コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者‐会話:SpeedYou

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

日本語版ウィキペディアでは英語での投稿はご遠慮ください。英語での投稿は、英語版ウィキペディアでお願いいたします。

Please do not contribute text in English to Japanise Wikipedia. Your contributions are more than welcome at the English Wikipedia. --North land (会話履歴) 2019年4月25日 (木) 11:17 (UTC)[返信]

奥澤七事斎での編集について

[編集]

奥澤七事斎に生年を「1809年(文化)6年)」と追記されましたが、これはどういった文献を出典にされたものでしょうか。唯一の出典である『山田郡史』の記述が「56歳没」であるようですが、生存した時代や出版時期を考慮すると数え年の可能性が高く、数え年56歳だと生年は1810年もしくは1811年が正しくなります。明確に「文化6年」または「1809年」と書かれた出典があるのであれば、それを記事中にお示し願います。--Unamu会話2022年2月23日 (水) 07:52 (UTC)[返信]

群馬県穴原の墓碑に合ったものと記憶していて、満年齢記載のもののように想像しますが写真が手元にないので、削除します。あらためて調べて記述します。--SpeedYou会話2022年2月23日 (水) 08:15 (UTC)[返信]

気楽流系譜について

[編集]

気楽流系譜についてなのですが、師弟関係が正しいかもう一度ご確認いただけますでしょうか。山田、山口、都丸の位置は本当に正しいですか。 SpeedYou様はかなり気楽流にお詳しいようですので、正しい系譜をご存知であると思います。

気楽流のページにおける系譜の書き方は下記のようになっており、それに従って書かれていないと系譜が錯綜してしまいます。

    • 弟子1
      • 弟子1の弟子
    • 弟子2
      • 弟子2の弟子

よろしくお願いいたします。--夢之枕会話2022年2月23日 (水) 08:12 (UTC)[返信]

統一して、追って修正して記載するようにします 失礼しました--SpeedYou会話2022年2月23日 (水) 08:16 (UTC)[返信]

SpeedYou様、ご理解いただきありがとうございます。 SpeedYou様が編集された気楽流関係のページ、とても興味深い内容で面白かったです。気楽流編集応援しております。--夢之枕会話2022年2月23日 (水) 08:23 (UTC)[返信]

