利用者‐会話:Morita42/死海文書の試訳

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こんにちは。はじめましてAphaeaと申します。ウィキペディアへようこそ!

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利用者 - 会話ページに何も記入されていないのでご挨拶がてらご案内を差し上げました。すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、既にご存知の点をご案内差し上げる形になったかも知れません。失礼をお詫びいたします。--Aphaea 2004年9月4日 (土) 09:50 (UTC)[返信]

ご案内ありがとうございます。活動し始めたところなので参考になります。--morita 2004年9月6日 (月) 00:18 (UTC)[返信]

「死海文書」の試訳へのコメント[編集]

ご意見にもとづいて修正し投稿しました。ありがとうございました。morita 2004年10月3日 (日) 13:59 (UTC)[返信]


試訳は下にあります。

一箇所、意味が分からない部分がありました。Interpretations(解釈)の2節目の最後「dating somewhere between 30 and 60 CE」、このCEって何ですか?

ADの非キリスト教的な言い換えです。johncapistrano 2004年9月24日 (金) 14:18 (UTC)[返信]
わかりました。「紀元後30年から60年」ということですね。morita 2004年9月24日 (金) 16:16 (UTC)[返信]

適切かどうか自信がない訳語がけっこうあります。不適切または間違いなら教えてください。

自信がない訳語のリスト

  1. Jewish>ユダヤ教の (ユダヤの、ユダヤ人の、とすべき箇所があるかもしれない)
  2. texts related to the beliefs, regulations, and membership requirements>信条や規則や入会条件に関する文書 (信条・規則より、もっとふさわしい言葉がありそう)
  3. the Maccabeans (Hasmoneans)>マカバイ(ハスモン)家
  4. Zadokite priests>ザドク家の祭司→サドカイ派Sadducee
  5. quasi-patriarchal authority>うわべだけの長老権威
  6. "secrecy rule">「守秘ルール」(単に秘密のかも)

1週間ほど待って、訳文に問題がないようでしたら、このまま死海文書に投稿するつもりです。 morita 2004年9月24日 (金) 12:00 (UTC)[返信]

一寸だけ。やっぱり訂正。読まれた資料から得た情報も後で加筆されたらいいと思います。johncapistrano 2004年9月24日 (金) 14:05 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。加筆はもうちょっと勉強してからにしようと思います。morita 2004年9月24日 (金) 16:16 (UTC)[返信]
サドカイ派自体がサドク家を中心とした祭司の家系をさすようで、日本語にする場合は「たち」をつければいいかと思います。並記でよさそうです。(というか日本語版のサドカイ人を何とかすべきかも。)johncapistrano 2004年9月24日 (金) 17:38 (UTC)[返信]
「祭司達」にしました。ご意見ありがとうございました。morita 2004年10月3日 (日) 13:59 (UTC)[返信]

こんにちは。
まず、「ヨルダン川西岸」について。なるほど、確かに「現在の」というのは適切じゃないですね。じゃあ、ちょっと長くなっちゃうけど、「(歴史的にはユダヤにあたり、ちょうど文書発見のころ始まった中東戦争によって「ヨルダン川西岸」(w:West Bank)と呼称されるようになった地域にあたる)イスラエルの死海北西の要塞都市クムラン」とするのはどうでしょう。長すぎるかな。

あと、やってくださった翻訳を読みました。ばっちりだと思います。ひとつだけ、ちょっと引っかかったところ。

...blamed the delay – and eventual failure – on de Vaux's selection of a team unsuited to the quality of work he had planned, as well as relying "on his personal, quasi-patriarchal authority" to ensure the work was promptly done.

