) 10:04 (UTC)[返信]

要出典について

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中国攻めでは、大幅な改稿御苦労さまでした。その甲斐があってかは解りませんがWikipedia:メインページ強化記事投票所/項目候補でもノミネートされており驚いております。さて、いずれはお気づきになるかと思われますが、中国大返しでは[要出典]が記載されております。もし要出典部分の出典を御存知ならば、出典明記にご協力をお願いできたらと思います。それとノート:中国攻めにおきましては、他者よりコメントが明記されておりますので、御一読いただければ幸いです。--ブレイズマン 2010年10月29日 (金) 13:56 (UTC)[返信]

佐藤『日本の歴史9 南北朝の動乱』について

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佐藤進一『日本の歴史9: 南北朝の動乱』を入手しました。で、問いに答えるまえに、すこし準備をします。

同書のなりたち

わたしがまず入手したのは中公文庫の2005年版ですが、Chokorinさんの持っているものとは違いました (たとえば、175ページとして示しておられる記述は、196ページにあたるようです)。

巻末の「新装版・中公文庫『日本の歴史』刊行にあたって」というページ (「中公文庫編集部」名義) の説明によると、同書はなんどか改版・再刊されています。

  1. 1965-1967年刊行の『日本の歴史』全26巻。ハードカバー・函入りで逐次配本され、各巻に「月報」がついていた。
  2. 1970年以降刊行の中公バックス版。上の軽装版。
  3. 1974年刊行の文庫版。中公バックス版を写真製版で縮刷したもの。
  4. 2005年刊行の文庫版新装改版。

1.、2.、3.はそれぞれが数年にわたって版を重ねていますから、発行時期によって細かな修正によるちがいなどはあるでしょうが、大きくはこのよっつです。4. のなりたちについて、前述のページの説明から引用します。

一、本書は一九七四年二月に刊行された中公文庫『日本の歴史9——南北朝の動乱』の新装改版です。底本として、一九九七年十月刊の二十五版を使用しました。

一、本文は、その資料的価値を維持するために、原則として刊行時のままとしましたが、一部、著者の要請によって訂正した部分があります。

一、写真・図版類は原則旧版〔引用者注: 上記3.〕と同じものを復元し、収載しました。

一、親本〔引用者注: 上記1.〕「月報」の「読書案内」を、「図書案内」として収載しました。

一、親本刊行後に進展した、研究の成果や変遷、学会の潮流についての「解説」〔引用者注: 執筆は森茂暁〕を新たに加え、その後の「読書案内」を「参考文献」として付載しました。

3.も入手しました (たまたま閉館まぎわの図書館に駆け込めたので、借りてきました)。結局、わたしの手許にはいま2種類の『南北朝の動乱』があります。

  • 佐藤進一『日本の歴史9: 南北朝の動乱』中央公論社〈中公文庫〉、1991年、22版 (初版1974年)。488p. 16cm.
  • 佐藤進一『日本の歴史9: 南北朝の動乱』中央公論新社〈中公文庫〉、2005年、改版 (初版1974年)。558p. 16cm.

以降は、両者を「文庫22版」および「文庫改版」と略記することにします。

目次を見るかぎり、本文の構成は両者同じですが、文庫改版は28ページ増加しています (おそらく文字が大きくなったためでしょう)。さらに先の引用のとおり、文庫改版では「年表」のまえに「図書案内」10ページ、「解説」16ページ、「参考文献」4ページが増えています。いっぽう、文庫22版に折り込みされている「室町幕府守護配置図」は、文庫改版にはありません。

以上で準備はおわり。続きは明日以降に。--Hatukanezumi 2010年11月6日 (土) 02:43 (UTC)[返信]

分析

さて、分析です。

本書では、原則として「旧暦年号 (西暦年)」の形式で年号を表記しています。表記のしかたとしては旧暦年号が主という考えかたですね。

しかしいまのところ、南北両統の年号を併記している例をみつけることができません……Chokorinさんが指摘した箇所以外には。その箇所は、第6章にあたる「動乱期の社会」の書き出しのところです。引用します。

