利用者‐会話:Nubolari
ウィキペディアにようこそ!
[編集]こんにちは、Nubolariさん、はじめまして!Suisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!
- ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
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- お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
- 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
- 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。
あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--Suisui 2006年7月30日 (日) 02:12 (UTC)
武田氏のカテゴリについて
[編集]武田氏に仕えた人物までカテゴリに含めるべきではないと思います。何のためにカテゴリをつけたのか分からなくなりますので。どうしても武田氏の家臣というくくりでカテゴライズしたいのなら、別のカテゴリを新設して武田氏のカテゴリにサブカテゴリにするという方法でお願いします。221.113.44.204 2006年8月27日 (日) 14:30 (UTC)
- お返事がないようですが、分かっていただけたと判断し、あなたが武田氏の家臣に付け加えた武田氏のカテゴリは外しておきました。219.121.61.130 2006年9月3日 (日) 03:36 (UTC)
- カテゴリを外すのは結構ですが、外すのであればあなたが単独の氏族として語られるよりも一般的に武田の部将として語られる人物に関しては、サブカテゴリを設けてもらえないでしょうか?その方がただ単に削除するより公共的な利益になると思うのですが、如何でしょうか?精力的に訂正されているようなので、出来ればそうして頂いた方が助かります。Nubolari 2006年9月3日 (日) 14:23 (UTC)
- Nubolariさんが必要としているのが「武田氏家臣」 一般のカテゴリなのか「武田氏家臣の戦国武将」なのか分かりませんので、余計なことをせずに単に削除する措置をとりました。もし必要としているカテゴリが後者ならCategory:戦国武将のノートで大名家毎の分割提案をしてみてはどうでしょうか。他の目的で作られたカテゴリに安易に便乗するべきではありませんし、割り込まれた側の人間が割り込んだ側の人間の居場所を用意する義務はありません。218.45.175.101 2006年9月3日 (日) 17:36 (UTC)
- 「Category:戦国武将のノートで大名家毎の分割提案をしてみてはどうでしょうか。」の御提案に関しては検討させていただきます。ありがとうございます。但し、他のカテゴリに安易に便乗するべきではないという意見は如何なものでしょうか?当然ある程度の制約はあって然るべきですが、余りにも厳格にそれをしてしまうと只単に単独の事柄に関する説明の羅列になってしまい、有機的繋がりのある百科事典の運用という面でマイナスだと思うのですが?また、割り込まれた・割り込んだという感覚もどうかと思います。ここは誰かの個人的な知識の発表の場ではなく、誰かの記事を基に皆で記事を練り上げていく場だと思うのですが、如何でしょうか?また私は先のレスで貴方に対して義務であるとか要求であるとかの趣旨の発言は全く行っていません。あくまでも提案ということで発言してるので、その当りの文意は最低汲んで頂ければありがたいです。Nubolari 2006年9月4日 (月) 02:00 (UTC)
- 従来のCategory:武田氏の有り方に真正面から矛盾するようなカテゴライズだったので訂正したまでです。武田氏に関しては家臣の人物記事の量も膨大ですので趣旨がゆがめられてしまう危険性が大きいです。城の記事の方のカテゴリは外してないのに「厳格に~」云々の批判はあてはまらないと思いますがね。「個人的知識~」以下の文にいたっては今回の問題との関連性が全くないようにも思えます。具体的な記事の採否が問題になっているわけではないですから。なお、「外すのであればあなたが」という文言は義務や要求ととられても仕方ないと思われますよ。221.113.44.71 2006年9月6日 (水) 10:16 (UTC)
