利用者‐会話:HI

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ウィキペディアにようこそ![編集]

こんにちは、HIさん、はじめまして!何三(S)と申します。ウィキペディアへようこそ!

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。

Welcome to Japanese Wikipedia. If you are not a Japanese-speaker and expect further information, visit Wikipedia:Chatsubo for Non-Japanese Speakers. Enjoy!

なお、このメッセージは主に利用者‐会話ページに何も記入されていない方に投稿しております。HIさんが、すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、ご存知のことばかりをご案内したかもしれません。不明をお詫び申し上げます。--何三S' 2006年8月24日 (木) 03:56 (UTC)[返信]


何三(S)さんメッセージありがとうございます。 とりあえず項の充実の為に習得したものなのでこの先どうするかはわかりませんが、何かありましたらお願いいたします。--HI 2006年8月24日 (木) 23:19 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ[編集]

こんにちは。ウィキペディアにご寄稿頂きましてありがとうございます。HIさんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。

投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでよろしければお読み頂けると幸いです。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。Jinnsg 2006年9月8日 (金) 17:53 (UTC)[返信]

Image:陣立.jpgへの出典とライセンス明記のお願い[編集]

一週間後、この画像は削除されます。

こんにちは。Image:陣立.jpgをアップロードして頂き、ありがとうございます。しかし、この画像(ファイル)には出典が明記されていないため、著作権の状態が明らかでありません。出典とライセンスのないファイルは、削除されます。

このファイルがあなたによる著作ではない、あるいはそのようなファイルをあなたが加工したものならば、ファイルの(原)著作者、ウェブサイトへのリンクなどファイルの入手先、そしてこのファイルがウィキペディアの画像利用の方針に沿っているという根拠を示す必要があります。あなた自身が撮影した写真である等、あなた自身の著作であるならば、その旨を明記してください。

加えて、画像の著作権表示タグを貼付していない場合は、左のリンク先を参照して、適切なライセンスを表すタグを貼付してください。また、「非営利のみ利用可」「利用には許可が必要」などの自由な利用ができないファイルのアップロードは認められません。どうぞよろしくお願いします。

重要: あなたがこのファイルの他にもファイルをアップロードされているならば、あなたのアップロード記録を見て、他のファイルにも同様に出典とライセンスが明記されているかどうか今すぐ確認してください。それらのファイルや、今後あなたがアップロードされたファイルに出典やライセンスが記載されていなければ、同様に削除されます

要約: ウィキペディアでは写真など画像を投稿する際には、作成者の名前とライセンスを明記するよう求められています。 ライセンスはPDGFDLの2種類があり、どちらか適切なほうをお選びください。画像のページに {{GFDL}}{{PD}} のどちらかをご記入くださると自動的にライセンスの文章が挿入されます。分からないことがあった場合はマルチメディアFAQをご覧ください。

珍庵 2006年9月15日 (金) 11:56 (UTC)[返信]

川窪兵庫の軍役について(長篠の戦い)[編集]

はじめまして。現存している書状というのが、「土地三百数十貫に対する動員兵数」を定めた軍役定書なので、寄騎や足軽ましてや浪人衆は含まれないと考えるのが自然です。足軽というのは一般的な徴兵で集められる兵とは違い、武田家直属の常設的なものです。数字的信憑性はありませんが、甲陽軍鑑中でも特に足軽の数字を明記している点にご注目ください。つまり一般の動員兵と区別しているということです。また信虎時代・信玄時代に顕著ですが、武田家において足軽隊将と区別された人物の多くは、武田家直属の(国人領主でない)部将です。ということなので、該当部分の修正を宜しくお願いします。Nubolari 2006年12月29日 (金) 02:23 (UTC)[返信]

徳川家康の秀逸な記事選考のお知らせ[編集]

はじめまして。文章と申します。この度、徳川家康を秀逸な記事に推薦いたしました。 ご意見や投票を待っております。--文章 2008年1月28日 (月) 01:41 (UTC)[返信]