こんな感じにするといいんじゃないかな:

「……公刊のための作業が遅れ、最終的に失敗したのは、ドゥ・ヴォーが人選したチームが、彼が行おうとしていたようなレベルの仕事をこなすだけの能力を欠いており、また、作業を速やかに遂行するにあたって、ドゥ・ヴォー個人のほとんど家父長的な権威に寄りかかってしまったからだと批判した。」 --Oichi 2004年10月2日 (土) 18:12 (UTC)[返信]

ヨルダン川西岸地区について、Oichiさんの案を取り入れました。ただし、括弧内が長いし「発見」という言葉が本文より先に出てしまうので、括弧はうしろに置きました。「blamed the delay …」についてもOichiさんの案を取り入れました。そのまま本文を置き換えると、「~は」が続いて読みにくいので、少し変えました。訳のチェックとご意見ありがとうございました。morita 2004年10月3日 (日) 13:59 (UTC)[返信]

「死海文書」の試訳[編集]

原文:en:Dead_Sea_scrolls(2004年9月14日版)、現在の日本語版:死海文書


ヨルダンの首都アンマンの考古学博物館に展示された写本の断片

死海文書しかいもんじょ死海写本 - しかいしゃほん)はヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりであり、1947年から1956年にかけて、(歴史的にはユダヤにあたる)イスラエル死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された。文書は、ヘブライ語のほかにアラム語ギリシャ語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、政治的背景と宗教的背景を知ることができるので貴重である。

年代と内容[編集]

炭素年代測定法と古文書学によると、この文書は紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀にかけて、様々な時期に書かれたものである。少なくとも一つの文書は、炭素年代測定法により紀元前21年から紀元後61年のものだと判明した。この時期のヘブライ語の文書は、エジプトから出土した、十戒の写しを含むナッシュ・パピルスが他にあるのみである。同様に書かれた資料は、マサダの要塞都市など近隣の場所から発見されている。

断片は少なくとも800巻あり、エッセネ派の信条から他の宗派の信条まで及ぶほど、異なる視点で書かれている。断片の約30%はヘブライ語聖書で、エステル記以外の全文にあたる。約25%は、伝統的なユダヤ教の宗教文書であり、エノク書やレビの遺訓など、ヘブライ語の聖書正典には含まれないものである。30%は聖書の注解や、クムランの辺りに住んでいたと思われるいくつかのユダヤ教の宗派の、信条や規則や入会条件に関する文書である。残りの約15%は、まだ判明していない。ほとんどはヘブライ語で書かれているが、アラム語で書かれたものもあり、また、ギリシャ語で書かれたものも少数ある。

数ある発見の中で重要なものは、イザヤ写本(1947年に発見)、ハバクク書注解(1947年)、いわゆる銅の巻物(隠し持った金と武器のリスト、1952年)、ダマスコ文書の初期版である。

解釈[編集]

「死海文書を書いて隠したのは誰なのか」という点に関しては、クムランに住んでいたエッセネ派の共同体だという見方が1990年代までは一般的だった。その他に、マカバイ(ハスモン)家によって神殿から追放されたザドク家の祭司(サドカイ派)が率いる共同体だという見方も、徐々に受け入れられてきている。

スペインイエズス会神父ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土した断片"7Q5"[1][2][3][4][5][6]新約聖書マルコによる福音書(6章、verses 52-53)だと主張した。物議を醸したこの主張は、近年になってドイツの学者 Carsten Peter Thiede によって再び取り上げられている。マルコによる福音書の一節であるという主張が正しければ、この断片は現存する新約聖書の中でも最古の30から60CEのものとなる。

1963年、ミュンスター大学の Karl Heinrich Rengstorf は、死海文書はユダヤ教のエルサレム神殿の図書館で書かれたという説を発表した。1960年代には、この説は多くの学者に拒否された。学者達は文書がクムランで書かれたという考えを維持し、他の場所から移されたとは考えなかったのである。しかし、1990年代にはノーマン・ゴルブなどの学者がこの説を復活させた。ゴルブらは、神殿の図書館だけでなく他の図書館でも書かれた可能性を付け加えた。