これまでの五章において、わたくしは、後醍醐天皇の新政とその挫折、尊氏の協力と離反、室町幕府の成立と後醍醐天皇の吉野入山による南北両朝の対立と、めまぐるしく変わる中央の政情を書いてきた。扱った期間は一三三三年 (元弘三=正慶二) から一三三九年 (延元四=暦応二) にいたるわずか六年間であるが、〔……〕

--- 文庫22版p. 175、文庫改版p. 196。

これは南北両統、さらには武家もふくめた動向を要約している箇所です。しかも要約した事象はピンポイントではなく、複数年にわたっています。ですから「この年号とこの年号が並び称された年から、この年号とこの年号が並び称された年まで」という表現をするのは、当然のことです。また、年できれいに切れないひろがりのある範囲だからこそ、旧暦年号ではなく西暦年を主にしているのでしょう。

逆に、佐藤はこれ以外の箇所では、南朝方のことを書くときは南朝年号のみ、北朝方のことを書くときは北朝年号のみを書いています (武家についても、そのときどきにどちらに与しているかによって元号を使い分けています)。「南朝かつ北朝の勢力」なんていうものはないわけですから、こうなるのはあたりまえです。佐藤は、年号を書くときはちゃんと意味があって書いているのです。

分析はもうちょっとつづきます。▼改元年をすべて新元号元年にしたりしていないこと、また、▼西暦のみを記す場合もあること、を述べるつもりです。週明けになるかもしれません。--Hatukanezumi 2010年11月6日 (土) 17:47 (UTC) 微加筆--Hatukanezumi 2010年11月6日 (土) 17:51 (UTC)微加筆--Hatukanezumi 2010年11月6日 (土) 17:53 (UTC)[返信]

ええと。西暦年を主にして両者の旧暦年号を併記している例を、その後いくつかかみつけました。「Chokorinさんが指摘した箇所以外には」ないわけでは、ありませんでした (ただ、これはこれで不思議なところがありますので、後日述べます)。いずれにせよ既述のように、佐藤はほとんどの年号を「一方の旧暦年号(西暦年)」と記しています。

さてつぎに、改元年を新元号元年として表すべきかどうかです。すべてを確認したわけではありませんが、つぎのような例がみつかります。 [ア]

両家の家格のちがいは、正慶二年 (一三三三)、当時二十九歳の足利尊氏が従五位上、前治部大輔であるのにたいして、三十二歳の新田義貞が無官無位、ただの“小四郎”に過ぎないことだけでも明らかである。

--- 文庫22版p. 40、文庫改版pp. 52f。ダブルミニュートをダブルクォートに置き換えた。

[イ]

年が改まって元弘四年 (一三三四) 正月になると、その二十三日立太子の儀がおこなわれた。皇太子にえらばれたのは、十一歳になる恒良親王である。

--- 文庫22版p. 47、文庫改版p. 60。

[ウ]

建武三年 (一三三六) 正月早々、鎌倉から攻めのぼってきた尊氏の大群がはや京都に近づいたとあって、浮き足立った後醍醐軍を鼓舞すべく、今度の戦いに忠功を尽くした者にはさっそく恩賞を与えるであろうという軍令を決断所に張りだしたところ、〔……〕

--- 文庫22版pp. 126f、文庫改版p. 145。

[エ]

これは、かれ〔引用者注: 足利尊氏〕が建武三年 (一三三六) 八月十七日、つまり光明天皇の践祚をめでたくすませた二日後に、〔……〕

--- 文庫22版pp. 153f、文庫改版p. 173。

このくらいにしておきます。最初からページをめくって見ていったので、登場人物が妙に後醍醐天皇関係にかたよっていますが。

  • 最初のはちょっと微妙な例です。「正慶」はこの年に廃されたので、機械的に年末時点の年号をあてはめると「元弘三年」になるはずですが、そうなっていません。
  • ふたつめは、直後に改元の話がでてきます。「建武」への改元は1月29日ですから、「建武元年 (一三三四) 正月」ではおかしいわけです。
  • みっつめですが、「建武三年正月」はこれで正しいです。後醍醐が「延元」へ改元するのは2月29日です。そして、よっつめも正しいです。足利尊氏は光明天皇を押し立てて「建武」を復活させ、「延元」と「建武」が並立し、これを期に南北朝の分裂が決定的になります。

