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利用者‐会話:Crw

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アメリカ同時多発テロ事件陰謀説

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ペンタゴンの監視カメラに映った「ボーイング」の拡大写真。ほよど見たくないらしい(「目がチカチカするから貼るな」だと)。

「archive」は編集すべきものではありません

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あなたが先ほどより加筆しているノート:アメリカ同時多発テロ事件陰謀説/archive01は、いわゆる「過去ログ」です。過去の議論を保存しているのですから、後から手を加えてはいけないのです。

知らずにやったことならともかく、既に分かっていて加筆するというのは自分勝手としか言い様がありません。お止め下さい。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 05:16 (UTC)[返信]

勝ちでも負けでもなく、投稿する場所についての話です。現在のノートページに書いてくれ、と言っているのです。理解できないんでしょうか。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 05:36 (UTC)[返信]
だから、その旨書いたろ。アンタこそ勝手に終わらすなって(笑 --Crw 2007年4月15日 (日) 05:40 (UTC)[返信]
「過去ログ」というのがどういうものか、理解できてますか。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 05:43 (UTC)[返信]
その点については、利用者:Calveroのノートに書いといたぞ。アンタは独裁者か? --Crw 2007年4月15日 (日) 05:48 (UTC)[返信]
どこからが過去ログなのかがわからない、と書いてありました。どこから、でなくて、/archive 以下のページは全部分が過去ログです。--Calvero 2007年4月15日 (日) 05:56 (UTC)[返信]
書き込んだ瞬間に過去ログになるんだろ(笑 --Crw 2007年4月15日 (日) 05:58 (UTC)[返信]
「どこから」が時間的な意味で使われているなら、2007年4月13日 (金) 23:41 (UTC) にページが移動された時点からです。あとログでないほう、返事がついているのに、なぜ差し戻すのですか? --Calvero 2007年4月15日 (日) 06:00 (UTC)[返信]
現実を直視しないと駄目だぞ? --Crw 2007年4月15日 (日) 06:01 (UTC)[返信]
何をいっているのか意味がわかりません。まじめに答えてください。--Calvero 2007年4月15日 (日) 06:02 (UTC)[返信]
俺はいつだって大真面目さ。嘘付いたら駄目だってママに教わらなかったんだろう。 --Crw 2007年4月15日 (日) 06:03 (UTC)[返信]
それでまじめなおつもりなのですか? 失礼ですが、あなたの言っていることは意味が全くわからないと申し上げています。過去ログの意味が理解できたのか、返事がついているのになぜ差し戻すのか説明してください。--Calvero 2007年4月15日 (日) 06:07 (UTC)[返信]

郷に入らば郷に従え。理解できないなら排除されます。あしからず。--PeachLover ももがすき。 2007年4月15日 (日) 06:05 (UTC)[返信]

そうそう、ルールと礼儀は守らなくちゃね。

ひょっとしてアレですか。暴れて投稿ブロックされてから、『私が真実を伝えようとしたら彼らがそれを阻むために追い出した』と主張するんですかね。まるでインネンつけじゃないですか。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 06:08 (UTC)[返信]

相当な分量になったのでノートページが過去ログ化されたのに、そこへ書き込む。新しいノートへ誘導されたら、わざわざ相手を小馬鹿にするようなコメントを追記していく。行動について問い質されると思わせぶりなことばかり述べて、きちんと答えない。礼を失しているのはどちらなんでしょうか。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 06:10 (UTC)[返信]

喧嘩売って来たのはソッチだからなぁ。 --Crw 2007年4月15日 (日) 06:12 (UTC)[返信]
私の質問には答えられないのですか? ケンカを売ったというのはいつの話ですか? --Calvero 2007年4月15日 (日) 06:14 (UTC)[返信]
ふざけたことを言うのは止めてください。過去ログの意味を理解してください。--Kuty 2007年4月15日 (日) 06:16 (UTC)[返信]
いや、バカにするような態度を取って来たのは、君らの仲間だろう。--Crw 2007年4月15日 (日) 06:18 (UTC)[返信]
ですからそれは、具体的にはどこで誰がやったことなんです? -- NiKe 2007年4月15日 (日) 06:19 (UTC)[返信]