- 武田氏に関しては、戦国期の甲斐武田氏に関する関心がやはり多いことから「従来のCategory:武田氏の有り方に真正面から矛盾するようなカテゴライズ」かどうかは判断付きかねますが、「武田氏に関しては家臣の人物記事の量も膨大ですので趣旨がゆがめられてしまう危険性が大」ということであれば了承します(というか既にしてます)。個人的知識~の文は「割り込まれた・割り込んだ」というあなたの言葉に対してです。この言葉はwikiの理念から大きく外れる言葉だと思いましたので。また「如何でしょうか?」「出来ればそうしていただいた方が助かります」という言葉が、義務の強要なり要求を突きつけるというように捉えられて致し方ないと仰るのであれば、もう何も言うことはありません。Nubolari 2006年9月6日 (水) 19:06 (UTC)
- 山県昌景、秋山信友についてですが、はじめに書かれていた記事を消した点に関しては申し訳ありませんでした。ただ、山県の「竜朱印状の奏者」とは、どういう意味ですか? 甲陽軍鑑にもそのような記述がないのですが……お教えください。それと、秋山についてですが、「駒井高白斎の寄子であった可能性」とは、どこの史料から調査したものですか? それと山県と虎昌が甥である可能性、とは、どこから出てきた、もしくは誰が発言したものなのですか? この点も知りたいです。--ドルチェット 2006年9月29日 (金) 09:34 (UTC)
ドルチェット氏へ
[編集]竜朱印状とは武田家の軍政における行政公文書で、有名な一次資料です。これを発行する権限を持つ者は、一部を除いて軍政の中枢にいた人物と見なされています。これは少し調べれば出て来ることです。甲陽軍鑑の記述が全てではないし、また甲陽軍鑑自体良質の資料ということは難しいというのが一般的認識だと思います。
秋山信友についてですが、これは確か高白斎記だったと思いますが、諏訪攻め・伊奈攻めを行ったときに秋山信友が高白斎の指揮下に加わった記述があるためです。
山県昌景についてですが、毛利家の一次史料の閥閲録からです。昌景は元々安芸国の人で昌景の母が飯富兵部の姉という記述があります。
以上全て一次資料の記述からです。Nubolari 2006年9月30日 (土) 02:15 (UTC)
- 追記。此方の質問の方の御回答も宜しくお願いします。Nubolari 2006年9月30日 (土) 02:21 (UTC)
私が知らないこともまだまだ多いと思いますので、その点、並びにあなたが投稿されたい記事の部分については、復活をお願いいたします。申し訳ありませんでした。--ドルチェット 2006年10月6日 (金) 03:55 (UTC)
岡城について
[編集]はじめまして。精力的な編集作業お疲れさまです。さて、「岡城」について、元記事を「岡城 (豊後国)」に移動した上で、内容を曖昧さ回避に編集していらっしゃいますが、元記事(豊後国の岡城についての記事だった頃の「岡城」)に対して貼られたリンクがそのままになっているようです。Wikipedia:ページ名の変更をご参照の上、その趣旨に則って、「岡城」へのリンク(「岡城」のページのツールボックスのリンク元で参照可能です。)を「岡城 (豊後国)」に張り直すよう作業をしていただくようお願いいたします。(途中、「岡城 (豊前国)」→「岡城 (豊後国)」という経過をたどっていますが、元記事を編集された貴殿に責任を持ってリンクの編集をしていただくのが適切と考えお願いする次第です。)--Metatron 2006年10月17日 (火) 13:21 (UTC)
- リンク先訂正したので確認願います。ついでといっては何ですが、岡城(豊後国)というページを誤って作成してしまいましたが、削除するにはどうしたら宜しいか教えていただければありがたいです。当方まだ不慣れなもので。Nubolari 2006年10月17日 (火) 18:22 (UTC)
- 早速のご対応ありがとうございます。岡城(豊後国)は、Wikipedia:即時削除の方針を参照すると、即時削除の対象となると思われますので、Wikipedia:即時削除の手続きを取ればよいのではないかと思います。--Metatron 2006年10月17日 (火) 23:41 (UTC)
「川窪兵庫の軍役について(長篠の戦い)」の返信
[編集]初めましてNubolari様、HIというものです。先日は表題の件についての御指摘ありがとうございました。 ご指摘の結果、次のように記述の変更を行いました。