お願い[編集]

江戸城の記事でお願いしていますが、出典は第三者が検証できるものにしてください。(当たり前のことですが。)脚注に「グーグルマップで測った」とありますが、脚注は貴殿の検証内容を記述する箇所ではありません。(これも至極当たり前のことですが。)

今一度、Wikipedia:検証可能性に目を通されることをおすすめします。    219.9.130.34 2009年6月18日 (木) 05:19 (UTC)[返信]

関ヶ原本戦の配置の記事について[編集]

思い入れがあるとは少し異なりまして、複数の資料を用いた上でそれを識者の見解が綱文として記載されているのが「朝野」しかないのでそれに沿う形で作成しているに過ぎません。当然、間違いもあるでしょうが、それを特に断わりも無く変更するのは問題となります。
よって例えば三淵大和守が時期的にありえないと記述したいならば、それを裏付ける資料を加える形で例えば注釈に「『朝野』ではこの様な記述がされているが何々の資料によると三淵大和守はこの時期にはいない」もしくは「『朝野』内では三淵大和守の名もあるが何々の資料より時期的にありえないので除外した」といった形で記載するのが適当と考えます。--HI 2009年12月23日 (水) 02:18 (UTC)[返信]

海自の画像について[編集]

投稿いただいた海自の画像についてですが、ライセンスに疑義があります。ファイル‐ノート:6101 l.jpgを参照お願いします。--KENPEI 2010年9月25日 (土) 04:18 (UTC)[返信]

Category:アメリカの自走砲について[編集]

「Category:アメリカの自走砲」「Category:アメリカのロケット砲」の作成ありがとうございます。ただカテゴリの名称で米国を指す場合の表記はアメリカ合衆国となっています。これはアメリカ合衆国をアメリカと省略する表記はWP:NPOVに反すると共に、「『アメリカ』とは何か」という曖昧さが発生するためです。作業量が少ないため、自走砲は当方で「Category:アメリカ合衆国の自走砲」に差し替えておきました。--open-box会話2012年10月16日 (火) 14:18 (UTC)[返信]

南アフリカ共和国についてもアメリカ合衆国と同じ事情が存在しています。「Category:南アフリカの装輪装甲車」と「Category:アメリカのロケット砲」も作業の迅速化のためこちらで処理させていただきました。--open-box会話2012年10月17日 (水) 12:20 (UTC)[返信]

記事名の変更に際しては、Wikipedia:ページの改名をご確認ください。--Los688会話2016年8月8日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

このアンケートを通してウィキメディアンとしてのご意見、ご感想をお寄せください。[編集]

WMF Surveys, 2018年3月29日 (木) 18:30 (UTC)[返信]

お知らせ: このウィキメディア・アンケートでご意見を聞かせてください[編集]

WMF Surveys, 2018年4月13日 (金) 01:29 (UTC)[返信]

あなたのフィードバックが重要です:ウィキメディア財団のグローバル調査ご協力への最後のお願い[編集]

WMF Surveys, 2018年4月20日 (金) 00:38 (UTC)[返信]

遣唐使、海事史学者の石井謙治説の出典のお願い[編集]

初めまして。「遣唐使」の項目に手を入れています。「航路と遣唐使船」節の"遣唐使船遭難理由"についても出典を貼付し補強しましたが、最近書かれました「海事史学者の石井謙治…南路は当時の未熟な航海技術」が、出典が記述されていません。ぜひ、書籍名とページのわかるように出典を記入していただきたいのですが、お願いします。--奈良たかし会話2018年5月9日 (水) 07:23 (UTC)[返信]

早速の対応、ありがとうございました。--奈良たかし会話2018年5月9日 (水) 13:20 (UTC)[返信]

Community Insights Survey[編集]

RMaung (WMF) 2019年9月6日 (金) 19:20 (UTC)[返信]

Reminder: Community Insights Survey[編集]

RMaung (WMF) 2019年9月20日 (金) 18:22 (UTC)[返信]

Reminder: Community Insights Survey[編集]

RMaung (WMF) 2019年10月3日 (木) 21:16 (UTC)[返信]

2021年ウィキメディア財団選挙の候補者を紹介します[編集]

こんにちは!