Crwさんにはそろそろ投稿を制限していただくころあいですね。オトナとしての対話が成り立たないのだからもう十分でしょう。2ちゃんねるとその他の場所の区別がつかないようです。NiKeさんが、そんなチャットを続けたいなら邪魔はしませんけど。--PeachLover ももがすき。 2007年4月15日 (日) 06:21 (UTC)[返信]

投稿ブロックされたことあるんだね(笑 --Crw 2007年4月15日 (日) 06:23 (UTC)[返信]
その人の利用者ページぐらい読んでください。方針文書も読んでください。--Kazutoko (会話履歴保管倉庫) 2007年4月15日 (日) 06:28 (UTC)[返信]

ちゃんと質問に答えて下さい。まぜっかえすようなことをまた書くようなら、今度は投稿ブロックします。言葉は通じても話が通じない、あるいは話をするつもりが全く無いのだと判断せざるを得ませんので。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 06:26 (UTC)[返信]

対話拒否となるので投稿ブロックの対象にならざるを得ないです。--Kuty 2007年4月15日 (日) 06:33 (UTC)[返信]

ハツカネズミ氏が謝罪するまで、俺には質問に答える義務はないですな。 --Crw 2007年4月15日 (日) 06:29 (UTC)[返信]
甘えないでください。なぜ言葉で説明できないのか理解に苦しみます。あなたが言っているのはこれ に対するこの返事 のことですか。でしたら「過去ログ化するのはまだ早いのではないか」とひとこと言えば良いのではありませんか。--Calvero 2007年4月15日 (日) 06:37 (UTC)[返信]

対話拒否と見なします。

あなたはブロックされました。しばらくウィキペディアの編集を行うことはできません。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。この件に関するお問い合わせや異議申し立てはメーリングリストで受け付けています。

期間は2週間です。ブロックされている間に、基本方針などの関連文書を良く読みましょう。 -- NiKe 2007年4月15日 (日) 06:32 (UTC)[返信]

ご自分の主張を正しく伝える方法についてもよく考えてください。--Calvero 2007年4月15日 (日) 06:38 (UTC)[返信]

荒らし行為はやめてください。 荒らし行為はやめてください。あなたがこれ以上、橋下徹でなさったような投稿を続けると、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--Los688会話2014年4月6日 (日) 16:14 (UTC)[返信]

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ウィキペディアの基本方針をご理解なさっていないようですので、ブロックしました。基本方針をご理解なさってからご参加ください。--Los688会話2014年4月7日 (月) 11:32 (UTC)[返信]

邪魔すんなバカ野郎。書きかけだぞ? ここに貼って置くか。

『感想』(ベルグソン論)