ぱらぱらと見ただけなので、もっとすっきりした例もあるだろうとおもいます。

もちろん、新元号元年を用いていると思われる記載もあります。「建武元年 (一三三四) の正月令」といったものは、史料に記録された文書の年号が新元号元年になっていたのかもしれません (この年の正月は小月なので、年号が正しいとしたら、発令できる日は改元日の1月29日のみです)。また、「延元元年(一三三六)ごろ」のようにおおまかな年代に用いているものは、元号の区別に特に意味はないでしょう。しかし、意味があって書いているために、新元号元年になっていない箇所もまたあるのです。

あと、西暦年を記す場合について述べて、分析を終わりたいとおもいます。数日後になるとおもいます。--Hatukanezumi 2010年11月8日 (月) 13:25 (UTC)[返信]

長くなってしまってすみません。西暦を主にする場合です。まず、外国がからむ場合を挙げます。 [1]

〔引用者注: 倭寇は〕高麗史には一三世紀の前期から見えるが、高麗の忠定王二年に当たる一三五〇年 (観応元年) から急に激しくなり、一三七二年 (応安五年) からとくに猛威をふるうようになった。

--- 文庫22版p. 458、文庫改版p. 494。

[2]

一方、一三五〇年代から倭寇の被害を受けはじめた中国では、一三六八年、朱元璋が新王朝を建てて、元を北方に駆逐した。すなわち明の建国である。

--- 文庫22版p. 460、文庫改版p. 497。

[3]

このころから明は九州の懐良とは別に、京都に「持明天皇」すなわち北朝のあることを知ったらしく、一三七二年 (応安五年、明の洪武五年) 来日した明使は、持明天皇に会うためであったが、関西親王 (懐良) にはばまれて果たさなかった、と述べている。そして、〔……〕一三七九年 (康暦元年、明の洪武十二年)、征夷将軍 (義満) の送った返書が無礼であるとして、征討の意を示し、〔……〕

--- 文庫22版pp. 460f、文庫改版pp. 497f。

[4]

一方、明使は一三八一年、懐良のもとにおもむいたが、このとき懐良は、〔……〕

--- 文庫22版p. 461、文庫改版p. 498。

まず、ひとつめとみっつめです。西暦を主にし、元号年号を併記しています (ひとつめの高麗は当時、元号を立てていませんでしたから、日本の元号年号だけしか併記できません)。両者には共通点があります。それは、日本と相手国とでは異なる暦を使っていた、という点です。

高麗はおそらく、元にならって授時暦を用いていたとおもわれます。明の大統暦は授時暦と実質的に同じ暦法だったようです。いっぽう当時の日本では、大陸ではとうに廃れた宣明暦がまだ行用されていました。同じ太陰太陽暦でも暦法が異なるのですから、大陸と日本では月の大小や置閏はもちろん、年初・年末も一致しなかったでしょう。

Chokorinさんの指摘した箇所では、ひろがりのある期間を示す意味で西暦年が用いられていました。ここでは、単一の年でもぶれがある場合に用いられているようです。佐藤の場合、西暦年が括弧の外にでている表記は、「書いてある『年』が厳密ではない」ということを表しているのではないでしょうか。

しかし、残りのものはどうでしょう。国内の例もあわせて、考えてみたいとおもいます。すみませんが、もうすこしだけ続けさせてください。--Hatukanezumi 2010年11月10日 (水) 14:09 (UTC)[返信]

[5]