加筆修正感謝いたします。同じく井上敬太郎と奥澤敬太郎が修心館の同一人物で、湯島天神下で天神真楊流と気楽流の双方を教授していたやに昔から思っているのですが、奥澤敬太郎氏は養子前は黒須姓で、その後、井上といつかえたのかは長年調査中です。--SpeedYou会話2022年3月1日 (火) 10:20 (UTC)[返信]
SpeedYou様の編集や出典を拝見しましたが、私も奥澤敬太郎=黒須敬太郎=井上敬太郎で同一人物だと思います。ただ井上が本当に奥澤姓を名乗っていたのかは私は疑問に思っております。前に天神真楊流について調べていた時に見つけた資料ですが、『代表的人物及事業』の武術界の頁に井上敬太郎の後を継いだ井上縫太郎(昔の秘伝の宮本半蔵伝天神真楊流の記事では縫太郎は敬太郎の養子と書かれていた気がします。奥澤勘一と顔がよく似てますが名前生年月日住所が違うのと大日本人物史に勘一とは別に縫太郎が出ているので別人?)の経歴が載っています。その中に井上敬太郎の経歴もあり、『大日本人物史 : 銀婚記念. 1925年』と比較してもほぼ同じです。(修心館を湯島に移したのは明治初年と書かれていますが、おそらく明治の初め頃という意味合いで実際は代表的人物及事業に書かれている明治7年だったと思います。)講道館図書館に展示してあったと思われる官許柔術会と書かれた磯道場の門人が書かれたものに黒須敬太郎の名前があり日付が明治6年でした。また嘉納治五郎の本や他の天神真楊流の書物では井上姓でした。井上姓にいつ変えたかは分かりませんが、天神真楊流側の記録では敬太郎が奥澤姓を名乗ってるのは未だ見たことがありません。奥澤家の婿養子だったのか、単に奥澤の高弟の一人で道場を継ぎ奥澤七事斎の孫の奥澤勘一が養子となったのか気になります。また井上の門人たちの記録で横山作次郎、嘉納、井上縫太郎、戸張瀧三郎、三浦、柳田国男、長谷五郎、宮本半蔵等の話を見る限りでは修心館での稽古内容は完全に天神真楊流柔術で生計も天神真楊流由来の骨接ぎだったようです。--夢之枕会話2022年3月1日 (火) 14:01 (UTC)[返信]
ご返信がありがとうございます。このような話を21世紀にできるとは思っておらず、驚きつつ感謝しています。
奥澤ー黒須については、昭和時代に同門で山田郡大間々町の墓碑を墓参にいったときに拝見した記憶があります他、公的書類でも黒須 奥澤と本籍地が同じでしたので間違いないと思います。もう少し調べてみます。ちなみに奥澤七時斎と(養子)敬太郎の生地は隣村で、何人か気楽流の伝承者もいました。  
飯塚臥龍斎以降の傳系は、盛隆した後故、諸説多岐で、利害名誉もあり、真実から離れている部分もあるのが問題を複雑にしています。臥龍斎が騒動の罪で、所払い(事件地と本籍地)になったのは間違いのない事実で、その結果、一族は、当時の通例で、連帯責任を逃れるために、離縁するわけで、当然に上州無宿となり、やむを得ず、武州棒沢郡飛田村の弟子を頼り転居が事実でしょう、縄抜けで赦免の件は、当時の御社軽減は岩鼻代官ができるものではなく、できるとすれば、(征夷大)将軍名なので、これは明白な誤りというのが、これも大昔ですが、平成時代に東大院で日本法制史の石井紫郎先生に伺ったとき意見でした。
日本を離れて海外暮らしが長く、ほとんどの資料が手元にありませんが、時機を見て家にもどれたときに伝書や書籍含めて改めて調べてみようと思います。--SpeedYou会話2022年3月2日 (水) 07:12 (UTC)[返信]
ご返信ありがとうございます。
黒須敬太郎は本当に七事斎の養子だったんですね。そうなる、やはり井上姓をいつ頃から何故名乗っていたかが気になります。天神真楊流や講道館柔道嘉納治五郎が奥澤敬太郎を通じて気楽流と関係あった事には凄く驚きました。
飯塚以降の師弟関係は錯綜していて難しそうですね。一人一人の経歴が明らかになれば整理されるかもしれませんので、今後の気楽流柔術史の研究に期待しております。
今回のSpeedYou様の気楽流関係の投稿で、少し気楽流に興味を持ちました。
今後の投稿も楽しみにしております。--夢之枕会話2022年3月3日 (木) 04:34 (UTC)[返信]
紙面が手元になく、秘伝の塩澤さんに連絡をして当該写真を見てみましたら、奥澤=井上敬太郎ですね。記事を書いたのが同流の柴田先生だと思いますので、帰国時に伺って聞いてみようと思います。ところで、最近、講道館の「八谷護」名で、気楽流名で出している免許が入手できたので、関連で記事を秘伝に書いてみようと思ってます。その前が八谷可柳居士とありますから、柔術家、父親で海運橋の八谷道場(天神真楊流)だと思いました。--SpeedYou会話2022年3月9日 (水) 09:06 (UTC)[返信]