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ベルグソン哲学の時代背景
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1859年にダーウィンが「種の起源」を公表した当時、イギリスではダーウィンに先んじてジャーナリストのロバート・チェンバースが匿名[1]で出版した、万物進化論[2]を主張する『創造の自然史の痕跡』が話題となっていた。これについてダーウィンは「下等」、「高等」という概念を人間の主観的価値観の産物であって科学的な概念とは言えないとして、その科学的価値には否定的な評価を下している。一方で、その影響が自らの学説の普及するために一役買ったことについては一定の評価を下している。このような、「下等」な生物が「高等」な生物に変化するという形式の「進化論」は、ダーウィンの指摘するとおり近代科学の水準に至っていない疑似科学であるが故に、ダーウィン以前から存在していたが充分な影響力を持つには至らなかった。ダーウィン自身、当初は自らの自然選択説を疑似科学の代名詞たる「進化論」の範疇に入れることを拒否していた。疑似科学としての「進化論」の本質はその説が生命の謎、或いはその究極的な目的を説明することであり、これは本質的に科学的な証明の不可能な形而上学である。一方、ダーウィンの学説はそれが近代科学の枠組みにある限り「生命とは何か」という哲学的な問いには無関心であり、「種の起源」という名の通りに生命の多様な「種」がいかにして発生したかについての理論であり、「生命はいかにして誕生したか」という問いには無力である。それが社会のダーウィン学説の対するイメージからいかに隔たっていようとも、これは動かしがたい真理である。ダーウィンの有力な協力者であり、現代では疑似科学的な進化論者の見本と見られているトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択説を教えられた当時の感想を「何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ」というものだったと言っている。これは、ハクスリーの思索態度が哲学的であって、科学的でなかったことによるものであろう。「ラマルク主義」で有名な、19世紀初頭のジャン=バティスト・ラマルクによる『動物哲学』以来、近代科学の水準を満たさない進化論学説のバリエーションは豊富であり、それぞれの理論の特徴についての議論はあるが、その内にはダーウィンの祖父エラズマスや、ハクスリーと共にダーウィンの有力な協力者であったハーバート・スペンサー、また小林が論じたフランスの哲学者ベルグソンも入れられるであろう。ベルグソンは著作中、スペンサーへの敬意を隠していない。

伝統的キリスト教会の神学では、世界は神が七日で創り、人間の祖先は塵から創られたアダムと、アダムの肋骨から創られたエバであるとして来た。このような世界観を無批判に受け入れる限り、人間の存在する意味を我々が改めて問う必要はない。一方、ダーウィンの学説が主張するのは「人間の先祖がサルである」という事実だけであり、しかもこの事実だけで伝統的なキリスト教神学の権威を無効化するには充分である。しかしダーウィンの学説は神学ではなく、仮にキリスト教の神学を抛棄するならば、人間の存在する意味を改めて規定する新しい神学が必要になる。それが、疑似科学的進化論の意義であったと言える。ダーウィン学説についての科学的厳格さを伴った論争では、ハクスリーやスペンサーのような疑似科学的進化論からのダーウィン学説の擁護者は間もなく排除されることになった。しかし、教会の権威に代わる新たな神学を必要とする世俗社会では、ハクスリーやスペンサーの権威が不要になることはなかった。かくて現代に至るまで、科学としてのダーウィン学説と疑似科学としての進化論の、社会の混同は多かれ少なかれ続いており、小林もまたこの混同から完全に逃れきっているとは言えない。[3]

19世紀半ば以後、ダーウィン学説と共に西欧を中心とした自由主義的な世俗社会が受け入れた新たな神学は、原罪論最後の審判もない楽観主義の哲学である。この楽観主義はしかし、20世紀初頭の第一次世界大戦の惨禍によって打ち砕かれた。(参照:実存主義#不安の時代)第一次世界大戦後の西欧社会の知的潮流は、この新しい神学の崩壊、乃至は解体から始まる。西洋哲学史におけるこの時代のランドマークとなる、ドイツの哲学者ハイデッガーの『存在と時間』、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』はいずれも新しい神学、すなわち形而上学の解体を主眼として展開されている。また、大戦以前から進化論哲学を主導して来たベルグソンのような哲学者自身、自ら路線変更を強いられた時代でもあった。[4]

ベルグソンの四冊の主著の内、最後に発表された『道徳と宗教の二つの源泉』(1932年)をのぞけば、残りの三書は第一次世界大戦(1914-1918)以前の1889年から1907年までに発表されている。最後の著作が間が開いているのは、戦後のベルグソンが賢人会議に参加するなど、思索よりも大戦後の平和活動に熱心だったせいである。また前三書がそれぞれ意識現象、生理現象、生物現象を扱っている進化論哲学であるのに対し、最後の著作はどちらかと言えば社会学的考察である。[5]これらの点から言えるのは、進化論哲学者としてのベルグソンの著作の主眼となる部分は、小林が文筆活動を始めた第一次世界大戦後には既に時代遅れであったということである。

