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利用者‐会話:Tetsusaburou/過去ログ1

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  • 過去ログ1:

ウィキペディアにようこそ!

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こんにちは、Tetsusaburouさん、はじめまして!Suisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!

  • ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
  • よろしければ自己紹介してみてください。
  • お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
  • 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
  • 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--Suisui 2006年6月3日 (土) 20:15 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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Tetsusaburouさんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、プレビュー機能のお知らせをしにきました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでよろしければお読み頂けると幸いです。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--Tietew 2006年8月11日 (金) 03:55 (UTC)[返信]

Res.大胡江御引越御人数帳

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ご丁寧なお返事有り難うございます。大胡江御引越御人数帳は、折角たてて頂いたページですので私も期待しております。まずは今後の処置については主筆者様に一任いたします。

私もIPユーザーで勢いに任せ投稿・編集したページもあったので、あまり言えないのですが今回アカウント登録致し、ウィキ初心者としてとりあえずウィキの基本方針を学びながらも、利用者の見やすく使いやすい、しかも内容があり検索して面白い百科事典つくりにを心がけることにしました。おっしゃるとおり、興味ある内容にできれば申し分無いと思うのですが、私もウィキ基本方針にあるように、利用者すべてが検証可能な(投稿記事の出典明示または明示可能性の担保)形で、しかも内容豊富であること(著作権侵害せずに)はかなり工夫を要するものであるなと改めて感じております。

ただ、越後長岡藩などウィキの管理者クラスの方より内容の豊富さは江戸期大名藩のページでは随一と受け取って頂いているようです。しかしまた、その内容に主筆者たちの整理が必要との指摘もあるようです。内容の無い空疎なページがウィキの管理上しばしば問題視される中ではその点では鉄三郎様等のご努力のかいがあったと思います。あとは、利用者にとって使いやすい、信頼性あることに留意すれば自ずとよりよい形になると私は心得ております。

なお、牧野古白牛久保城は私も新規立上げを考えてましたが、他の方にして頂いたので良かったと思ってます。今後手伝える分はやってみます。その前に三河牧野氏牧野成定牧野保成(出羽守)を私の主筆者責任として改善(独自調査の排除・出典明示・伝承と事実の区分)をしたく思ってます。今後とも宜しくお願いします。故城一片之月 2007年2月10日 (土) 10:15 (UTC)[返信]


牛久保城の件

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牛久保新城と一色城の件、本文の解説まことに御苦労様でした。故城一片之月 2007年2月11日 (日) 19:54 (UTC)[返信]


越後長岡藩疋田氏と今泉氏について

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鉄三郎様へ、越後長岡と牧野一族を学ぶ会様へのお返事が関連事項なのでこちらのノートにも載せました。

残念ながら長岡藩疋田氏の出自について私は確定的なものは持ち合わせておりません。 御指摘の通り、疋田氏は東三河の諸士であったとは考えにくく、牧野氏が徳川家康に帰服後のいずれかの時点で牧野氏に付属したものと想像されます(天正期でしょうか?)。長岡藩士の出自を書いた史料『諸士由緒記』で疋田水右衛門は天正7年の遠州持舟城攻めの際高名したが、その時戦死、その嫡子も大坂夏の陣で高名したことが挙げられますが、父子の実名もそれ以前の出来事も記されず、その戦いにいかなる立場で参陣していたかは不明です。しかしこの高名が原因で牧野氏家中で特別な扱いになったとはあり得る話でしょう。初代稲垣平助(則茂)は同じ大坂の陣で甲首(かぶと首)一級をあげ牧野家中で筆頭家老として付属しただけでなく徳川氏直参の格を兼帯する特別な位置につくことになりました。殊勲の内容によっては大きな評価を受ける事があったのでしょう。

疋田氏の場合、4代目水右衛門(正典)が旧野田城菅沼氏の筆頭家老である今泉四郎兵衛の次男の出自と書かれており、この今泉氏は元松平姓(長沢松平)であったことが知られてます。初期長岡藩家老の今泉竹右衛門(1300石)とその族も松平姓であり、竹右衛門が長岡藩を辞めて旧縁の菅沼織部正に仕官したらしいことからも、初期長岡藩で疋田氏は今泉竹右衛門と浅からぬ間柄であったことが考えられます。