(1) 奥州北部の反乱 (一三三三年冬から三五年正月まで) 北条時如・安達高景・工藤・曾我・高橋らの北条一族与党のほかに、乙部地・野辺・恵蘇など、〔……〕

(2) 南関東の反乱 建武元年 (一三三四) 三月、北条譜代の臣で武蔵に勢力をはる渋谷・本間らが高時の一族を奉じて、極楽寺口から鎌倉に侵入、足利の一族渋川義季がこれを撃退した。〔……〕

(3) 北九州の反乱 建武元年正月、旧肥後の守護規矩高政、同じく旧豊前の守護糸田貞義 (どちらも北条一族) が相呼応して筑前・豊後に挙兵、〔……〕

〔引用者注: このあとさらに日向、越後、紀伊、長門・伊予、信濃と続くが、いずれも「建武」の年号のみ記して西暦年を記さない〕

--- 文庫22版pp. 89ff、文庫改版pp. 105f。「曾我」は文庫22版では「曽我」。

[6]

南朝が反攻の切り札として期待しつづけた奥州軍〔引用者注: 北畠顕家の勢力〕がふたたび長征の旅に上ったのは、後醍醐の吉野潜幸から八ヵ月後、越前金ガ崎城の陥落から五ヵ月後に当たる一三三七年 (建武四=延元二) 八月中旬であった。

--- 文庫22版p. 163、文庫改版p. 184。「ガ」は小書き。

[7]

肝心の奥州では、北部の曾我・安藤らが反乱を起こし、また南部の石河・留守・武石・相馬らが足利方に寝返って、奥州軍の帰国を阻止した。顕家がこれを破って多賀の国府に着いたのは一三三六年五月の下旬である。

--- 文庫22版p. 164、文庫改版p. 185。「曾我」は文庫22版では「曽我」。

[8]

それに当時、年貢の納期は九月から翌年二月までである。奥州はいくぶんおそかったかもしれない。したがってかれ〔引用者注: 北畠顕家〕は一三三六年分の国衙領の年貢をほとんど手に入れなかったのではなかろうか。

--- 文庫22版p. 165、文庫改版p. 186。

[9]

白河関をこえた顕家軍は〔……〕一三三八年 (暦応元=延元三) 正月二日、鎌倉を出発してからのスピードは早い。わずか二十日余で美濃に入った。

--- 文庫22版pp. 165f、文庫改版p. 186。

[10]

一三三六年七月というと、尊氏が九州から攻め上って京都を占拠した直後に当たるが、このとき、尊氏は山城の革島南庄の下司の革島幸政らにたいして、かれらが荘園領主から給与されている名田の半分を、地頭職という名目に切り換えて、尊氏の名で給与し、同時にかれらを御家人の列に加えた。〔……〕

--- 文庫22版p. 209、文庫改版p. 232。

[11]

(1) 一三三七年三月 師泰、越前の金ガ崎城を攻略。

(2) 一三三八年正月 師直のいとこ師冬、顕家軍を美濃の青野原〔引用者注: 現在の関ヶ原〕に防ぐ。

(3) 一三三八年二月 師直・師泰、顕家軍を奈良で破る。

(4) 一三三八年五月 師直、和泉の堺浦で顕家軍を撃破、顕家敗死。

--- 文庫22版p. 218、文庫改版p. 242。「ガ」は小書き。

[12]

一三三八年六月、北畠顕家が堺で敗死した後、摂津から山城に進出していた南朝の別働隊は男山の石清水八幡宮の社殿にたてこもって、幕府軍と果敢な戦いをつづけた。

--- 文庫22版p. 219、文庫改版p. 243。

[13]

後の話になるが、一三四八年吉野に侵入して、南帝の脱出した直後の皇居から蔵王堂の社殿までことごとく焼き払ったのも師直、同じとき河内磯長の聖徳太子廟を焼いたのが師冬である。

--- 文庫22版p. 220、文庫改版p. 243。

[14]

