利用者‐会話:Hibiki-c
ウィキペディア日本語版へようこそ! | |||
---|---|---|---|
こんにちは、Hibiki-cさん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
Hibiki-cさんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。 |
初めまして。sk1006と申します。あなたがこれから実り多き活動をなさられる事を期待します。
wikipediaについて不明な点があられましたら、私のノートページまでご一報下さい。微力ですが、ご協力させて頂きます。Sk1006-Information is money.- 2007年11月14日 (水) 23:43 (UTC)
アル・マンソール(マンスール)について
[編集]こんばんは。ノート:サン・ミゲル・デ・エスカラーダ修道院において、差分にて一次回答をしておきました。現在日本語版wpに記事のある同名人物とは別名という認識です。初版でリンクを付けなかった理由についても述べています。あまり調べる時間も取れないので、詳細を突っ込まれると時間が必要なのであれですが、一旦コメントいただけますか。必要が有れば、再来週の週末あたりにはまた時間とれるのでそこで調べてきます。--Mizuhara gumi(会話) 2016年6月7日 (火) 13:25 (UTC)
沙也可の編集について
[編集]はじめまして。直蔵と申します。沙也可を閲覧したのですが、2012年5月17日 (木) 06:37時点における版においてHibiki-cさんが付けた要出典タグの位置はそれで正しいのでしょうか?日本語版の場合、脚注や要出典タグなどは文全体を対象とする場合には句読点の直前に置くという指針があるので、「加藤清正配下で4000石の…」の文につき出典を要求するのではなく(この目的であっても文冒頭ではなく文末尾に置くのが本来の記法だと思いますが)、「丸山雍成は原田信種と…」の文につき出典を求める趣旨であるならば、現在の位置の直前の句点の前に再配置するようにお願いいたします(それ以外の趣旨であるならばHelp:脚注#スタイルと用法の各指針にしたがって再配置願います)。それと、もうひとつ、「なお、原田は数年後である…戦病死したとする説もある。」との一文を追加されていますが、これは出典が何かあるのでしょうか?あるのであれば出典の明記を、ないのであればその記述は除去するか、(こちらの方法は自己矛盾になるのでお勧めしませんが)要出典タグを付して残すようにお願いします。以上、よろしくお願いします。--直蔵(会話) 2020年2月1日 (土) 18:13 (UTC)
- こんにちは。ご指摘ありがとうございます。現在沙也可は全体に「出典の明記」テンプレートが適用されており、とくにこの箇所に要出典タグをつける必要はないと考えましたので、除去します。ちょっと感情的な話になってしまいたいへんお恥ずかしいのですが、経緯を説明すると、版間比較をしていただければわかるとおり私の編集以前、ここには「伝承にとらわれず、状況証拠の積み重ねて浮かび上がるのが、」という句がありました。あたかもWikipediaの編集子の誰かが「伝承にとらわれず状況証拠を採用する」方針を決定しているような書き方だったため、そういう方針を採用する価値判断を編集子がするべきではないし、そうすることに妥当性があるならば出典を示すべきと思い「要出典」をつけた次第です。タグ挿入箇所の不適切については、まったく私の不勉強です。すみません。
- 原田信種の死亡年異説については、原田信種の項「所領没収とその後」に「『大蔵朝臣原田家歴伝』ではこの慶長3年の第二次蔚山城の戦いにおいて、信種は9月24日に戦死したとする」とあったため、「沙也可≠原田」説の補足となると思い書き加えた次第です。ただ『大蔵朝臣原田家歴伝』を私自身が未見でしたため、出典を表記するのに躊躇してしまい、無責任な編集になってしまいました。この件に関してはどのように処理すべきかもしご意見がありましたらうかがえればさいわいです。--Hibiki-c(会話) 2020年2月3日 (月) 16:48 (UTC)