長岡藩今泉氏は疋田氏と異なり戦国期に東三河地域に居住していたことは間違いなく、但し元来牧野氏家臣ではなく菅沼氏家臣であった可能性があります。牧野氏付属の背景に家康の意志があったかもしれません。その影響かどうか長岡藩寛永分限帳の今泉氏の知行1300石のうち無役分1000石中800石が「公儀普請のため」と注記され(本給は300石)、公儀との強い関連性が見える。菅沼氏への再仕官がかなったのも何か最初から牧野氏と了解事項があったのかも知れません。 あまり、確定的な話ではなく申し訳ありませんがこんなところで・・・故城一片之月 2007年2月16日 (金) 19:14 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。Tetsusaburouさんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。 -- 2007年2月17日 (土) 14:18 (UTC)[返信]

真木氏について

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こんにちは、故城一片之月です。58.1.249.56氏の御意見への回答をそのままコピペしたもので済みませんが・・・ 違っていれば御指摘のほどを。

まず、減石について。これはTetusaburou氏等の寄稿ページに解説されるように、真木越中守の出奔にかかわる措置が直接原因と思われます。当時、主君の許しなく他所に移ることは敵対行為とされ、死罪になることも普通でした。豊臣大名で会津の領主であった加藤明成がその家老堀氏の出奔に討手を差し向けた例は典型的。真木氏はその功績から死罪は免れ、後には却って牧野氏から帰参を乞われたやに伝わるようです。そもそも、大名としては小規模の牧野氏(当時2万石)にあって、3000石は破格の厚遇であり、藩財政の実状からこれを機に収公したのは止むをえない事だったのでしょう。もっともいきなり600石ではなく、牧野氏軍団に残った越中守の弟に1700石を与えたが、越中守の子息が帰参したので遠慮して1100石返上したとのことです。つまり、嫡庶の系統の齟齬が介在し単に懲罰によるものではないと推察されます。つまり、真木(槙も含む)一族全体の支給総高は藩中で相対的に大きなものであった。

次に真木氏の家康謁見の有無。これは同時代文書(古証文や書信等)にその事実を示すものが私の知るところでは無いように思われ、真木氏は今川方として忠節を尽くし、早くから家康に内通者を出していた稲垣一族とは一線を画した立場であったことは想像されます。これが後に長岡藩で稲垣氏等の家老も一目置く、先方家として尊重された原因と考えられます。

『牛窪記』について。御指摘のとおり、牛窪記は史実としてはアバウトな内容が散見され、適切な史料評価を踏まえて利用すべきかと存じます。たとえば、宿老稲垣重宗は牛久保城外の合戦で負傷し、そのまま死んだことになってますが、史実は生存しており、文禄3年(1594年)に牧野氏転封先の大胡で老衰で死去し彼の地の長興寺に葬られました。この誤りを後に成立した、『牛久保密談記』は訂正し史実のとおり記述しています。しかし、牛窪記には他に見られない独自の記述内容も多くその他の文献や古文書・史跡調査の成果も踏まえ再評価すべき部分も多いと思います。

最後に牛久保城攻めの有無について。永禄5年8月7日付、稲垣平右衛門宛今川氏真感状に「去んぬる年四月十一日牛窪、岡崎衆相働く刻、風呂構えに於いて刀これを切らしむの旨」という内容が記され、「風呂構え」とは城内の郭(くるわ)の内の通路に設けられたトンネル状の防備の施設と考えられ、姫路城にも同様の施設が見られます。このことから家康の派遣軍は直接城攻めをしたことが判ります。地元の説はともかく同時代文書を根拠にした記事です。以上。故城一片之月 2007年2月18日 (日) 16:04 (UTC)[返信]


Tetusaburouさま、こんにちは。東三河の真木氏についてのお尋ねの件ですが。 難しいお話で、あくまでも想像の世界になりますがあえて私の考えを言えば、

  1. 真木氏は宝飯郡鍛冶村そして出身地の河内国古市郡のみの存在というより、古代より製鉄技術を持った帰化人系技能集団であり、全国的存在ではなかったかという点。→各地にその足跡がある。たとえば長岡市の近隣にも槙山があり製鉄遺跡があるとされている。その意味では、蘇我氏の血統を称する牧野氏もそれが事実なら帰化人系であり共通していると考えられる。なお、蘇我氏はその系図や日本書紀の記述からも朝鮮民族の血を引く可能性がある。
  2. 但しこの様なあまりに古い話をすれば真木氏と牧野氏に限らず、同族関係であると主張する説は無限に出てくる可能性もあり、主張自体の意味は希薄となるように思います。
  3. よって宝飯郡の真木氏に限定し、かつ源平合戦期以後に時期を限れば、婚姻関係を除けば同一氏族集団とは現状考えにくいと思います。
  4. その一方、わたしは宝飯郡の真木氏起源を河内国渡来の一流に限定しない考え方を持っております。それは讃岐国出身の真木氏です。鍛冶村の真木氏はじつは一文字マキで「槙」・「牧」と表記されると考え、一方讃岐のマキ氏は二文字マキと考えます。讃岐国真木氏は塩飽水軍の頭領四家のひとつとされ、橘紋を家紋としていました。源平合戦期に塩飽水軍は平家の水軍の主力の一翼を担いました。一方、同じ頃牧野氏先祖の田口氏一門も平家の味方でありました。これより後の延文2年に田口成業が讃岐国真木郷に移ったとは牧野系図の成業の事績です。真木氏と田口氏は讃岐国内で何らかの繋がりが有ったかも知れません。しかし、これが同一の氏族集団であったかどうかを説明するには甚だ弱いものと言わざるを得ません。ただ、真木氏が牧野氏にとって四国以来の関係をもつ稀少な族であるかもしれません(他に山本氏が讃岐国山本郷出身とする稀少説も存在するようですが)。