奥澤=井上敬太郎で確定されたのですね。それは良かったです。
天神真楊流の八谷道場はよく講道館側の姿三四郎で脚色されて八谷孫六とかいう名前で出ているところですね。
明治初期の天神真楊流記録では開運橋の道場は八谷護となっています。
同時期の東京?に戸田流師範 八谷達三がいますが、この人が天神真楊流がやってたかは分かりません。
私としては八谷達三が純粋な気楽流師範で親族と思われる八谷護が天神真楊流も学んで二つ教えていたのではないかと思っています。八谷達三は『明治期に於ける武道の正課編入過程に関する研究』の二ページ目に戸田流との記載があります。
出典が官報ですので国会デジタルで閲覧できると思います。--夢之枕会話2022年3月9日 (水) 11:05 (UTC)[返信]
ネット検索しましたが、八谷護は講道館柔道3段で実父の八谷氏は天神真楊流だったんですね。そうなると同時期の東京にいた戸田流(気楽流)の八谷達三が何者なのか気になります。
警視流に取り入れらた戸田流(気楽流)が久冨鉄太郎の書籍の流派紹介から七事斎の系統だったようですが、八谷氏の系統だったんでしょうか。
真相が気になるものです。--夢之枕会話2022年3月9日 (水) 11:18 (UTC)[返信]
八谷護の父は、八谷達三(可柳斎)であり、天神真楊流であるのは間違いありません。八谷護自身も接骨では天神真楊流を名乗ってます。 なお、奥澤七事斎は、お玉が池、磯道場の出稽古記録でも、戸田流と書いていますし、その傳系は戸田流、気楽流を使い分けてます。引用された論文のとおり、八谷達三が戸田流をなのっても筋はとおります。これで井上敬太郎=奥澤敬太郎がつながると、パズルがとけるのですが、奥澤七時斎の献額の門人名の写真や、浅草の浅草寺の献額の版画のコピー資料が手元にないので、さきにすすみません。--SpeedYou会話2022年3月9日 (水) 11:50 (UTC)[返信]
失礼しました 奥沢=井上敬太郎ではなく 奥澤勘一=井上縫太郎 でした。井上敬太郎の養子とあるから、おそらく井上敬太郎=奥澤敬太郎なんでしょうが、まだ確信がつかめてません、--SpeedYou会話2022年3月9日 (水) 11:39 (UTC)[返信]
ご返信ありがとうございます。
八谷達三は八谷護の父で天神真楊流だったんですね。
天神真揚流と江戸の気楽流の関係は面白いです。
奥澤勘一と井上縫太郎は別人と思われます。
古武道振興会の会員一覧には天神真楊流として井上縫太郎と別に載ってました。
古武道振興会55周年記念誌の附録だったと思います。--夢之枕会話2022年3月9日 (水) 12:13 (UTC)[返信]
東京都
天神真楊流
  • 津田繁三郎
  • 宮本半蔵
  • 八木寅次郎
  • 酒本房太郎
  • 猪野春雄
  • 井上縫太郎
  • 奥澤勘一
と書かれていました。会員として登録されているので別人だと考えられます。
ただ顔が似ていることや年齢が近いです。
兄弟で奥澤姓と井上姓をそれぞれ継がせたのでしょうか。--夢之枕会話2022年3月9日 (水) 12:26 (UTC)[返信]
整理してみましたら、銀婚記念の文中(奥澤勘一の親として)には、七事斎の記述があり、子 縫太郎の記載がありました。別人であることと、ほかの有栖川宮の日記でも、井上敬四郎との記載があり、奥澤七事斎は、姉小路以後、同宮家に尊王攘夷運動で仕えていたことからすると、奥澤=井上でほぼ間違い無いと思います。あとは戸籍なり公的資料による必要があるでしょう。おそらく、どこかのタイミングで、井上姓を名乗ることがあり、使い分けていたようにも思います。井上敬四郎はもっぱら天神真楊流や柔道整復法制化運動で名乗っています。--SpeedYou会話2022年3月15日 (火) 10:11 (UTC)[返信]
スレッドは増えて論点が複数に分かれてしまい恐縮です。井上縫太郎、奥澤勘一は別人物であることは、先の文献他複数でも、その通りであると思います。井上、奥澤の姓の使い分けですが、明治9年、元老院の辞職時の書類では、旧姓黒須 平民 奥澤敬太郎とあり、他方でその前の有栖川宮の日記、福岡県令時に、半年同行した井上敬太郎他に金員を渡すとありますので、姉小路公が暗殺され、七事斎が捕縛されたのちは、井上を名乗り、新政府になってからは、奥澤かとも想像できます。有栖川宮に仕えていた時に、井上だったのは、その前から、すなわち父の捕縛後に井上を名乗り、そのままだったのかと推測しています。年齢的に嫁の姓を便宜的に名乗ったかと思います、墓碑他を調べてみようと思います。--SpeedYou会話2022年3月21日 (月) 04:06 (UTC)[返信]