〔……〕一三三八年二月の奈良の戦いで「分捕切棄の法」を指令したのはその一例である。

--- 文庫22版p. 221、文庫改版p. 244。

[15]

〔……〕ともあれ、倭寇を討って武名を馳せた李成桂が、高麗王朝を倒して朝鮮王朝を建てた一三九二年 (明徳三) ころには、倭寇の朝鮮侵略はだいぶ下火になり、〔……〕

--- 文庫22版p. 460、文庫改版p. 496。

[1]-[15] で、本書で西暦年に元号年号が併記されているものと、西暦年が主になっているものは、おそらくすべてです (見落としはありえます。ついつい本文に引き込まれて読んでしまうので)。

全部を挙げたのは、どういう理由でこうなっているのかよくわからなかったからです (長くて本当にすみません)。[1]、[3]、[15] についてはすでに述べたように、暦法のちがいから「書いてある『年』が厳密でない」という解釈ができるでしょう。しかし残りのものは、明確な共通点がみられないのに、ほとんどが西暦年のみを記しています。[5] は特に不可解です --- なぜ奥州だけ元号年号で書かないのでしょうか。実は [11] もそうで、この前後では高一族の活動についても元号年号を主にして表記しているのです。

本書には、年号が記されている箇所が数百あるはずですが、この十数箇所だけが例外的に西暦年を主にしています。--- 数が問題なのではありません。きちんとした書籍なら、たとえ一般向けの解説書であっても、一貫したルールで書かれているはずなのです。しかし本文を見ても、そのようなルールがあるように見えません。いったい、どういうことなのでしょうか。

読んでみたい本があるので、さらに数日ください。--Hatukanezumi 2010年11月12日 (金) 12:54 (UTC)[返信]

何度も読み返したつもりで、まだ読んでいないところがありました。……写真です。

本書には、古文書の写真が多数収録されています。写真から読み取った資料の日付と、それがキャプション・本文でどう記載されているかをまとめてみました。なお、

  • 単なる人物紹介つまり墨蹟としての掲載や、本文中の叙述の例示にすぎないものは省きました。
  • 佐藤が本書を執筆したころとちがい、いまのわたしたちにはワールド・ワイド・ウェブがあります。掲載されているのと同じ写本または正本 (一般に古文書は、複数の写本が伝存します) とおもわれるものへのリンクもつけました (そのほかのものも、国宝・重文に指定されていたりするので、一般の書籍などで鮮明な写真をみつけられるでしょう)。
写真タイトル 掲載ページ 資料の日付 キャプション・本文での年号の記載
[エ] 尊氏の願文 文庫改版p. 174 「建武三年八月十七日」 本文「建武三年 (一三三六) 八月十七日」
[オ] 後醍醐天皇自筆の綸旨[1] 文庫改版p. 30 「三月」 記載なし。
[カ] 着到状 文庫改版p. 38 「元弘三年六月廿九日」 本文で、資料本文中の日付「十八日」を引く。
[キ] 太良荘民の訴状 文庫改版p. 110 「建武元年五月 日」 キャプション「建武元年5月」、本文「建武元年五月の訴状」
[ク] 直義自筆書状 文庫改版p. 130 「四月」 本文「観応元年 (一三五〇) か二年ごろと推定される直義の書簡」
[ケ] 蓮華寺過去帳[2] 文庫改版p. 199 「元弘三年(癸酉)五月七日〔……〕」パーレンは割注 本文「元弘三年 (一三三三) 五月」
[コ] 熊谷直経の軍忠状 文庫改版p. 219 「正慶二年四月二日」 本文での翻字は原文どおり。地の文では「元弘三年 (一三三三)」
[サ] 北畠親房の自筆書状 文庫改版p. 253 「八月廿三日」 キャプション「興国二年 (推定) 8月23日」
[シ] 猪熊本正統記の奥書[3] 文庫改版p. 320 (引用者には読めない) 記載なし。
[ス] 建武年中行事の奥書 文庫改版p. 322 「正平七年冬〔……〕同八年正月十八日校合〔……〕」 本文「正平七年 (一三五二)、〔……〕またその年の冬、〔……〕翌年 (一三五三) 正月、みずから校合の筆をとった〔……〕」
[セ] 菊池武重の置文 文庫改版p. 329 「延元三年七月廿五日」 本文での翻字は原文どおり。
[ソ] 太良荘の百姓たち 文庫改版p. 422 日付はトリミングで読めない キャプション「建武元年 (1334) 8月」、本文「建武元年 (一三三四)」
[タ] 長慶天皇の願文 文庫改版p. 475 「元中二年九月十日」 本文「元中二年 (一三八五) 九月十日」

