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利用者‐会話:Hayashi Masayuki

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無出典の記述をおやめください

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刑部卿局について、あれやこれやの文章を追加されておられますが、差し戻しを行いました。Wikipediaは「百科事典」を標榜しており、出典のない記述は歓迎されません(Wikipedia:出典を明記する)。現状、貴殿の執筆姿勢は大変問題があると言わざるを得ません。「歴史上の人物」の記事から「歴史のロマン」はなるべく取り除かれるべきです。少なくとも「後世にはそのように語られた」と判断可能な状態で触れられるべきです。ましてや、素人考えの「僕はこうだと思う」は断固として排除されるべきです。たとえば「小谷城で育ち落城の際には崇源院らと共に落ち延びた。小柄で華奢な崇源院と刑部卿局はよく似ていた。崇源院の三度の結婚に付き従った刑部卿局は影武者のような女性とされ、だからこそ千姫の乳母という重要な立場を得て豊臣本陣である大坂城へ行くこととなった。山育ちの身体の丈夫さと運動神経は重宝された」などという文章を書き込んでおられますが、当然なにかしらの情報の出所がありますでしょうね? いかなる出典に従っていますか? 伝承であるならば、その出所にたどり着ける情報を付さないといけません。「生年不明とされるが、浅井家の子供達の遊び相手として奉公した経歴から少なくとも浅井万福丸から崇源院の間と考えられる」などと書き足しておられますが、どのような研究者がそのように「考えて」いるのですか? たとえば最近出ました黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新聞出版〔朝日新書〕、2023年)では浅井長政の子女について検討を加えており、いわゆる浅井三姉妹の生母が本当にお市の方の所生というところから検討を行い、また浅井万寿丸や浅井井頼といった「長政の子と伝承されているがはっきりしない人物」についての情報の整理を行った上でその実否の判断を行っておられますが、刑部卿局についてはそうした検討の俎上にもあがっていません。浅井氏について研究した歴史学者による研究書はそれなりにあるはずですが、それらに目を通されているでしょうか? 穂積重遠の見解の通り、満徳寺の寺伝が伝える「長政の娘」説は事実として疑わしい(縁切寺という中世以来の「特権」を守るために徳川家との特別な由緒を強調する必要があった)、ただそれは満徳寺の人々にとっては大切な「伝説」として語り継がれてきた、といった形で、歴史的事実として確認できること・はっきりしないこと、後世に語られたことをきちんと区別できるような記事であるべきです。 --桂鷺淵会話2023年8月4日 (金) 19:35 (UTC)[返信]