- ご対応・ご返信ありがとうございました。私は当記事についてまったく予備知識を備えておらず、ゼロから学ぶ気持ちで閲覧しました。その中でHibiki-cさんの編集になる要出典の付け方に疑問を持ったのが今回のご連絡のきっかけなのですが、私自身勘違いをしている箇所が1箇所見つかりました。それは、前回ご指摘した後段に該当する部分(「それと、もうひとつ」以下)で、”「なお、原田は数年後である…戦病死したとする説もある。」との一文を追加されています”と致しましたが、改めて差分を精査したところ、この部分はすでに”(1598年の蔚山城の戦いの最中に戦病死したとする説もある)”、”上記の推論(原田信種・沙也可説)は下記『読売新聞』九州版「こだわり歴史考」での丸山雍成の説である。”とあった部分をHibiki-cさんが取りまとめて原田信種説の末尾に移動させたという経緯なのですね。末尾に付加した部分だけに注目して、あたかもその部分につきHibiki-cさんが出典なしに新規に追記したように勘違いして、前回のようなお願いをしてしまいました。出典提示の責任がHibiki-cさんにあったわけではなく、問い合わせ先がこの部分に関しては筋違いであり、精査が欠けていたことをお詫びします。ただ、ご説明にある、”原田信種の死亡年異説については、原田信種の項「所領没収とその後」に「『大蔵朝臣原田家歴伝』ではこの慶長3年の第二次蔚山城の戦いにおいて、信種は9月24日に戦死したとする」とあった”との記述が、私の調べでは過去の履歴に見つからなかったのですが、いつの編集の時点でのことだったのかご指定いただければ幸いです(すくなくともHibiki-cさん編集の直前の版からさかのぼって2009年8月13日 (木) 13:26までの版にはいずれも見当たりませんでした。それ以前は調べていません)。
- 以上を踏まえた上でですが、Hibiki-cさんは当時の編集で外部リンクの読売新聞九州版をリンク切れとの理由でコメントアウトしているところ、本来こうしたリンクが切れている場合に取るべき処置は(リンク切れの回避と修復をご覧いただいた上で)リンク切れを修復する作業でした。すると、該当のリンクは「アーカイブサービスを検索する」で紹介のあるInternet Archiveにおいて保存されていることが判明しますので、(いくつか版のあるうちでたとえば)こちらなどを代替リンクとして使用して修復すればよかったわけです。あるいは、仮にこのような代替リンクが見つからなかった場合でも即座に削除やコメントアウトすべきではなく、まずはリンク切れのテンプレを貼付して「アーカイブされていないと判断するのに、リンク切れとしてタグが打たれたあと最大24ヶ月待つべき」でした。最大2年経過しても代替文献が得られない場合に初めてリンクの除去を行うという手順になりますので、以後ご承知おきください。ただ、今回の件に限って申し上げると、一連の読売新聞の連載記事がすべてアーカイブで閲覧できますし、その内容を見たところ外部リンクとして紹介するよりも出典として利用すべき内容だと考えましたので、外部リンクから外した上で適宜出典不足を補う形で本文中に脚注として利用し、本文も表現を多少変更してみました。おかしなところがあったら(ノートもご参照の上)適宜ご修正・ご指摘ください。冒頭書きましたようにこの分野は疎いですが、逆にその分客観的な記述はできたかなと考えております。--直蔵(会話) 2020年2月4日 (火) 02:15 (UTC)
- いろいろ精査・修正ありがとうございます。ご編集の方針に賛成です。
- 信種没年出典の件、誤解させてしまったようですが、近田が参考にした「『大蔵朝臣原田家歴伝』によれば慶長3年没」との記述があったのは、記事沙也可ではなく、別記事原田信種の文中です。近田がソースとして妥当かもしれないと感じたのは、丸山雍成「こだわり歴史考」ではなく、『大蔵朝臣原田家歴伝』です。しかし先述のように、『大蔵朝臣原田家歴伝』を私自身が未見でしたため、中途半端な状態にしておりました。--Hibiki-c(会話) 2020年2月4日 (火) 08:17 (UTC)
- また1箇所大いに勘違いしておりました。申し訳ございません。”原田信種の項「所領没収とその後」に”とリンクまで貼って明記しておられたのに、当記事にばかり注意が行っていて原田信種の記事は全く見ていませんでした。面目ないです。なるほど、そちらを見ると仰る記述がありますね。ただ、内容は別にして、また混乱しているのですが…、1) 今回新たに「近田」という人物が出て来ましたが、その方は「廣渡正利編 『大藏姓原田氏編年史料』」の著者のお一人ということでしょうか?2) Hibiki-cさんが本記事を編集されたのは2012年5月のことであって、当時は原田信種の記事はこのような状態(2012年3月16日 (金) 13:26の版)であったはずで、そうすると出典は一切なかった状態だったのではないかと思うのですが…?