これから、つぎのことがわかるようにおもいます。佐藤は、

  1. 資料に書いてある年号を本文に書いている。
  2. 資料に年号が書いてない場合は、本文にも書かないか、推定であることを断ったうえで書く。

本書序章「はじめに」で佐藤は、明治時代の南北朝正閏問題の経緯を「学問と思想の自由弾圧史の一こま」として紹介し、それに対する田中義成の抵抗と蹉跌について述べ、かわって軍部と組んだ名分論的歴史家の代表として田中の弟子、平泉澄の名を挙げ、章末近くでこう述べています。

〔……〕われわれは今、南北朝政治史を詳細にあとづけようとすれば、少なくとも田中の『南北朝時代史』にまで立ちもどらなければならない。むしろ田中以前の、つまり明治・大正期の、素朴ではあるが自由な史論に多くのものを学ばなければならない。わたくしはこの態度で本書の叙述を進めようと思う。平泉氏から中世史の講義をきき、中世資料解読の手ほどきを受けたわたくしが、平泉氏をあげつらい、田中以前にもどれと主張するのも歴史の皮肉かもしれない。

名分論による超歴史的な歴史解釈ではなく、事実を根拠に歴史を叙述すると宣言している佐藤が、自分で勝手に考え出した年号を書くはずがありません。

表の [エ] は上の引用の [エ] とおなじものです。わたしは上で、これも「正しい」と言いましたが、まちがいでした。佐藤は、尊氏の心中を忖度して「建武」と書いたわけではなく、資料に書いてあった年号を書いただけなのです。

西暦年のみを記す場合についても同じことなのではないでしょうか。そうする理由は、資料に年号が書いてなかったためなのだとおもいます。

実際、これらのほとんどは武家同士の間で起きた事象に用いられています。またときには京・吉野双方の権力のおよばない辺地でのできごとであったりします。このような事象を証明する資料は、年号のはいった公文書ではなく、私信としての書状 (当時は書状に年号を書かないのが普通だったようです) などがほとんどでしょう。ほかの事件の年号などとの比定で年代を決定できたとしても、それは仮想的なある「年」であって、資料で実証された「年号」ではありません。

「常に資料に基づいて書く」ということは、「わからないことは、書かない」ということです。


以上、たいへん長くなってしまいましたが、Chokorinさんの第一の問いにお答えしました。

第二の問いへの答えは簡単にすみます。あとすこしご辛抱ください。--Hatukanezumi 2010年11月14日 (日) 05:38 (UTC) 小訂--Hatukanezumi 2010年11月14日 (日) 10:19 (UTC)[返信]

「専門家の執筆した論文や研究書」について

『南北朝の動乱』は、かれがこれまでに発表したいくつかの論文をまとめて改稿したものと考えられます。章ごとに文章のはこびに違いが見られます (多くは注意して読まないとわかりませんが、第8章にあたる「天下三分の形勢」なんかはわかりやすい。直義と師直の間の葛藤をI、II、IIIの箇条に分けて叙述しているのに、その途中に小見出しが入って節がかわっています。箇条はもとの論文にあったもの、見出しは単行本化するにあたってつけられたものでしょう)。