1990年代には、ヴァチカンが文書の公表を差し止めているという疑惑が発表された。特に、マイケル・ベイジェントとリチャード・リーは自著『死海文書の謎』(柏書房、1992年)で、ロバート・アイゼンマンの憶測を一般向けに紹介した。憶測は次のような内容である。「いくつかの文書を実際に書いたのは、新約聖書に描かれた姿より原理主義的で厳格な初期キリスト教徒の共同体である。イエスの生涯はパウロによって神話的に歪められている。パウロは、その地域の反ローマメシア主義的カルトの影響力を弱めるためにサウロから改宗した振りをした、ローマのスパイだった可能性がある。」(アイゼンマンの説は、必ずしも納得できるものではない。主の兄弟ヤコブの経歴とパウロを、いくつかの文書に関連付けたいだけである。)ベイジェントとリーは、いくつかの主要な文書が数十年間に渡って意図的に隠されている、と主張する。なぜ隠されているのかというと、「文書はキリスト教に大きな影響を与えるものではない」という一般的な合意とは異なった、新しい説の出現を防ぐためだと言う。

死海文書は聖書の歴史にとって重要なものだと頻繁に書かれるため、文書について様々な陰謀説がささやかれる。例えば、死海文書の作者は地球外生命だ、といったものだ。

発見[編集]

この写本は若い羊飼い Muhammed edh-Dhib によって発見された。洞窟からヤギを出そうとして洞窟に石を投げ込んだところ、その石が、およそ二千年間巻き物を収めていた多くの陶器の一つに当たったのだ。後に行われた考古学的な発掘と、ベドウィンの現地住人の調査により、11の洞窟から資料が発見・回収された。1955年2月13日にイスラエルは7つの主な死海文書のうちの4つを手に入れた。

公表[編集]

多くの文書が驚くべき早さで公表された。第1洞窟で発見された全文書は1950年から1956年までに公刊され、8つの洞窟で発見された文書は一冊にまとめられて1963年に公刊され、第11洞窟で発見された詩編写本は1965年に公刊された。次いで、これら資料の翻訳も早急に行われた。

第4洞窟で発見された文書だけは例外で、全体の40%しか公表されなかった。これらの資料の公刊は、エルサレムドミニコ会の神父ロラン・ドゥ・ヴォーが率いる、国際チームに任されていた。このグループは委託された資料の1巻目を1968年に公刊したが、公刊よりも、資料についての自説の弁護に多くの力を費やした。これら資料の編集・出版に開始当初から関わっていた Geza Vermes は、契約不履行とも言える公刊の遅れについて、目標品質を達成するのに適切な人材をドゥ・ヴォーが選ばなかったことを責め、さらに、作業の早期完了のためにうわべだけの長老権威であるドゥ・ヴォーに頼ったことを非難した。

結果として、第4洞窟で発見された文書は長年にわたって公開されなかった。文書へのアクセスは「守秘ルール」によって制限されていた。そのルールは、オリジナルの国際チーム(または彼らが指名した者)のみにオリジナルの資料の閲覧を許可するものだった。1971年にドゥ・ヴォーが死去した後も、彼の後継者達は、外部の学者に判断させるための資料写真の公開要求さえ拒みつづけた。結局、このルールは破られた。まず、1988年に作られたコンコーダンスが国際チームの外部の学者の手に渡り、そこから再構築された17個の文書が1991年秋に公表された。続けて同じ月に、第4洞窟の資料すべての写真がカリフォルニア州サンマリノにあるハンティントン図書館で発見・公表された。この図書館は「守秘ルール」の範囲外だった。いくらか遅れたものの、これらの写真はロバート・アイゼンマンとジェームズ・ロビンソンによって公刊された(A Facsimile Edition of the Dead Sea Scrolls、2分冊、Washington, D.C.、1991年)。その結果「守秘ルール」は無くなり、第4洞窟の文書はすぐに公刊に向けて準備され、1995年に5分冊で公刊された。