2021年ウィキメディア財団選挙が8月に始まります。今年の理事会選挙は、2021年8月4日から17日まで実施されます。ウィキペディア日本語版の編集者を含むウィキメディア・コミュニティのメンバーは、3年の任期で4人の新しい理事を選出する機会があります。理事会選挙の開始に先立ち選挙運動期間が設けられており、この期間中にコミュニティが候補者と顔を合わせる機会があります。

  • ウィキメディア財団における理事会の役割は何ですか?
理事会の簡単な説明はこちらをご覧ください
  • 候補者紹介
今回の選挙には20名の立候補者がいます。候補者についてはこちらをご覧ください

理事選挙をサポートするファシリテーター チームは、選挙運動期間中にいくつかの活動を用意しています。
7月31日(土)の19:30(JST)から、日本を含むアジア・太平洋地域のユーザーが候補者と交流できるオンラインイベントが開催されます。日本語による同時通訳も提供される予定ですので、どうぞお気軽にご参加ください。

こちらのフォームから事前に参加登録をお願いします。
フォームのプライバシーポリシーをご確認ください。

その他の活動については、メタウィキの理事選挙ページをご覧ください。

ご質問がございましたら、ファシリテーター選挙ボランティアまでお問い合わせください。

選挙ボランティア一同 2021年7月24日 (土) 15:04 (UTC)

このお知らせは2021年ウィキメディア財団理事会選挙ボランティアにより作成され、botにより配信されました。 •フィードバック •購読解除

まもなく終了 理事会選挙へ投票のお願い[編集]

HIさん

こんばんは。お忙しい時間帯に恐れ入ります。

2021年ウィキメディア財団選挙は最終盤に入っております。これまでご協力いただいた皆様、ご投票いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

もしHIさんが投票をお済ませでなければ、ぜひこちらから清き一票をお願いいたします。

ウィキペディア日本語版の運営にも深く関与する理事会の候補者の選出に際し、投票資格をお持ちの数少ないユーザーの一人であるHIさんのご意見を反映することは非常に重要だと考えています。

投票いただくに際し、まず19名の候補者からHIさんが支持する方をお選びください。 支持する候補者を選んだら、支持する順に候補者の名前を選び、投票ボタンを押すだけです。 所要時間は5分未満で、完全な匿名性が保証されます。

投票は、日本時間の9月1日(水)の朝9時に締め切られます。

ウィキメディア財団の運営にウィキペディア日本語版コミュニティの意見を反映させるために、HIさんのご協力を重ねてお願い申し上げます。

どうぞよろしくお願いいたします。

--選挙ボランティア一同 2021年8月31日 (火) 11:16 (UTC)

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家康が本能寺の変の前に西国へ遠征をするつもりだったという”話”について出典の明示をお願いします。[編集]

本能寺の変の記事で、「なお家康も帰国後に軍勢を整えて西国へ出陣する予定だったことが、『家忠日記』に記載されている。」とありますが、『家忠日記』にそんなことは書かれてません(松平家忠国立国会図書館デジタルコレクション 家忠日記』 第2、吉川半七〈文科大学史誌叢書〉、1897年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/58 国立国会図書館デジタルコレクション 

またリバートして「京から三河までの情報伝達日数を考慮して下さい、なお同日に本能寺の変の記載があるのはそれが急報故です」というコメントをかかれてますが、それは何を出典にして言っているのでしょうか? どの研究者の誰の意見ですが? それがあなた個人の意見ならば独自研究ですけど・・・(Wikipedia:独自研究は載せない)。ウィキペディアで「情報伝達日数を考慮」できるのは、公の権威だけです。あなたではなくて。