なお、塩飽水軍末裔の真木氏は現在、子孫の方は塩飽諸島に在住せず、北海道にいらっしゃるようです。また、先代当主の方が塩飽水軍真木氏について著作を出されていたようですが、わたしは未見です。今のところ、牧野氏との関係でウィキに紹介できるような基本条件は何も揃っていないと判断し私はウィキ上に取り上げていません。以上です。故城一片之月 2007年2月28日 (水) 10:31 (UTC)[返信]

東三河六騎衆の改題について

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Tetusaburou様、こんにちは。皆様のご意見もいくつかでて固まってきたかに思います。ページ立ち上げ者の219.120.30.142 氏(今はIP名125.100.187.2ご使用とのこと)は牛久保六騎衆でよいとの意見でした。私としては『牛窪記』に現れる牛久保六騎そのものを使用した方があとくされがないと考えますがいかがでしょうか。なお、この標題ならば内容の大幅改変を伴わず、新規ページに移動可能とおもわれます。同意いただければすぐに実効致します。故城一片之月 2007年2月20日 (火) 14:46 (UTC)[返信]


牛久保六騎で賛成します。議論が割れた場合は、投票によるそうですが(匿名投稿者を除き、投稿50回以上あるものが有権者とか)、それを実施する必要はないと思います。

東三河を何らかの形で、題名につけたり、残すとともめる原因になると思います。別に東三河司頭で一つ立ち上げて、重複部分は、牛久保六騎や、牛久保城に、リンクして、ごく簡単なものを作るということは、考えられます。--鉄三郎 2007年2月21日 (水) 11:06 (UTC)[返信]

すみません、ただ今牛久保六騎は私が修正・編集でしたので競合になりました。悪しからず。もう少しお時間下さい。故城一片之月 2007年2月21日 (水) 12:46 (UTC)[返信]

失礼しました。あらためてご同意ありがとうございました。私の方は終了しました。修正・校正等ありましたらお願いいたします。また、本文に手を加えましたので、合わない部分など御意見ありましたら、遠慮なく私のノートに御指摘下さい。故城一片之月 2007年2月21日 (水) 13:04 (UTC)追伸、東三河司頭については少し概念が異なるようなので、恐縮ながらご処置をお任せ致します。[返信]


市田村牧野四郎左衛門について

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標題のお尋ねの件ですが、牧野四郎左衛門については一般的には『牛久保密談紀』に永正14年11月24日付(久保神社)棟札(大旦那は地頭牧野平次筆頭に複数あり)が知られており、『岡崎市史・史料編古代中世』にも同棟札の銘文が所載されています。 ただ、この人物は系譜関係が不分明であり、まとまった説明はなかなか難しいと思いますが、享禄年間の記事ネタをお持ちのようなので期待しております。

系譜情報については「長岡牧野氏家系図類」の一本に牧野成勝(民部丞)次男の系に四郎右衛門成廣があり(長男は藤太守成とある(左京亮守成と同人か?))、母は松下源三郎安長の女との注記がある。またその子が牧野平四郎成政(号・古庵)の記述あり。

ただし、この系譜は谷宗牧の『東国紀行』(天文13年)の記述から考えて著しく疑問(平三郎・平四郎兄弟とあるが平三郎はこの系譜に記載がない)がある。また成勝に実子のある系図は珍しく、まだ検討の余地がある。など注意を要します。また牧野四郎右衛門は長岡藩寛永分限帳(六組所領役高帳)に牧野浅之助組二百石でその名がありますが、前後関係が不明です。それゆえに「三河牧野氏」では古棟札・居館の紹介のみに現在とどめております。(以上)
--故城一片之月 2007年3月13日 (火) 13:31 (UTC)[返信]