- 現時点あるいは最近の原田信種の記事(「『大蔵朝臣原田家歴伝』ではこの慶長3年の第二次蔚山城の戦いにおいて、信種は9月24日に戦死したとする」)を元にして、”「沙也可≠原田」説の補足となると思い書き加えた”のであれば、それには理由(出典)があるのでその編集は正しかったと思います。一般に、ウィキペディア自体を出典とすることは禁止されていることはご存知だと思いますが、その内容が出典を伴っている場合はその情報を元に記述することは許されています。ですので、前段落の古い版を元に記述することは適切ではありませんが、上記記述を元に出典も引きながら加筆することは問題ないです。それで、たしか私の理解では翻訳などをする際にも翻訳元の出典を確認することが求められているので、この場合も自ら出典を確認することが要請されていると思うのですが、書籍についてその作業を要求するとかなり条件が厳しくなると思うので、個人的には元の記述に出典があればそれを信頼してよいのではないかなという意見です。歴史分野には疎いのでこの辺は専門にやられている編集者の方に確認された方がいいと思います。
- ともあれ、現時点でまだ出典不足であったり独自研究部分が残っていることを除いては問題は解決していると思いますので、これまでお付き合いくださって感謝しております。--直蔵(会話) 2020年2月6日 (木) 15:15 (UTC)
- うわーお恥ずかしいです。近田はHibiki-cの本名です。もちろん 『大藏姓原田氏編年史料』」の著者ではありません。「Hibiki-cが参考にし(て記事沙也可を編集し)た」とすべきところ、うっかり利用者名を使い忘れて書いてしまいました……。小学校で先生を「お母さん」と呼んでしまった気分です。どうかご放念ください。
- 編集時点で原田信種の項がどのような状態だったかは私の記憶違いがあるかもしれません、すみません。いずれにせよご教示のように、現状、記事原田信種を出典とする妥当性はそれなりにあるということだと思うので、記事沙也可をそのように編集してみます。問題ありましたら加筆お願いします(その場合はお断りいただくに及びません)。いろいろ至らない点、ご指導いただきありがとうございます。--Hibiki-c(会話) 2020年2月7日 (金) 02:09 (UTC)
- いえいえ、とんでもないです。私はようやく編集回数が1千回に達した若輩者ですので、そもそも人様に指導などするような立場ではないと思います。ただ調べ物が好きなので気が付いた範囲で気が付いたことを場合によってはお知らせしている程度な感じです。今回はどうもありがとうございました。今度ともどうぞよろしくお願いいたします。--直蔵(会話) 2020年2月7日 (金) 16:09 (UTC)
2021年ウィキメディア財団選挙の候補者を紹介します
[編集]こんにちは!
2021年ウィキメディア財団選挙が8月に始まります。今年の理事会選挙は、2021年8月4日から17日まで実施されます。ウィキペディア日本語版の編集者を含むウィキメディア・コミュニティのメンバーは、3年の任期で4人の新しい理事を選出する機会があります。理事会選挙の開始に先立ち選挙運動期間が設けられており、この期間中にコミュニティが候補者と顔を合わせる機会があります。
- ウィキメディア財団における理事会の役割は何ですか?