読売と朝日の新聞記事に八谷護が講道館落成式で演武した記事、八谷達三が体操伝習所に招かれて調査された記事があったので追記しました。
あと井上敬太郎について分かったことがあります。
  • かつて、宮本という女流柔術家を大刀で切り付けたことがある(1912年2月17日の朝日新聞)
  • 井上敬太郎は縫太郎の養父。横山七段も先生と仰いだことのある豪の者(1912年2月17日の朝日新聞)
  • 1883年4月19日より天神真楊流始祖磯又右衛門の門人湯島同朋町の井上敬太郎氏が学習院の依頼を受け、柔術稽古場へ出頭し華族方へ柔術教授を行った。(1883年4月20日読売)
  • 本郷区湯島天神下同朋町七番地、井上敬太郎の広告。(1896年10月2日読売)
  • 神田末広の柔術家宮本はな、殺害される。
犯人は原守一という人。色々揉めての犯行。この宮本はなの道場の監督者が井上敬太郎で、娘の「とり」を宮本はなの元へ養子に出している。(1903年12月1日読売)
  • 宮本はな
16歳で磯又右衛門に入門。相弟子間で怪しい関係があった。18歳で貸付業の人と結婚。後、夫が死去。宮本常右衛門の養女となるが実際は夫婦のような関係。明治7年神田金沢町へ道場を開き、18年に神田末広町へ移転。弟子中誰彼と良からなぬ評判が打ち続く。(1903年12月1日読売)
神田区末広の宮本はなは宮本富之助(女流柔術家)のことかは分かりません。
柴田先生の記事に詳しく書いてあった気がします手もとにないので確認できませんでした。
富之助の絵は講道館図書館にありました。--夢之枕会話2022年4月16日 (土) 09:05 (UTC)[返信]
新聞記事検索までは手が回っていませんでした。情報感謝します。井上敬太郎の刃傷沙汰の記事は、奥澤(1909年没)=井上と没年の関係でならなくなるかもしれないものなので再度調べてみます。                           思わぬところで、奥澤ー井上の関係があきらかになるかもしれません。8月に夏季休暇で帰国する予定なので、その際に奥澤家に行ってこようと思って、墓碑に出てないか見分して来たいと思います。
現在気になっているのは、なぜ嘉納治五郎が八田八之助や井上敬太郎の気楽流の話をまったく書面には残していないのか?いうこと、これは、口碑できいたところ、(最初に入門した柳生心眼流と同じく)武器術併傳だったことや、百姓の武芸といわれることが講道館ストーリーとして良しとしなかったらしいことのほか、撃剣興行や骨接は嫌っていたらしいこと等もあるらしいので、ここを調べたいと思っています。
 また、八田八之助を紹介したという八木貞之介について、天神真楊流の門人との由の記載はありますが、その余が不明、なので、そこも調べたい、天神真楊流は江戸末期の新興流儀で、多くの門人は他の柔術の経験があったはずなので、そこも興味をひかれています。多々、感謝します。私の持っている資料もお渡ししたく、機会あれば、一度、ご連絡いただければと思います。niibes@Nifty.com --SpeedYou会話2022年4月16日 (土) 17:14 (UTC)[返信]
宮本という女流柔術家を大刀で切り付けたことがある話は、宮本はなと井上が亡くなった後の昔話だと思います。女流武術家の話の記事でした。
井上敬太郎の門下生は色々な人がいますが、気楽流について書いてるのは奥沢勘一くらいだと思います。先日井上通泰の記事を見ましたが天神真楊流を20年井上敬太郎から習ったと書いていました。弟の柳田国男も天神真楊流と書いています。縫太郎、戸張、三浦医師、長谷、宮本、横山も天神真楊流と書いています。
福田八之助も気楽流は殆ど教えていなかったと思います。福田の天神真楊流の稽古は乱捕がメインだったようですし、形も天神真楊流に加えて気楽流は流石に稽古する時間がない気がします。福田の仕事が忙しい時に棒振りやったそうですが気楽流かは分かりません。乱捕が流行っていて嘉納も乱捕好きなので、武器使うものは興味がなかったのかもしれません。
天神真楊流というのは、講道館が出てくる前の講道館的なポジションだと思います。現在でも講道館と古流やってる人が自分の道場では講道館しか教えていなかったという話をいくつも聞いたことがあります。それに近い話だと思います。
興行と接骨は嫌っていたようですね。天神真楊流の人が協力してほしいと頼みにいったそうですが断ってます。
八木貞之助は嘉納治五郎の回想にでてくる老人で、嘉納が最初に会った天神真楊流師範で初代の直門とのことでした。福田の先輩だと思います。接骨やっていて部屋が狭くて教える場所がないという理由で道場開いている同門の福田八之助を紹介しました。渡邊先生の天神真楊流試合記録によく名前が出ています。