御案内

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こんにちは。本日、利用者:時空の旅人(会話/履歴) 利用者:オタスケマン(会話/履歴)氏への投稿ブロック依頼が提出されたので、お知らせに参りました。Wikipedia:投稿ブロック依頼 2007年4月でご確認とコメント(投票)参加を御案内いたしますので宜しくお願いいたします。--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 12:58 (UTC)[返信]


穂国幻史考について

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鉄三郎様へ。「穂国幻史考」についてのお尋ねがありましたので一言。
うんと古い話、持統天皇の三河遠征の話題とか非常に面白い記述があります。その一方、牧野氏の出自については麻生田大橋遺跡と牧野氏を強引に結びつけるがその根拠は不明確であり、関連性について首を傾げたくなります。古代の記述の詳細さ重厚さに比して牧野氏出自のくだりは通説的なものを引用したに過ぎない印象が強く、これに麻生田大橋遺跡を何となく結びつけた観があります(私の個人的印象ですが)。
その価値云々は読者の目的によりけりであり、時空の旅人氏は気になって仕方がないようですが三河牧野氏出自を紹介記述する場合にはありきたりでこれでなければならない様なものとは私は考えていません。--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 19:54 (UTC)[返信]


稲垣林四郎の件

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鉄三郎様へ。こんにちは、永禄4年の稲垣林四郎のご質問の件お返事は私のノートに書きましたので、閲読下さいませ。--故城一片之月 2007年4月20日 (金) 16:39 (UTC)[返信]


長岡牧野家庶子について

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こんにちは。お尋ねの件ですが、庶子に関してとくにまとめているわけではないので、カッチリとはお答えできかねますが、面白いお話がひとつあるので追求されてはいかがでしょう?下記、外部リンク参照下さい。--故城一片之月 2007年4月24日 (火) 13:54 (UTC) 外部リンク→[1][返信]

今日は、ご無沙汰して失礼しておりました。時空の旅人氏・オタスケマン氏の永久追放については、自由編集の建前上、賛成した私自身も大変に不本意な結果と受け止め、少し距離を置いておりました。鉄三郎様はだいぶその後も寄稿されご活躍で何よりです。特に三河山本氏のページを作って戴き嬉しく思います。わたしも少し加えさせていただきました。今後は以前ほどではないですが適当なペースで参加してみます。故城一片之月 2007年9月4日 (火) 12:43 (UTC)[返信]

富永口の戦い等の件

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鉄三郎さん、お久しぶりです。故城一片之月です。牧野成定・牧野保成等へのご投稿、拝見しました。 永禄5年野田城で戦死した稲垣半六郎について、稲垣重宗の弟であることが判りましたので情報追加しときました(寛政重修諸家譜、稲垣重宗の項より)。 それと少しお尋ねします。ページ牧野保成におけるあなた様の投稿記事に「しかし、感状は写本や文言を含めて一切伝わらず、この合戦の内容と感状の伝説を伝えているのは、「牧野家譜(上)」大正10年(長岡市立中央図書館蔵)のみにすぎないが・・・」とありますがこれについて、

  1. 富永口合戦について、永禄4年5月28日に起きたという情報源があります。→永禄5年8月7日付稲垣重宗宛今川氏真の感状(新編岡崎市史6 資料編中世所収)、またこれに関連したものか、永禄4年12月9日付岩瀬小四郎宛今川氏真判物(写)が『牛窪密談記』所載の古文書として存在し、「菅沼新八郎(定盈)逆心に岩瀬小四郎が同意せず、野田より牛久保に引き退いた事を賞した」との文言があります。この両文書の内容から、永禄4年5月28日より前に菅沼定盈の逆心が発覚し、これを今川軍が5月28日には重宗等を含む複数の今川方諸隊が攻撃したことが推論されます。八名郡の西郷氏に所縁のあった菅沼定盈は野田城を逃れ西郷領に潜伏したが、翌5年野田城を急襲して奪還、この時上記稲垣半六郎が戦死した流れのようですが、お考えをくだされば幸いです。
  2. また、永禄4年中の徳川家康自身の東三河の牛久保、野田もしくは富永付近出馬は確実でしょうか?私が判物で確認できたのは永禄5年8月7日付の稲垣重宗宛今川氏真感状に「去る二月三州出馬の砌・・・」(前掲岡崎市史6 所収)と氏真自身の出馬を示す内容があり、これはいわゆる三河で唯一氏真と徳川家康とが直接に戦場で相まみえた戦い「一宮砦合戦」の際、氏真が富永方面に兵を分割し稲垣重宗に案内させた事をしめす文書と推定されるものです。私はこの「去る二月」は永禄5年2月と読んでおり、これ以前については西三河の幡豆郡東条城や西尾城の攻略戦に忙殺され家康は西三河にとどまっていたとの説もあることから、永禄5年2月の出陣を独立後の家康の東三河初出馬ではないかと思っていました。この点へのご感想も合わせてお寄せ下さい。
  3. 牧野成定自身が太刀打ちした戦いは前の文書に同時にでた永禄5年8月7日付稲垣重宗宛今川氏真感状に「去五月七日、牧野右馬允富永在番の刻、敵相動くの処、右馬允自身、刀切ら令む・・・」(前掲岡崎市史6 所収)の文言があり、2月に三浦右衛門太夫を稲垣重宗が案内して行った富永(設楽郡)攻めが成功し、そのあと牧野成定が富永を在番していたのを徳川方が攻めたと推論されます。がいかがでしょう。なお、余談ですが富永口とは野田城の富永口の意のようですが、この戦いの富永からは少し距離があるように思われ富永合戦と富永口合戦は別のようですね。--故城一片之月 2007年12月5日 (水) 16:26 (UTC)[返信]