いずれにしても、出典を掲示してください。でなければ独自研究でしかないですし、家忠日記の内容は、三日に西国に出陣命令があった、と書いてあるだけで、それが本能寺の変の前に命令されたとはどこにも書いてありません。それどころか、「家康下りて・・・」から始まっており、同文に津田信澄も本能寺の変に加担していたのかという部分があり、家忠が三日の条を書いたときに本能寺の変を知っていたのは明らかです。前掲の『信長と家康 清須同盟の実体』270-271ppの谷口克広は、本能寺の変の”後”に反応した遠征だと説明していて、5日に出陣を急がせたのに8日になっても出撃しなかったといろいろ書いてあります。要するにあなたの”主張”は前述コメントのように否定されています。出典が示されないのならば、独自研究は削除させてもらいますよ。本能寺の変の「後」の出来事はこの部分に書くのは可笑しいですから。--Quark Logo会話) 2022年5月6日 (金) 15:38 (UTC) (訂正)--Quark Logo会話2022年5月6日 (金) 15:40 (UTC)[返信]

『家忠日記』の当該条には、家康が西国出陣する旨の後に「酉刻ニ、京都にて上様ニ明知日向守、小田七兵衛別心にて、お生かい候由、大野より申来候、」とあり、西国出陣を書いた後の酉の刻(午後5時から7時頃)に本能寺の変の一報がもたらされたことになります。--HI会話2022年5月6日 (金) 22:19 (UTC)[返信]
いいえ、これは第一報と第二報であると谷口はしています。「三日巳丑 雨降 京都酒左衛門所より 家康御候者 西国へ御陣あるべしよし申し来たり候 (中略) 酉刻ニ、京都にて上様ニ明知日向守、小田七兵衛別心にて、お生かい候由、大野より申来候」 とあり、谷口克広氏は伊賀越のときに飛躍を飛ばしてまず仔細を伝えずに出陣命令だけを伝えて変報は秘密にしたのだろうと書いていて、「巳丑」の直接の上司である酒井忠次(酒左衛門)の命令と、「酉刻ニ」の三河に別のルートで家忠が手にした情報と解説してます。あなたの分析ではなく出典が必要です。独自研究は載せないはまずご存知ですよね? あなたのおっしゃることは完全に独自研究ですが、ご自身の分析をウィキペディアに載せることはできません。 出典があるならば両論併記になりますが、独自研究は排除しなければならないがウィキペディアのルールです。独自研究であるということを認めているということでいいですか? 重ねて言いますが、あなたの見解が例え正しくても、独自研究は載せられないがウィキペディアのルールです。ベテラン編集者でありますから当然ご存知のことと思います。--Quark Logo会話2022年5月7日 (土) 01:29 (UTC) [返信]
ではこちらの駒澤大学禅文化歴史博物館の解説記事を出典とします
https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/museum/file/ietada_yokoku02_hon-noji.pdf--HI会話2022年5月7日 (土) 01:48 (UTC)[返信]
両説併記で別にいいのですが、最初から出典付きで書かないと駄目なんですよ。後から自説と同じ出典を探すのではなくて。不明の情報をぶっこんでくるのはやめてください。説明無し、出所不明になって後が困る上に、編集争いとか勘弁してくださいよ。--Quark Logo会話2022年5月7日 (土) 04:40 (UTC)[返信]
谷口氏の論に従えば緊急事態にも関わらず、指物を最新の流行りに変更という悠長な命令をしていますね。--HI会話2022年5月7日 (土) 05:23 (UTC)[返信]
諸国ではやってないから大きな指物はするなという指示だから、むしろ無駄な準備をしないようにとか、迅速に移動する可能性を考慮したんじゃないでしょうかね。緊急事態に反する指示ではないでしょう。この話題と関係ないのでもう終わりますが。--Quark Logo会話2022年5月7日 (土) 07:17 (UTC)[返信]