「更に甲陽軍鑑によると武田信実は備の侍大将にあたる人物と思われ、前述における彼自身の手勢とは別に寄騎として武田家の直臣から付属される騎馬15騎、浪人(動員足軽?)組313名(後に騎馬は200騎となるので、複数の備を率いたと思われる)で編成される備単位で考えても同様の結論が得られる。」
主に川窪兵庫自身の軍役による動員数とそれとは別に寄騎として付属された人員の分離。足軽は常時雇用ではなく一時的な動員によるものという事の表記としています。--HI 2007年1月1日 (月) 09:06 (UTC)
- 訂正ありがとうございます。3百数十貫が川窪兵庫の領地の全てではないので、当然備としては複数を率いたと思われます。ただ、足軽については常設的なもので、徴用された動員兵ではありません。Nubolari 2007年1月1日 (月) 21:43 (UTC)
HIです。2007年1月13日(土)06:52の長篠の戦いにおけるNubolari様の更新に疑問を挟まさせてもらいます。
疑問点は2つ。一つは「徴集された農兵」というのは浪人といった雇雑兵(個人的には足軽の文字を使いたいのですがNubolari様は常時雇用している者のみを指していると考えておられるようなのでこの場では雑兵の文字を用います)が含まれていない事にはならないか?もう一つは「歩兵部隊」と言い切って良いものなのか?備の騎馬隊に記述した如く、時には馬に乗って攻撃した事を考えれば「歩兵部隊」という括りは如何なものであろうかという点です(個人としては「混成部隊」位が適当かと思います)。以上、ご検討をお願いします--HI 2007年1月13日 (土) 07:38 (UTC)
- まず第一の質問に関してですが、御質問の内容がよく分かりません。第二については、数において歩兵:騎兵が10:1であり圧倒的に数に開きがあること、「騎馬隊」即ち騎馬のみの単独兵科として纏まった数での運用がなされたか甚だ疑わしいことから混成部隊というのもどうかと思います。例えば、現在のある歩兵部隊に指揮官用に数台車が部隊にあったとして、果してそれを自動車化歩兵部隊と呼べるでしょうか?「騎馬武者」に率いられた「歩兵部隊」という表現は妥当だと考えます。Nubolari 2007年1月13日 (土) 07:54 (UTC)
- 追記です。長篠合戦という項目の中での騎馬軍団若しくは騎馬隊の有無についての記事であることにも留意してください。備の話は直接的に関係のあるものではなく、議論の焦点がぼやけます。Nubolari 2007年1月13日 (土) 08:04 (UTC)
第一の質問については鉄砲・弓・槍を集団で扱う「足軽(wikiの項にある傭兵・徴集兵を含めた意味で)部隊」に農兵だけでなく浪人兵や常雇用の足軽も記載する必要があるという事です。農兵のみをなぜ記すのか?という事です。
第二の質問に関しては日本の騎馬隊は騎馬武者とその武家奉公人(これは「足軽部隊」の歩兵とは異なるもの)を基本ユニットとしたものを十数ユニット集成したもので構成された存在であり、あくまで中核は騎馬武者で武家奉公人はその補助です(つまり戦車に随伴歩兵がくっついた状態)。「足軽部隊」と「騎馬隊(もしくは騎馬武者隊)」は備の中では別の部隊として配備されているという事です。
日本の騎馬隊は西洋的な騎兵とはいかなる意味においても異なる存在ですが、決して雑兵=歩兵が中核の部隊ではなく騎馬武者が中核の部隊であるという事です。--HI 2007年1月13日 (土) 09:25 (UTC)
訂正。騎馬隊の構成ユニットを十数から数十に修正してください。--HI 2007年1月13日 (土) 12:55 (UTC)
- 浪人が軍全体の何割いますか?根拠に足る資料を示してください。領地に対する軍役の定書の中に、浪人等が介在しなければいけない理由は何ですか?軍政と軍制は違います。騎馬が戦力の中核とする証拠は?10:1の数的割合も無視ですか?甲陽軍鑑中における足軽の数と、石高から割り出す徴用される農兵の数の割合は把握していますか?はっきり言って何を仰りたいのか皆目見当付きませんNubolari 2007年1月13日 (土) 17:45 (UTC)
宜しければ、軍役の人数中において農兵がどれだけかを示した資料はございますか?石高から割り出された人員が総て徴用された農兵で、扶持された足軽や一時的に雇われた傭兵の可能性はないという根拠を教えてもらいないでしょうか?