天神真楊流の地方の門人は他流の人が多かったと思います。殆ど鞍替えしているのでよく分かりませんが。真之神道流時代からいる西村外記之輔も他流試合で負けて入門したらしいので当時何人もいたと思います。講道館に似てますね。
天神真楊流について私はよく知りませんが、相宮和三郎氏が大調査したものを柴田先生がお持ちらしいです。井上奥沢の話以外にも色々興味深いことが分かるはずなので、いつか公開してほしいものです。
近いうちにメールで井上敬太郎関係の新聞記事をお送りいたします。
朝日は文字が潰れて全く読めませんが読売は比較的読めると思います。--夢之枕会話2022年4月17日 (日) 16:08 (UTC)[返信]
久しぶりに講道館の寒稽古にいって、資料館にも行ってきました。黒須、福田の名前は錦絵にあり、官許柔術にも八谷の名がありました。天神真楊流の嘉納伝書には、天神流、真之神道流と並列してあり、気楽流で言い伝えられている通り、文政期に真之神道流との騒動があったのも、気楽流の名前が出てこない理由の一つと思いました。奥澤家の墓所にも再度いってきましたので、のちほど--SpeedYou会話2024年1月18日 (木) 09:55 (UTC)[返信]
SpeedYou様、お久しぶりです。
例の黒須敬太郎と福田八之助が書かれている官許柔術会の史料を見ることができたのですね。
講道館資料館というと、昭和初期に撮影された気楽流等の柔術演武の写真や嘉納治五郎が集めた諸流伝書なども所蔵されていると聞いたことがあります。閲覧できるかは不明ですが…
講道館には色々眠ってそうな気がします。
江戸時代に真之神道流と気楽流の騒動があったとは知りませんでした。地元流派と後から入ってきた流派の揉め事とは、念流と北辰一刀流の掲額事件と似たものを感じます。
確かに流派間の禍根が明治時代まで残っていたというのはありそうな話ですね。--夢之枕会話2024年1月19日 (金) 13:37 (UTC)[返信]
お久しぶりです。
メルカリに気楽流の巻物が五巻出ています。
貴重なものか分かりませんが遺品のようです。--夢之枕会話2024年8月7日 (水) 13:32 (UTC)[返信]
ごぶさたしてます。貴重な情報ありがとうございました。さっそく購入して現物拝見してみます。 内容見ると秩父の本橋修道館のもののようですね 引き続きよろしくお願いします--SpeedYou会話2024年8月8日 (木) 03:10 (UTC)[返信]
ところでその後の進展、気楽流と真の神道流との新町騒動の沙汰、判決記録は名主の小林家が写しを残していて、そちらの口語訳は終わったところです。新道流、田村平兵衛一門との騒動で、これが原因で臥龍斎は追放刑、郷里離れて武州にいくわけです。
 その別の奥澤七事斎も幕末混乱期にどうも商家に押込強盗をおこない、入牢獄死というのが真実のようです。判決記録があるようなので調べてるところです。これにより、江戸の気楽流、戸田流は浅草を離れ、養子の奥澤敬四郎は、井上に改姓、湯島天神下へ、天神真楊流というのが現時点での推測です。--SpeedYou会話2024年8月8日 (木) 03:16 (UTC)[返信]
無事購入できたようで良かったです。
縁もゆかりもないコレクターではなく、SpeedYou様のような熱心な気楽流研究者が手に入れたこと、出品者の父親も喜んでいると思います。
出品者の父親は斎藤嶋蔵という人の弟子のようですが、国会デジタルで検索してみると斎藤嶋蔵は加藤軍司の弟子だったようです。詳細が分かるといいですね。
柳生気楽流
高野佐三郎から貰った昭和天覧試合の記念扇子とかも出品されていますが、同じ秩父の高野佐三郎と交流があったというのは面白いです。--夢之枕会話2024年8月9日 (金) 03:01 (UTC)[返信]
気楽流と真之神道流の判決記録を口語訳されたとは、本当にすごい調査だと思います。
奥澤七事斎が幕末に押込強盗で入牢獄死とは大変驚きました。これは判決記録がとても気になりますね。井上敬太郎は苗字がよく変わるかなり謎の人ですが、色々複雑な事情があったとは…
今後のSpeedYou様の研究とても楽しみにしています。
気楽流は関東で広く学ばれただけあって、歴史(特に他流との関係)がとても面白そうです。--夢之枕会話2024年8月9日 (金) 03:16 (UTC)[返信]