たいへん恐縮ですが多忙中のためネット活動をあと数日は、ほとんどできない見通しです。

簡潔にご返事だけ致します。

私は富永口合戦に『一家言』ある者ではありませんから、御自由にお書き換え下さい。永禄4年中の徳川家康自身の東三河の牛久保、野田もしくは富永付近出馬は確実だとは思いません。おそらく酒井軍でしょう。永禄5年以前の家康出馬はなかったのが史実と推察します。

なお現住所の富永と、この時代の富永はまったく違う場所だと考えています。--鉄三郎 2007年12月7日 (金) 14:24 (UTC)[返信]


早速のお返事ありがとうございます。お返事の趣意は了承しました。ご多忙中とのこと、落ち着いたらまた宜しくお願い致します。--故城一片之月 2007年12月8日 (土) 14:46 (UTC)[返信]

独礼

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(感想)独礼で騎乗を許されない人がいたとは、なかなか興味深い話ですね。--故城一片之月 2007年12月15日 (土) 17:22 (UTC)[返信]


牛久保の一門衆の件

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鉄三郎さん、こんにちは。表題の件に関して、書いていただいた注記で史料学的根拠がないと御指摘です。 わたしは、これに列挙した人名について城主牧野氏に従属していたと判断出来る史料はあります。しかし、史料学的根拠とはどのように提示したらよいかとまどっております。どうぞ、ご教示ください。

それと、既にご承知かと思いますがネット上で真木越中守の鍛冶村古屋敷跡とするものが写真公開されています。豊川市中条町大道の加古家具店の南辺りとして近接の金像寺の写真が掲載されているのです。(三河 鍛冶村古屋敷跡

だとすると、ここを中心として鍛冶村周辺を支配地としていたとするとどのあたりまでが支配範囲と考えられるでしょうか? 中条町などの名の残る地域は現状小さくなって判りづらくなっていますが。また、昔の上善寺というのはもとは定善寺と書いて真木氏が牧野氏と協力して開基したそうですが、真木一族の墓もそこにあったものもいたのでしょうか?もっとも定善寺はもと瀬木村にあったともいいます(『牛窪密談記』)。--故城一片之月 2007年12月24日 (月) 05:45 (UTC)[返信]


参考文献情報のお願い

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もうひとつお聞きしたい件がありました。

鉄三郎さんの三河真木氏の記事は、いつも大変興味深く拝見させていただいておりますが、私も真木氏のことをもう少し深く知ってみたいと思いますが、よろしければ加藤誠一氏の著作について情報をお教え願えませんか? どうも一般の書店で見かけることもなく、国会図書館、長岡市中央図書館、小諸市図書館等の目録でも検索該当がでてきません。発行所・発行年あるいは所蔵場所等おわかりでしたら、是非とも情報いただければ幸いです。--故城一片之月 2007年12月24日 (月) 15:08 (UTC)[返信]

私もアバウトな性格なので、あなたが史料学的根拠があると言うなら、それでかまわないです。あまり細かくなりすぎると、一般読者を想定したものでなくなってしまいます。


本家筋の牧野平三郎が、分家筋の牛久保牧野氏に臣従していたということだけは、もう少し説明があってほうが良いとは思います。

いまも某所に真木越中守、又次郎、花藻の墓石は転がっていますが、墓石に碑文がないため伝説を信じるしかない状態です。地元の古老の話だと、愛知県営牛久保住宅(住所は旧山道町字一本松)造成の邪魔になったからから持ってきたものだと語っていますし、近くの石塔には移転した年月だけが書いてあります。