武田信実は自身の家臣だけで戦闘を行うのではなく、それらとは別の寄騎の騎馬武者(とその従者)や雑兵が付属された備単位で戦闘は行われます。侍大将一人の軍役による構成人員のみで判断してはいけません。備の中で騎馬隊は戦力の中核とは言えないでしょう。しかし、騎馬隊の中では騎馬武者(それが馬に乗ってるか乗ってないかは関係ない)は戦力の中核です。騎馬隊の一般隊士の知行は200~300石。江戸時代の軍役から判断すればこの内、純粋な戦闘要員は騎馬武者本人と徒の若党の二人です(後は口取、槍持、小荷駄といった後方要員)。後、足軽を常雇用の歩兵のみと規定するのは不適当だと思います。変更されてはいかがでしょうか?--HI 2007年1月14日 (日) 10:13 (UTC)
- 1.質問に対して質問で返さないでください。浪人衆云々の話はそちらから出された話ですから、先ず説明責任はそちらにあります。
- 2.軍役とは、浪人であろうが農兵であろうが定められた数の兵種・兵員をそろえればよい訳で、そこで浪人と農兵の違いに何の意味があるのですか?騎馬隊の有無と何の関係があるのですか?
- 3.甲陽軍鑑の記述を信じるなら、徴収兵と足軽と浪人衆がはっきり区別されて記されています。そこはどのようにお考えですか?ちなみに手元に現在資料がないのでうろ覚えですが、甲陽軍鑑中の足軽の合計人数は、騎馬のそれの一割程度で、大勢に影響ない範囲でしたが。
- 4.>>備の中で騎馬隊は戦力の中核とは言えないでしょう・・・主張をころころ変えないでください。
- 5.>>騎馬隊の中では騎馬武者(それが馬に乗ってるか乗ってないかは関係ない)は戦力の中核です・・・そもそも単独兵科としての騎馬隊の有無の話をしているのですから、騎馬隊があるという前提で語るのは全くのナンセンスです。ましてや馬に乗らないのに騎馬武者とは?詭弁ですね。
- 6.>>純粋な戦闘要員は騎馬武者本人と徒の若党の二人です(後は口取、槍持、小荷駄といった後方要員・・・戦国時代の合戦の主要兵科である長鑓は無視ですか?
- 7.>>足軽を常雇用の歩兵のみと規定するのは不適当だと思います・・・騎兵だとでも?
再度書きます。長篠合戦という項目の中での騎馬軍団若しくは騎馬隊の有無についての記事であることにも留意してください。備の話は直接的に関係のあるものではなく、議論の焦点がぼやけます。 Nubolari 2007年1月14日 (日) 11:16 (UTC)
誤解されている様なので、申し上げるなら私は騎馬隊を戦国軍隊の中核であるとは一度も言っていませんし、それが西洋的なものとは異なるととも言っております。もし、Nubolari様が騎馬軍団・騎馬隊というものを徹頭徹尾、西洋的な騎兵と同様なものと規定してお話になられているようならそれは私の考えてる日本の騎馬隊とは全く異なるものと認識してください。突撃時に馬に乗らないのは騎馬隊でないではなく馬を持っている武者達の部隊が日本の騎馬隊なのです。この辺をご理解してもらわなければどうしようもないので、そこん所お願いします。
後、長槍の部隊は足軽部隊の一つとして騎馬隊とは別の部隊として存在しています。騎馬隊隊士である騎馬武者の家臣である若党は長槍を持って集団で戦うものでなく、槍を持って主人を援護する者です。大身の武士になると指揮官級になるのでその手勢は騎馬武者や長槍や鉄砲など多彩な種類を有する部隊になりますが、主人の補佐・護衛の任務は変わりません。その意味で武田信実の軍役よって動員された手勢は彼の護衛・補佐が主任務で攻撃は彼に寄騎で付属された騎馬武者や足軽が行う事になる訳であり、そういう意味で備単位での考察が必要ではと考えるのです。
農兵云々は前段の騎馬隊云々とは違う話題なので。足軽は傭兵も農兵も扶持持ちも総て含まれた存在として認識するべきではと思うのですが?--HI 2007年1月14日 (日) 11:47 (UTC)
- まず、あなたの記事を削除した理由についてもう一度言いますが、長篠合戦における部隊としての騎馬の突撃の有無を検証する場合に、特に必要なく煩雑になると判断したためです。後述しますが、大勢に影響のあることではありませんし、細かな記述は新規に別項で記した方が良いからです。