 黒須敬太郎→奥澤敬太郎→井上敬太郎の件、いまだ推測ですが義父の奥澤三造(七事斎)が押込強盗で入牢、慶応元年6月獄死、そのあとは、旧姓の黒須を名乗ったり(官許柔術図)、後には井上姓(太政官日誌ほか)も主に名乗っていたようですが、戸籍上は、平民 旧姓黒須、奥澤敬太郎(明治9年)を名乗るなどし、のちに正式に井上姓を姓としたようです。子は、奥澤姓は勘一、井上姓では、悴田縫太郎(霞新流)を群馬里見から養子に迎えています。ここらへんは、江戸末期の尊王攘夷の混乱期には、気楽流門人でも、七字斎の弟弟子の高橋亘も出流山事件で刑死しており、犯罪加担しているわけですから、偽名通名で暮らす人も多かったようです。それで浅草の道場をたたんで、湯島に移った、その敬太郎自身も素行不良というのも流れを感じます。--SpeedYou会話2024年11月1日 (金) 04:48 (UTC)[返信]
親族が犯罪していると世間体が悪いので改名したというのは確かにありそうな話だと思いました。
奥澤敬太郎の人柄についてあまり記録が出てきませんが、刀で同門を切り付けたり何となく素行が悪そうな感じがしますね。--夢之枕会話2024年11月2日 (土) 06:21 (UTC)[返信]
一つお聞きしたいのですが、渋川町で道場を開いていた霞新流の田子亀之丞と天神真楊流の田子信重は同一人でしょうか?
書かれている経歴があまりにも違うので親戚か何かで別人なのかなと思い、前に関口孝五郎の名前を削除したことがあったのですが。--夢之枕会話2024年11月27日 (水) 09:05 (UTC)[返信]
田子信重は天神真楊流(青梨村 神保源十郎)の前に、荒木霞新流を菅谷村の外山八衛(川越藩士)から学んでいたようです。そうなりますと、渋川(子持村)の関口孝五郎が荒木霞新流を演武するのも納得がいきます。孝五郎翁と私の祖父は武徳会時代から仲が良く、武徳殿が空襲で焼けたあと群馬県武道館に剣聖持田翁と関口翁の石碑を両方立てるときに調整に苦労したと語ってました。(そんなわけで、我が家の裏に二つ石碑がありました) 私は直接は関口翁とは直接には面識がありませんでしたが、そのお子さん(近所で開業医してました)、お孫さん(前橋高校の先輩です)からは、元は気楽流、霞新流をやっていて、講道館に入って群馬に戻ってきて柔道を広めた旨はお聞きしています。ただし、外山の荒木霞新流と 峯岸の霞新流は同じ系統ではないようで、名前だけが同じなのかとも思います。いずれの流派も足関節技が多かったのですが、詳細は調べてみないと不明です。群馬に戻って、家の資料を見返して返したのですが、亀の丞=信重と断言ができないので、再度確認します。編集保留としてください--SpeedYou会話2024年11月27日 (水) 09:40 (UTC)[返信]
とここまで今書いて思い出しましたが、田子亀の丞は先代も田子亀の丞と名乗っていたと思います。そうなると息子が信重で年代的にも会うかと思います。--SpeedYou会話2024年11月27日 (水) 09:57 (UTC)[返信]
ご返信ありがとうございます。
関口孝五郎家とそのような関係があったとはすごいですね。
田子信重が外山八衛から霞新流を学んでいたとは知りませんでした。
同じ明治時代に活動していた田子亀之丞は渋川村、田子紋蔵(田子信重)は東京で道場を開いていますが年齢が20歳以上違い、互いの経歴にも記述が全く無いので別人の可能性が高いとは思いました。
確かに息子の可能性はありそうですね。
数年前に荒木流系霞新流のと制剛流系霞新流の伝書を見たことがあります。当時はあまり興味がなかったので詳細は忘れてしまいましたが内容が殆ど同じだなと思った記憶があります。場所が近いのでどちらかの系譜が途中で混じってしまった可能性もあるかもしれません。--夢之枕会話2024年11月27日 (水) 10:56 (UTC)[返信]
2人の経歴です。
・田子信重(田子紋蔵)
1853年上野国に生まれる
1879年天神真楊流免許。
1883年上京して精武館を開設。
1886年主張所開設。
   警視庁武術世話掛任命
1890年天神真楊流柔術免許皆伝。
1891年京橋南紺屋町に移る。
1908年インド皇太子が精武館を訪れる。
・田子亀之丞
1830年?上野国で生まれる(逆算)
1862年 弟子を取り始める。
1887年 大泉坊に道場を開く
1894年 並木町に道場を移す
1918年 88歳で死去
息子の田子徳久が道場を継いだ。--夢之枕会話2024年11月27日 (水) 10:58 (UTC)[返信]



注意

[編集]

人物記事を乱立させる前に新規作成の手順と必要な内容(Help:新規ページの作成Wikipedia:記事を執筆するなど)をお読み下さい。--220.100.75.124 2022年2月25日 (金) 03:06 (UTC)[返信]