昭和30年代の話しですから、この移転作業現場を目撃しているかたも、かなり健在なはずです。

上善寺に真木姓 槇姓の檀家がいるか約20年前に照会したことがありますが、存在しないとの回答を得ました。

江戸時代の加地天神(中条神社)は、定光寺と神仏習合していたようで、中条町(鍛冶村)にある定光寺のほうが、真木氏と縁が深いと考えるべきでしょう。

土地区画整理と住居表示で、現住所は、中条町二丁目ですが、僅かな違いで中条町から外れて美和通りになる地域にも寺院の敷地があるようです。この地域はすべて旧鍛冶村です。道路を1本隔てて、中条神社があります。この寺は、ほとんど既刊の郷土史の書籍には登場していないようなので、ノーマークになりやすいのです。研究者であれば神社があれば、過去に近くに神仏習合している寺があったはずだと考え、なければ廃寺されたはずだと想像すると思います。

かつて豊川市の教育委員会に親しい方がおり、私の郷土史研究にいろいろ親切に協力して頂きました。東京から長岡・牛久保に何度も足を運びました。このときたくさんの地元郷土史家や、郷土史研究に尽力していた市議会議員になどにも、お目にかかりました。

このときは地元郷土史家たちは、鍛冶村古屋敷は、定光寺に隣接していたのではないかと言っていましたが、あくまで仮説です。

しかし、約20年間以上ほど牛久保・長岡と、牧野氏、真木氏、岩瀬氏、能勢氏に関する研究に情熱をなくしてしまい、毎日の生活に追われて、すっかり没交渉になってしまいましたが、数年前に久しぶりに足を運びました。私の年齢は約50歳ですから、あなたよりおそらく年上だと思います。

豊川市を訪れた際に、多数の史料を頂いたのですが、自費出版や、簡易製本の書籍などがかなり含まれていたように思います。これらと同じ史料は、いまも豊川市役所が所有しているはずですが、市役所に照会したところ、一宮町と豊川市の合併により、担当課を旧一宮町庁舎に移転させてしまって、まだ古い史料の整理がついておらず、また豊川市史編纂室にもっていったものも、かなりあるはずだということでした。

私は原本をかなり紛失してしまい、コピーだけしか持っていない状態です。こういう事情で、いますぐあなた様の質問に回答することができません。

ウィキの存在をしらなければ、こんなこと(牛久保・長岡と、牧野氏、真木氏、岩瀬氏、能勢氏)を思い出さなかったのですが(苦笑)。 --鉄三郎 2007年12月25日 (火) 08:41 (UTC)[返信]

ご丁寧なお返事をいただき感謝いたします。現地調査・資料収集にお骨折りだったと推察いたします。真木氏の情報収集は容易ではないのですね。
それにしても、昨今の再開発・自治体合併には嘆息させられます。地域発展は異論ないが、歴史・文化の遺産・遺跡にはもっと配慮が欲しいものです。墓石が転がっているとは痛々しい・・・。
全くの私見ですが、中條郷においては真木氏のほうがその歴史は古いのだと感じております。牧野氏がこの地に進出するにあたり真木氏とどのように交渉をへてきたのか興味は尽きません。一般に国人領主や戦国大名のような勢力は地元の有力者をただ制服のみして成長してきたと受け取られ易いのですが、平野明夫先生が指摘されるように初期松平氏が平和裡に地元有力者の協力を得たり、財力で土地を買得し成長してきた例に同じく、牧野氏も真木氏や石黒氏・渡辺氏・石田氏などの古くからの地元有力者の協力を得ながら一味一党をなして擁立されたことが想像されます。(また長いのでこの話は別機会で)
『牛窪記』等は、個々の事実の正確さはともかく、その有り様をつたえるものと受け取れます。明確に寄子-寄親制の軍事編成をさせたのは天文初期の今川氏によると推察されます(『牛窪記』は氏輝としているが既出の理由で支持できないが)。相続したての今川義元だったのでしょう、義元は松平広忠を救うために三河に出兵しているが、この時期、東三河地方にも影響を与えたのだと思います。
私も年齢でいえば、鉄三郎さんとはほぼ同期の者ですが、牧野氏と牛久保衆に関してはあるきっかけで約20年ほど前から始めて、細々続けて次第に裾野が広がって来たところです。あなた様にはいろいろ教えていただき助かっております。さて、牧野平三郎はじめ列挙の人物については典拠史料の提示で宜しいとの御意見と受け取りました。とりあえずその方向で再編集いたしますので、後ほど査読いただければ幸いです。--故城一片之月 2007年12月25日 (火) 11:19 (UTC)[返信]