- 次に騎馬隊についてですが、「西洋的な騎兵と同様なものと規定してお話になられているようならそれは私の考えてる日本の騎馬隊とは全く異なるものと認識してください。」とありますが、私は最初から単独兵科としての騎馬隊の有無の話をしているのですが?「突撃時に馬に乗らないのは騎馬隊でないではなく馬を持っている武者達の部隊が日本の騎馬隊なのです。」という認識はどこの誰がどのような根拠で規定したものですか?それこそ騎馬武者に率いられた歩兵部隊ではないのですか?混成部隊というのは、独立した兵科が複数混在することを言います。あなたの中だけの認識で語られてしまっては、「そこん所お願いします」と言われても無理ですね。そもそも、何故長篠合戦の記事の中で騎馬隊の話が出てきたのか思い出してください。騎馬隊として馬に乗って本当に突撃したのか?の検証のためです。
- あと、「武田信実の軍役よって動員された手勢は彼の護衛・補佐が主任務で攻撃は彼に寄騎で付属された騎馬武者や足軽が行う」の根拠も示してください。また、それによって武田軍の部隊構成が大きく変わるのですか?そうでなければ、今現在の議論では余り意味のある事項ではないですね。
- 甲陽軍鑑中における足軽の割合について書きましたが、それは読んでおられますか?実際の数字には信憑性はありませんが、割合で考えた場合、騎馬:足軽=9,000騎:1,000人程度です。そもそも9,000という数字が信憑性が無いと判断する理由でもありますが。
- それと、「足軽は傭兵も農兵も扶持持ちも総て含まれた存在として認識するべきでは」とありますが、あくまで甲陽軍鑑の記述が足軽を特記していることを受けての今回の発言ですし、また、それで武田軍の騎馬と歩兵の比率が大きく変わるとも思っていません。同じ理由で、あなたからは浪人衆がどの程度の割合いたかという答えを頂いてはいませんが、浪人衆が加わったところで武田軍の騎馬、歩兵の比率が大きく変わるとも思えません。
- 長篠合戦の記事としては記述する必要性を感じません。Nubolari 2007年1月14日 (日) 17:35 (UTC)
了解しました。合意は困難として議論を打ち切らさせていただきます。ただ、騎馬隊が騎乗突撃したかどうかの結論はまだ慎重に行うべきだと自分は考えております。「西洋的な騎兵軍団はいない」位にするべきだと思います。何しろ、騎馬隊も騎馬武者隊も騎馬の名が付くと=「西洋の騎兵部隊」という事になっているので、まずは日本の騎乗武士とその従者らの部隊をどう呼ぶべきか?から始めるべきなのでしょうな。長々議論に付き合って頂き有り難うございました。--HI 2007年1月15日 (月) 03:32 (UTC)
- 何故そこまで騎馬隊の名称に拘るのか理解できませんが、どのような呼び方になるにしろ、実質は「騎馬武者に率いられた歩兵部隊」であることに変わりはありません。徒歩武者とて兵科からすれば歩兵であることに変わりはありませんから。
- 以前あなたは戦車と随伴歩兵を例えに出しましたが、寄子+郎党については全くの的外れであることを指摘させていただきます。戦車は戦車中隊などの指揮下にあり、随伴歩兵は歩兵部隊の指揮下にあります。つまり全く異なった指揮系統を持っているわけで、ならばこそ夫々を単独兵科として見なす事が出来、よって戦車と随伴歩兵は混成部隊と呼べます。しかし寄子の場合は指揮系統は単独・同一であり、寄子と郎党の分離も出来ません。つまり騎馬武者に率いられた歩兵部隊としか云い様が無いものです。また備としていくら寄子が集まったとしても、それは大規模な騎馬武者に率いられた歩兵部隊でしかありません。Nubolari 2007年1月15日 (月) 04:16 (UTC)
高坂の項目について
[編集]えっと、ちょっとニュアンスのとり方が違ったようですね・・・もうしわけない。「高坂が作者という形をとっているため」「高坂自体の経歴に脚色がある可能性があるという人もいる」という意味です。つまり「なお、甲陽軍鑑において、昌信の功績・活躍は他の武将たちと較べて控えめに書かれていることが多い」の文に呼応しているのです。--koon1600 2007年1月26日 (金) 03:16 (UTC)
- 文章は手を入れてしまいましたが、両論併記でも問題なさそうですね。Nubolari 2007年1月26日 (金) 03:59 (UTC)