これは「使いまわし」というのとはちょっと違います。研究者がこれだけの分量の本を書くのに、史料 (資料) にひとつひとつあたりながら一から書いていく、ということはまずありません。資料に当たる作業は論文を書くときにやっています。そして、自分がやってきた仕事 (論文) をいくつかあつめ、それを下敷きにして (さらに、他の研究者の論文や研究書も読んで紹介しながら)、一冊の本を書いているのです。——つまり、この本の各部分部分をより精密に書いてある論文や研究書 (複数) が、この世のどこかにあるはずです。

結局、本書のような書物ができあがるまでには、つぎのような過程があることになります。

  • (0) 過去のあるとき、何かが起こり——これは誰かがなにかの地位に就いたことでも、爬虫類に羽毛が生えたことでも、なんでもいいです——それを示す「モノ」が、遺物としてのこされる。
  • (1) 後世、別の誰か (人間) が遺物を発見し、記録する。これが史料 (資料) です。
  • (2) 資料にもとづいて、研究者が論文や研究書を書く。それを参考に、新たな資料にもとづいて別の研究者が論文や研究書を書く。以下繰り返し。
  • (3) 誰かが、複数の論文や研究書を読んでまとめ、解説を書く。そういったものを複数読んで、また誰かが解説を書く。以下繰り返し。

佐藤の『南北朝の動乱』は (3) ですが、彼自身が研究者でもあるので (2) の要素も入っているでしょう。いずれにしても本書を書くまでに彼が書いたもの、読んだものが、本書とは別にあります。最初の「同書のなりたち」での引用にあるとおり、そのリストは「図書案内」として文庫改版に収められています。この中に、「専門家の執筆した論文や研究書」も見つかります。

文庫改版を手に入れてください。巻末のリストのうちどれがそうでどれがそうでないかは、Chokorinさん自身が自分で読んでご判断ください。わたしには決められません。これが、第二の問いへのお答えです。

たった一冊の本を読んでこれだけ答えるのに、準備もふくめて10日以上かかりました。ですから、Chokorinさんのおっしゃった「半年」という期間は決して長いとおもいません。結果がでるのを、楽しみに待ちたいとおもいます。

おわりに

わたしは、日本史の専門家でもなんでもありません。まったくの素人です。日本史だけではありません……一応大学をでているのですが、学位記に記されたわたしの専攻をきいたら、驚くかたもあるかもしれません。ウィキペディアで、その分野の記事をただのひとつも執筆していないのですから。異分野の記事しか書いていません。

実は、上の (3) はまさに、わたしたちがウィキペディアで記事を書くときにやっていることです。ですから論理的には、ある書物に参考文献リストが載っていれば、それを使ってその書物と同レベルの記事が書けることになります——Chokorinさんもわたしも、佐藤進一になれるのです。そのためには参考文献を読んで調べさえすればいいのですから。それだけではない。文庫改版には、「親本刊行後に進展した、研究の成果や変遷、学会の潮流についての」解説と参考文献まで増補されています。つまりわたしたち素人が、佐藤を超えることさえできるのです。これがウィキペディアの醍醐味ではないでしょうか。

長い間会話ページを占領して申し訳ありませんでした。でも、わたしはこの1週間あまり、とっても楽しかったです。古文書について基礎知識を仕入れるために佐藤の『新版 古文書学入門』も買って読みましたし (これで3300円は安い!)、中世の暦法について知ろうとして湯浅吉美『暦と天文の古代中世史』を読み返したりもしました (後者は直接役立ったわけではないですが)。本を読んで新しいことを学ぶのは、楽しいことですよね。以上で終わります。ありがとうございました(花)

そのとき、封じこめられていた時間が、最後の一秒まできっちりと巻き戻される音を、祐司はたしかに耳にしたと思った。

--- 宮部みゆき『レベル7』新潮社、1990年。

--Hatukanezumi 2010年11月14日 (日) 10:19 (UTC)微修正、不明確な箇所除去--Hatukanezumi 2010年11月16日 (火) 12:58 (UTC)[返信]