方広寺鐘銘事件について[編集]

「Kyoto history」と申します。現在「方広寺鐘銘事件」という記事を作成しようとしております。突然かつ無礼なお願いで恐縮ですが、「大坂の陣」の記事の、方広寺鐘銘事件の政治的側面を論じた部分について、(履歴を見るとHI様が主筆のようですので)当該部を「方広寺鐘銘事件」の記事に転載していただくことは可能でしょうか。

なお、これまでの経緯について説明します。方広寺鐘銘事件について、(何故かあまり知られていませんが)京の大仏再建によって生じた事件であるので、大仏が何故、どのような経緯で再建され、それが何故徳川氏と豊臣氏の紛争に繋がったかについて記述する必要があると考えていますが、現状ですと「大坂の陣」の記事の中の一項目ですので、大仏について加筆すると、「本筋からずれている」として削除されます。そのため方広寺鐘銘事件の記述のみ記事を分けてみたのですが、W4171n64U様や春春眠眠様から、「他の執筆者の加筆した記事を、他の記事に移すことは、著作権に反する」との指摘があり、現在方広寺鐘銘事件の記事は、私が加筆した部分のみ残っているという状態となっています。(豊臣氏擁護の論調になっていますが、上記経緯により結果的にそうなったもので、徳川氏擁護からの視点を意図的に削除したという訳ではありません。)なお春春眠眠 様から「大坂の陣」の記事のコメントアウトも取り止めた方が良いとの指摘があったので、コメントアウトも消しておきました。--Kyoto history会話2023年1月20日 (金) 05:53 (UTC)[返信]

なお春春眠眠様とのやり取りは以下となります。

利用者‐会話:Syunsyunminmin

御指摘の件に付きまして、自身加筆分の記事のみに修正しました。大変失礼いたしました。(履歴を確認していただければ、当該分は私が加筆したものと分かると思います)--Kyoto history(会話) 2023年1月19日 (木) 09:08 (UTC)返信

どちらにせよそれまでの版の削除は必要になります(Wikipedia:ウィキペディア内でのコピー参照)。今進んでいる削除依頼は修正前の版の削除であるため改稿の有無は関係ありません。また、分割提案がされていないことも問題視されています。今からでも提案して適切に分割されるか大坂の陣のコメントアウトを差し戻されることをおすすめします。 --春春眠眠 🗨️会話 2023年1月19日 (木) 09:20 (UTC)

御指摘の件、承知いたしました。大坂の陣のコメントアウトを削除いたします。2023年1月19日 (木) 09:44 (UTC)

Kyoto history様、先ずは春春眠眠様も指摘されている様にWikipedia:分割提案Wikipedia:ページの分割と統合のガイドラインに沿って分割提案を行うべきと考えます。--HI会話2023年1月20日 (金) 12:59 (UTC)[返信]
HI様
御返信いただき有難うございます。
早速分割提案をしてみました。
私が新参者で疎いのですが、もし提案方法が間違っていましたら、御教示いただけますと幸いです。--Kyoto history会話2023年1月20日 (金) 20:27 (UTC)[返信]

河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』について[編集]

Kyoto history と申します。先日「方広寺鐘銘事件」の記事を分割させていただいた者です。

鐘銘事件について、HI様が主筆のようでしたので、「方広寺鐘銘事件」のノートに以下のような文を掲示したことを

会話ページにもお伝えいたします。長文で大変恐縮です。


Kyoto history と申します。

私は方広寺大仏(京の大仏)に関する事柄を加筆しています。方広寺大仏を研究している河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』という本が刊行されたので、それを底本にして加筆しています。