追記
[編集]私が盗用したストーカーしたという明確な根拠を示してください。出来ないのであれば、きちんと謝罪して下さい。Wikipediaみたいな場所で争っても決着がつかないし、いい加減に告訴しますからね。210.188.205.81 2007年2月7日 (水) 00:13 (UTC)
- 意味の通じない文章に関しては置いておきますが、告訴したいのなら、是非なさってください。自分で言い出したことですから、実行していただけますよね?待っています。Nubolari 2007年2月7日 (水) 03:39 (UTC)
>自分で言い出したことですから、実行していただけますよね?待っています。
これは立派な挑発行為と見なされますが・・・。210.188.205.81 2007年2月7日 (水) 04:20 (UTC)
こんな事を言いながら
[編集]>非常に悪質です。より長期のブロックを望みます。
逃げてるのはどっち?散々、やらかしておいて誰かに助けを求めるのは情けないとは思いませんか?こっちがブロックされたら何事もなかったかのように逃げる計画でしょ。210.188.205.81 2007年2月7日 (水) 04:29 (UTC)
- 別に逃げも隠れもしてませんので、訴訟起こされればいんじゃないんですか?あなたがそうすると言い出したことですので、ここに書き込む前に手続きされたら如何ですか?Nubolari 2007年2月7日 (水) 12:42 (UTC)
- このまま延々と項目の内容や百科事典としての充実に無関係のことを続けれらても困ります。スルーしていただくわけにはまいりませんでしょうか。--Calvero 2007年2月7日 (水) 13:41 (UTC)
- ウィキにとって関係のない事柄ということは重々承知しています。他でやれと言われてもしようが無いことで、あなたの丁寧な対応には感謝しております。ただ、一言言わせて頂くなら、ここまで酷い事を書かれ続け、延々と繰り返す様になってしまった原因の大きな一つに、管理者の対応が鈍いことがあると思います。あなた方に、私の名誉を回復する意思と手段があるのなら、喜んで手を引かせていただきます。出来れば私だってこのような人物に関わりあいになどなりたくありません。Nubolari 2007年2月8日 (木) 04:05 (UTC)
- あなた方管理者には失望いたしました。真面目に法的措置を検討させていただきます。Nubolari 2007年2月9日 (金) 23:55 (UTC)
- 「管理者」という呼び名がついていても、機能が多少いろいろ使えるようになっているというだけで、中身は一般編集者と何ら変わるところはありません。申し訳ないのですが、あまり多くを期待しないでください。紛争の解決要員ではないのです。--Calvero 2007年2月10日 (土) 22:16 (UTC)
- Wikipedia:礼儀を忘れないなどにも、一度目をお通しください。いざこざが起こりそうな場合の役に立つはずです。--Calvero 2007年2月10日 (土) 22:26 (UTC)
- 誤解されていないとは思いますが、法的対応の対象者はwikiでもましてやCalveroさんでもありませんので。ちょっと書き方が下手だったかなと思いましたので、一応念のために。弁護士によれば、被害を受けて6ヶ月以内であれば十分対応可能とのことでしたので、自分の身は自分で守ることにします。Nubolari 2007年2月13日 (火) 14:28 (UTC)
自分の行動は見えていないのか?
[編集]- Calvero氏がリンクしてるWikipedia:礼儀を忘れないをきちんと読まれましたか?Nubolari氏もかなりの原因を作っているように見えますが。まあ、この場合は告訴しても勝てるとは思えませんし、逆告訴されたら簡単にひっくり返える可能性は大ですがw--203.191.235.4 2007年2月13日 (火) 19:32 (UTC)
江本発言を学びなさい
[編集]- Calvero君、駄目じゃないか自分ら管理側に都合の悪いことを消したら!江本氏を知らん世代かいな?
- 管理の名を借りた職権濫用をしたらあかんで。ほなな--わしやで 2007年2月10日 (土) 23:18 (UTC)