- 候補者紹介
- 今回の選挙には20名の立候補者がいます。候補者についてはこちらをご覧ください。
理事選挙をサポートするファシリテーター チームは、選挙運動期間中にいくつかの活動を用意しています。
7月31日(土)の19:30(JST)から、日本を含むアジア・太平洋地域のユーザーが候補者と交流できるオンラインイベントが開催されます。日本語による同時通訳も提供される予定ですので、どうぞお気軽にご参加ください。
- こちらのフォームから事前に参加登録をお願いします。
- フォームのプライバシーポリシーをご確認ください。
その他の活動については、メタウィキの理事選挙ページをご覧ください。
ご質問がございましたら、ファシリテーターか選挙ボランティアまでお問い合わせください。
選挙ボランティア一同 2021年7月24日 (土) 15:04 (UTC)
このお知らせは2021年ウィキメディア財団理事会選挙ボランティアにより作成され、botにより配信されました。 •フィードバック •購読解除
まもなく終了 理事会選挙へ投票のお願い
[編集]Hibiki-cさん
こんばんは。お忙しい時間帯に恐れ入ります。
2021年ウィキメディア財団選挙は最終盤に入っております。これまでご協力いただいた皆様、ご投票いただいた皆様に心より御礼申し上げます。
もしHibiki-cさんが投票をお済ませでなければ、ぜひこちらから清き一票をお願いいたします。
ウィキペディア日本語版の運営にも深く関与する理事会の候補者の選出に際し、投票資格をお持ちの数少ないユーザーの一人であるHibiki-cさんのご意見を反映することは非常に重要だと考えています。
投票いただくに際し、まず19名の候補者からHibiki-cさんが支持する方をお選びください。 支持する候補者を選んだら、支持する順に候補者の名前を選び、投票ボタンを押すだけです。 所要時間は5分未満で、完全な匿名性が保証されます。
投票は、日本時間の9月1日(水)の朝9時に締め切られます。
ウィキメディア財団の運営にウィキペディア日本語版コミュニティの意見を反映させるために、Hibiki-cさんのご協力を重ねてお願い申し上げます。
どうぞよろしくお願いいたします。
--選挙ボランティア一同 2021年8月31日 (火) 11:16 (UTC)
このお知らせはウィキメディア財団2021年理事会選挙ボランティアにより作成され、botにより配信されました。 •フィードバック •購読解除
円頓戒の編集
[編集]意味かわからないのに編集するのは止めてください。中国から伝えられた禅宗の各宗派なども鎌倉仏教に含まれるのですが、日本天台宗の流れを汲むわけではない、ということのはずです。--2400:4051:820:9E00:891D:B755:13F9:E17 2021年10月12日 (火) 14:28 (UTC)
- 私の編集は純粋に文法的なもので、「天台宗やその流れを汲む鎌倉仏教の一部を除く各宗派」という句の「除く」という語が「(鎌倉仏教の)一部」のみならず「天台宗」にもかかるように読める(つまり「天台宗も、鎌倉仏教の一部も、円頓戒を採用しない」という意味に誤読される)ことを防ぐためでした。もちろん「最澄が唱えた」とあるので、「天台宗をも除く」という解釈は日本史を多少覚えている人にはありえない読みだとは思います。とはいえ、Wikipediaは日本史を多少覚えている人以外にも開かれているべきだとの思いから修正すべきと考えました。
- さて、私の編集では「鎌倉仏教の一部は(円頓戒を)採用しない」としただけなので、ご提案の「(鎌倉仏教の一部である)禅宗は円頓戒を採用しない」という書き方と本質的に矛盾するものではないと思います。しかしおそらくご懸念は、私のように直すと、1文目の「天台宗やその流れを汲む各宗派」というグループが鎌倉仏教と別個のものであるかのように読めるということではなかったでしょうか。その点は、ご提案のように直した方がより良い点もあったかもしれません。
- ただ、その後調べるなかで、日本の禅宗の戒律もやはり円頓会の流れであり、円頓戒を採用していない代表として挙げるなら浄土真宗の方がより良いことがわかりましたので、そのように再編集させていただきました。
- なお、ご存知のとおり鎌倉仏教はいずれの宗派も日本天台宗の影響のもとに成立したもので、栄西も道元も比叡山に学んだ僧です。とくに栄西は「天台密教葉上流の流祖」でもあり、禅宗が中国からの輸入であっても、日本臨済宗や日本曹洞宗が「日本天台宗の流れを汲むわけではない」というご理解は不正確かと思います。問題になった箇所の文意は、「鎌倉仏教のうちにも天台宗の影響をうけていない宗派がある」という趣旨ではなく、「鎌倉仏教は天台宗の影響のもとに成立したものだが、例外的に円頓戒を採用しない宗派もある」という意味です。私が「意味かわからないのに編集」したとのご認識について、再考いただければさいわいです。--Hibiki-c(会話) 2021年10月14日 (木) 15:13 (UTC)
- 了解しました(2400:4051:820:9E00:891D:B755:13F9:E17 と同一人物です)。--2400:4051:820:9E00:94E2:9859:FC04:B5CB 2021年10月15日 (金) 11:30 (UTC)