ベルグソン哲学の特徴
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ダーウィン学説の普及と共に盛んになった進化論哲学は、科学の発展を大前提とするが故に人間の理性を絶対視する「自然の光」、或いは主知主義の哲学であり、ベルグソンの哲学も例外ではない。ベルグソンをアリストテレスに象徴されるような伝統的な理性の哲学と区別するのは、その直観主義であると言われる。しかしベルグソンは、第一次世界大戦前の1903年に発表した『形而上学入門』で「知的直観」“intuition intellectuelle”と書いた箇所を、大戦後 ―― つまり思想背景としての進化論を抛棄した後と思われる時期に発表した論文集に転載するにあたり「心的直観」“intuition spirituelle”と書き直している。[6]この戦前のベルグソンの直観主義は、我々日本人が禅仏教で歴史的に親しんでいるような宗教的直観主義とは異なり、小林の重視する「リアリスム」に着地しない一種の主観主義であり、ベルグソン哲学の特徴的なものであろう。また、この知的直観主義と対をなしてベルグソン思想を特徴付けるものにイマージュ論がある。ベルグソンにとって、「イマージュ」とは単なる心的表象とは異なる、一種の観念実在論である。このベルグソンのイマージュ論の影響は、小林においてはそのドストエフスキー伝の序文をなす「歴史について」で見られるような、(ややグロテスクな)実在論的な歴史哲学となる。ベルグソンのイマージュ論は、彼が一時期会長を務めた英国心霊現象研究協会が研究対象にしたエクトプラズムを連想させるものがある。また、ベルグソンの宗教観もこれに倣ったものであり、後年、英国国教会が心霊主義を内偵して秘密提出し、暴露されたと言われる報告書における心霊主義の宗教観についての批判は、ベルグソンの宗教思想を非常に連想させる。

 愛の崇高さについても、新約聖書の「神は愛なり」という主張に匹敵するものが見られることは事実だが、キリストの持つ贖罪性についての叙述などは、人間の罪の重荷を背負ってくれるという根本的な(キリスト者の)受容の信仰ならびに十字架上での勝利ではなく、どうやら(復活における)物質化現象という奇跡を生じさせるある種のエネルギーのことであるらしく、キリスト教的福音の教えには遠く及ばないことがしばしばである。 「英国国教会“スピリチュアリズム調査委員会”多数意見報告書」

ベルグソンは、いずれ科学の発展が死後生の謎をも解き明かすことを期待する。これは現代ではいささか牧歌的に過ぎる態度と言わざるを得ないが、ともかくも小林の『感想』冒頭における小林自身の超心理学的体験談は、このようなベルグソンの俗流神秘主義の影響を受けていると言えるであろう。小林のこのような形での超心理学的問題についての関心は『本居宣長』後に書かれた最晩年の『正宗白鳥の作について』(1981年 小林79歳)にまで至る。ここでは小林の話は脱線してユング論に至り、「心の現実に常にまつわる説明しがたい要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明・・・」という引用文で、小林は我に返ったようにその連載を中断している。

概してベルグソンの進化論哲学の体系は、小林がそれと信じた程には精神的でも芸術的でもなく、小林の文筆活動において我々が論じる価値のあると見る分野に比較してあまりに素朴であり、楽天的に過ぎるのであって、そこから小林が期待するものを汲み上げるのは困難であったと言えるであろう。ベルグソンは生命活動を砲弾の飛び交う戦争のようなイマージュによって提示する。事実、歴史はそのようになったのであって、戦後のベルグソンの平和活動にも関わらず、生物学的民族主義と進化論哲学を奉じるナチス・ドイツユダヤ人哲学者ベルグソンの住むパリを占拠することになったのである。ベルグソンは遺稿の公開を禁じてナチス占領下のパリでひっそりと最期を迎え、ベルグソンの膨大な遺稿を期待しながら戦後を迎えた小林はそれを知り「恥ずかしかった」と告白している。

