利用者‐会話:Dgftrewq7788899
ウィキペディア日本語版へようこそ! | |||
---|---|---|---|
こんにちは、Dgftrewq7788899さん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
Dgftrewq7788899さんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。お互い良い活動をできるようがんばりましょう! --R28Bot 2008年1月28日 (月) 11:49 (UTC) |
削除項目「牧野城改名の理由」復活について
[編集]Dgftrewq7788899さんこんにちは、故城一片之月と申します。
ページ;牧野城(遠江国)出典不明とのことで、Dgftrewq7788899さんが全文削除されましたが、出典は『寛政重修諸家譜』(巻第三百六十四・清和源氏支流、牧野)の牧野康成の項の本文中に、「(天正三年)八月諏訪原の城をせめたまひ・・・」とあり、「ここにをいて康成おほせを蒙り忠次とゝもにこの城を守る。・・・また諏訪原をあらため、牧野城と号したまふ。」と明記。由来も同条で、「これ昔周の武王殷の紂王をやぶりしためしをもつて、このとき忠次を周防守となづけ、城をも牧野とあらためたまふとなり」と記されています。
『松平家忠日記』には明記されていないかも知れませんが、江戸幕府公式編纂系譜集の『寛政重修諸家譜』に明記されているのですから、わたしの記述は復活の妥当性があると考えられますが、どうでしょう?--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 15:02 (UTC)
常山紀談の記述を引用して、寛政重修諸家譜に収載していると思われます。常山紀談のほうが成立が早いです。
松平家忠譜、寛政重修諸家譜所載。こちらの家忠日記も、寛政重修諸家譜に収載されているものです。
同じ出典のなかで、家忠日記の記述を無視して、(巻第三百六十四・清和源氏支流、牧野)の記述を重視するのは、おかしいと思います。牧野城の普請者・城主の日記ですので。
どうしても、記載したいのなら、出典の明示、および記述の相違、(出典の史料の信憑性;これはなくてもいい)などを付記のうえ、記述してください。--Dgftrewq7788899 2008年1月28日 (月) 15:26 (UTC)
- 『家忠日記』の記述内容そのものには異議はないのですが、記述時期が該当してないのでは(天正5年以降の日記、城名改称は天正3年とされているので)。私の記事はもう一度点検のうえ、あらためて再掲載をします。今日は終わります。--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 17:31 (UTC)