上記書籍ですが、以下のスタンスで書かれています。

1、方広寺大仏・大仏殿の変遷を中心に、豊臣と徳川の関係を考察する。

2、一次史料に準拠するが、それがない場合は注記書きの上で、二次史料も使用する。

3、なるべく武家の史料は避け、公家・僧侶の残した史料に基づいて検討する。

当該書籍の方広寺鐘銘事件について扱った部分では、現行のwikipedia版とは全く正反対の内容が記述されています(読み方によってはそもそも鐘銘事件はなかったとも読める内容になっています)。私は方広寺鐘銘事件の政治史的側面について疎いので、河内氏の記述が正しいのか否かよく分かりませんが、

「家康は鐘銘事件について、且元に責任はないと考えていた」「鐘銘文をすりつぶせばよいという内示が家康よりあった」ということを示唆する一次史料がある旨のみ、wikipedia本文の「方広寺鐘銘事件の評価」に追記しておきました。

上記につきまして、お詳しい方がいましたら、加筆・修正していただけますと幸いです。

なお河内氏の論考は以下の通りです。

※凡例

〇:一次史料名(本のページ)

<考察>:河内氏の考察(本のページ)

<鐘銘事件>

<考察>:『本光国師日記』によれば、鐘銘文に長々と長文を書き連ねたことと、自身の諱を入れられたことを問題視した(p.158)。 一次史料の『本光国師日記』には、通説で言われるような、諱を割いたことについての言及はない(p.159)。棟札については、家康の派遣した中井正清の名が記されていないことを問題視した(p.158)。 ただし家康がそれらの問題について言及したのは、大仏供養の延期を仰せ出した後であることは留意が必要である(p.158)。

<鐘銘問題に対する且元の駿府での謝罪> 且元は駿府で家康に対面できなかったが、協議が不調で終わった訳ではない。徳川方はいわゆる三か状を且元に提示したことを一次史料で確認できない。

〇『本光国師日記』8月22日条に以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載ある(p.162)

「市殿(片桐且元)不届きの儀はこれあるまじきとの上意」「文言以下の善悪、市存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」

<考察>:鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている(p.162)。

〇『本光国師日記』9月8日条に、同じく以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載がある(p.162)

「おのおの談合そうらいて、江戸様(徳川秀忠)と秀頼公以来疎意なきように、江戸様へ御意を得られそうろうようにと仰せ出」「市殿も安堵」

<考察>:徳川秀忠と豊臣秀頼の両者が疎遠にならないよう、大阪で会見する案も存在していたとしている(p.162)。

〈且元の追放の理由〉 不明

〇『言緒卿記』9月27日条

  「大坂片桐市正(且元)、秀頼公の前大樹(家康)へ使いつかまつり悪しきよしそうらいて、語意に背くよしなり」(p.163)

〇『義演准后日記』9月26日条

「片市正(且元)・同主膳(貞隆)切腹せらるべし」(p.163)

<考察>:且元が駿府での会議から帰阪し、秀頼らにどのような内容を伝えたかは不明だが、且元は逆心を疑われ、命の危険にさらされることになった(p.163-164)。

徳川氏より且元にいわゆる三か状を突きつけ、それを秀頼に伝えたので逆心を疑われたという通説については

疑問が呈されており、曽根勇二氏『片桐且元』2001 で指摘のように、三か状は且元の私案でしかなかった(p.195)。

〈且元の退去を受けた家康の上洛〉 すぐに大坂城を攻撃しようとした訳ではない。

通説では10月に御陣触れをしたことをもって大坂攻めを決定したとされるが、御陣触れをしたのは事実だが、一次史料からは、すぐに大坂を攻撃しようとしたとする意図は確認できない(p.165)

家康は、七将による石田三成襲撃事件の時の仲裁のように、豊臣氏と且元を仲裁する意図で上洛しようとしたのではないか。(p.164)--Kyoto history会話2023年2月11日 (土) 08:55 (UTC)[返信]