第二次世界大戦後間もなく出版され、小林の『感想』中断の2年前に邦訳出版されたバートランド・ラッセルの浩瀚な『西洋哲学史』は、その膨大な学識を以てベルグソンの体系を批判している。1963年(昭和38年)に、小林はソ連作家同盟の招きで訪ソしたのを期に、5年の歳月をかけたベルグソン論を中断した。後に小林は数学者岡潔との対談で、中断の理由として「無学を乗り越えられなかった」と述べている。

小林が公開を禁じたベルグソン論『感想』は、生誕百年を記念して刊行された第五次小林秀雄全集と共に本人の意志とは全く無関係に公開された。これは極右政治家である石原慎太朗や、ポピュリスト政治家小泉純一郎による反共ファシズム改革による小林のベルグソン論の政治利用という、小林の読者層からは最も遠い集団の手による、[7]小林がおそらく最も懸念した形での動機によるものである。

この項目書きかけ。

脚注

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  1. ^ 西欧キリスト教の宗教裁判が消滅するのは、19世紀半ばの「種の起源」からしばらくしてからのことである。ダーウィン学説が引き起こした論争の影響による「自由化」以前の大学とは、すなわち神学校を意味した。ダーウィン自身も『種の起源』について尋問を受けるために呼び出しをされた。
  2. ^ 単に生物だけにとどまらず、宇宙そのものが進化するという形而上学説
  3. ^ 今時、ハクスリーやスペンサー、ベルグソンのような古色蒼然たる哲学者を言挙げするのは「死馬に鞭を打つ」ようなものであるという見方はある。これについて科学ジャーナリストのアーサー・ケストラーが『機械の中の幽霊』で、以下のような問題を指摘している。  ―― SPCDHという頭文字は「死馬愛護協会(Society for the Prevention of Cruely to Dead Horses)」の略である。これは世界中に支部をもつ秘密結社であって、私たちの現代の知的気候にかなりの影響を及ぼしている。その活動の数例をあげておかなくてはならない。  大戦のあいだ、ドイツ政府は六〇〇万人の非戦闘員を死の工場で殺した。これは最初は秘密にしておかれた。事実が漏れるとSPCDHは彼らのために一席弁じて、責任者たちを裁判にかけるのは不公正でありよくないことだと論ずる方針を打ち出した。それは死馬を鞭うつものだというわけである。  ソヴェイエト政府も、スターリン統治時代に、やり方こそ違うがそれに匹敵する規模で、野蛮行為を行った。西欧の進歩派仲間の中でそれに対する公の注意を引こうとする者は、冷戦屋、中傷家、気違いと非難された。スターリンの後継者がこの事実を正式に認めると、それがまだ北京からベルリンまで他の国々を荒らし回り続けていたにもかかわらず、SPCDHはこの件をただちに死馬であると分類した。  イギリスの島国根性、階級差別、社会的俗物主義、言葉のなまりで人を品定めしてしまうことなどはすべて死馬であると宣言され、空中をみたすうつろないななきは亡霊が発するものに違いないとされた。アメリカのドル崇拝、物質主義、大勢順応主義についても同じことがいえる。客間の遊びに、この一覧表をもっと続けていくこともできるだろう。(アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』p.530-531)
  4. ^ 他に路線変更をした哲学者に現象学を主導者であり、戦後に『危機書』を著したエドムント・フッサールなどもいる。ベルグソンとフッサールは共にダーウィンが『種の起源』を公表した1859年生まれである。
  5. ^ 中央公論社『世界の名著』ベルクソン 解説/澤潟久敬 1968年
  6. ^ 中央公論社『世界の名著』ベルクソン 解説/澤潟久敬 1968年
  7. ^ 石原慎太朗は第五次全集に参加しながら小林は読んだことがないと言っている。

--Crw会話2014年4月7日 (月) 11:44 (UTC)[返信]

許すと思うな糞野郎どもめ。 --Crw会話2014年4月7日 (月) 11:57 (UTC)[返信]