豊川市史再編集に期待

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私も以前に豊川市史の記述に違和感を持ち、以来、豊川市地域の歴史を調べるのに皮肉なことに豊橋市史や岡崎市史など他の自治体史をもっぱら利用しているのです。鉄三郎さんのお話では新行先生が豊川市史を再編集するご意志とのこと、在野の凡人の私にとって高名な方が乗り出す訳ですから大いに期待したいところです。

豊川市では地域史の教育に熱心な様子で小学生に副教材を用いて牧野氏のことも含め郷土の歴史として教えているようです。しかし、肝心の豊川市の歴史認識に誤りやズレがあると、子供たちへの影響が懸念されます。子供のとき覚えた知識は長く残りますからね。

ウィキペディアの記事はインターネットや自由編集ということもあり、信頼性にたいし偏見をもたれる面があると聞きます。しかし、そのような偏見は乗り越えて、ネット事典なりの利用法で有効活用していただきたいものです。 私も今後の投稿編集は、まだまだ甘いのですが、もっと検索者に有意義な形を念頭に心がけたいと思います。

それと、牧野平三郎については不思議なことに長岡の『牧野家系図』には多くの庶族の人名を載せながら、天文期に相当する平三郎系に人名がありません。長岡牧野家はもとは牧野氏成つまり新九郎系が平三郎系に取ってかわった(貞成の養子成定は実は新九郎氏成の子)のだから、平三郎の家系情報には関心が薄かったのかもしれません。

長岡の家老・牧野平左衛門家は既出の通り、本姓松井氏で名跡を継ぐにあたりかつては何らかの由緒が存在したかも知れませんが現在は伝わらないようです。似た経歴をもつ牧野頼母家もかつて由緒をつたえる牧野忠成の直書があったそうですが、太平洋戦争の空襲でその他の遺物とともに焼失したそうです。この系統の方の系図の写しを見せていただく機会があり、豊橋市の照山城跡にある加納寺の伝承と人名や出来事に一致する部分があって驚いたことがあります。今後の新しい発見に期待するしかありません。もっとも、投稿条件に達しなければウィキペディアにUPはできないでしょうけど。--故城一片之月 2007年12月26日 (水) 12:53 (UTC)[返信]


長岡藩士根岸氏記事独立の件

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まず、根岸弥次右衛門の小諸登城というエピソードの発見は大名牧野氏の本-支藩関係を考える上で、非常に興味深いことだと感じております。

私の投稿記事と矛盾とのお考えの様ですが、私には何とも言えません。本藩々士の資格で小諸へ登城したのでしょうか? 本来、江戸定府の人のようですから、主命を直接伝えるなどの重要任務だったのかもしれません。いずれにせよ関連の事実関係を証明する典拠資料が現状無い場合は、この小諸登城事実の記事の提示で良いと思いますが。

記事独立については、越後長岡藩の家臣団という枠組みの中でどう記述を収めていくかを工夫しようと私は考えており、先述の如く著名性などウィキペディアの編集方針にそって新規ページは立てるべきと今は考えています。 全国300藩の家臣団がそれぞれの寄稿者の自由意志で次々に記事独立した場合どんな結果になるか私は想像も付きません。容量と格闘しながら、まず工夫してそれからコミュニティーなりに相談するのが良いと思います。

付、三河真木氏の記事名変更については未合意でしたので差し戻しましたが、記事内容については、私も詳しくなく典拠文献も私は殆ど未見のものが多いので、残念ながら関与ができませんでした。 --故城一片之月 2008年1月17日 (木) 16:32 (UTC)[返信]

付2、「根岸弥次右衛門30年以上勤続で死去したと思われる」はコメント記事なので削除し、事実関係のみとしました。--故城一片之月 2008年1月17日 (木) 16:44 (UTC)[返信]


下地合戦の牧惣次郎について

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お話の趣旨には少々齟齬があるかとおもいます。 まず、時期的問題として、『牛窪密談記』の下地合戦は天文元年(1532年)5月に松平清康が吉田城の牧野伝蔵(信成、田蔵とも)を攻めた時に牧野惣次郎(牧・真木トモ)と松平方の佐野右馬介と槍を合わせたとする。

『三河物語』では年月日は記さず、徳川家康が吉田城を攻めた時のこととして牧惣次郎と徳川方本田平八郎(本多忠勝)と槍合わせをした話になっています。これは『寛政重修諸家譜・巻第367』の牧野康成(讃岐守)の項に、同様の記述として永禄7年(1564年)に東照宮(家康)が吉田城外下地において今川軍と戦った時に牧野康成と本多忠勝が戦った話を載せている。

吉田城合戦は今橋城の時代から何回も合戦が行われましたが、豊川の氾濫原の下地は下地堤とよばれる堤があったらしく、吉田城の防衛線として重視されこれ自体が複数回主戦場になったようです。

天文元年下地合戦で登場する牧野惣次郎(牧・真木トモ)と佐野右馬之介の槍合わせは『牛窪密談記』のほか、「八代記」(今橋物語所収)にも同じ内容があるが「三河海東記」の下地合戦にはその記述がない(もっとも大永5年(1525年)としているが)。

永禄7年の下地合戦は「牛窪密談記」にも記述されるが、金扇のエピソードはあっても牧野惣次郎と本多忠勝の戦いは記されていない。 この牧野惣次郎を牧惣次郎・牧宗次郎などと文献によりいろいろ表記がされており一定しない。 また、この牧野惣次郎を牧野半右衛門正勝(康成・惣次郎・讃岐守)とする説もあるが、下地合戦のおりに今川家臣から本多忠勝の家臣となったとの所伝をもつ牧宗次郎(惣次郎)という家臣が本多家にいたのもまた事実のようである(今川家臣牧氏は強鉄と異名したと何かの文献にあったと思う。また、駿河国大岡・今の沼津市域内出身の牧氏が今川氏に仕えたとされている)。私が思うに、2つの異なる所伝が混淆して伝えられている可能性があるかもしれないのです。

いずれにしても、宝飯郡中條郷の真木氏とするは稀少説らしく、現状は他にこれを補う情報を目にしていません。よってこのお話の寄稿は諸説併記など注意を必要とし、また手間もかかるでしょう。--故城一片之月 2008年1月18日 (金) 12:18 (UTC)[返信]

私も同感であり、宝飯郡中條郷の真木氏とするは稀少説らしく、どころか聞いたことがありません。--鉄三郎 2008年1月19日 (土) 15:43 (UTC)[返信]

所用で帰宅が遅くなりました、お返事致します。 私が言下に否定すれば問題となると思い稀少説と婉曲に申したまでです。鉄三郎さんが当該記事にそのような認識をおもちであれば、話は早いです。 この話題を載せているのは『牛窪密談記』(のみ?)ですから、記事にそのことを付記して再寄稿するか、ページ『牛窪密談記』の項目にして他文献との比較をのせて相違を明らかにすれば良いと思います。現に文献に記述があるのですから紹介しても良いはずです。--故城一片之月 2008年1月19日 (土) 16:28 (UTC)[返信]


真木氏履歴の件

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鉄三郎さん、こんにちは。  私のノートへの書き込みは読ませていただきました。

真木家のことは先法家として、記述が是非とも充実して欲しいと願う次第です。 先法家という存在自体が長岡藩において特殊な存在であったことは「長岡藩政史料集」所収文書や『長岡の歴史1』でも明らかであり、この点は既にウィキペディアの真木氏関連記事で縷々記述されているわけです。

真木越中守出奔の事件は当時の牧野氏とその家臣団には衝撃的であったでしょう。 しかし、事件の真相は故有ってとのみ記して詳細は言わないのですから、深い謎のままになっており、おそらく真木家関係者以外は知るすべがないのでしょう。勿論、私も一般に存在する史料以外に追求の手だてはないのですが、可能な限りのデータをまとめてみました。

☆真木越中守関連事績

  • 永禄4年(1561年)4月11日-同12日、真木兵庫助(重信)牛久保城の戦いに家康軍を防戦・討死。
  • 同年4月14日、兵庫助の子・真木清十郎(重清)と真木小太夫(重基)あてで上記戦功に今川氏真が感状授与。
  • 同年4月16日、真木清十郎(重清)宛てに今川氏真が再び感状授与(14日の戦功内容を確認した旨)。
  • 永禄8年(1565年)2月2日、今川氏真の朱印状「吉田城中令取替兵粮之事」の連名の宛名に、真木越中守・同善兵衛の名あり。
  • 永禄9年(1566年)11月某日、水野信元副え状の連名の宛名に真木越中守の名がある。
  • 永禄12年(1569年)、遠州堀川城の戦いに真木又次郎(某)山本帯刀に属して従軍し負傷、帰国するも他界(淨賢信士)。鍛冶村一本松に埋葬さる。又次郎は牛久保城主牧野家の旗本として牛久保城内廓に屋敷があった(牛久保城古図)。
  • 年月未詳、真木越中守、知行高三千石を下さるも客人分にて指し置かれ、故有って御家を立ち退き(奥州会津坂下村に隠棲、郷士となったと云う)、嫡子・真木小太夫某に千七百石賜う。
  • 年月未詳、真木小太夫(某)が病死、その嫡子・真木五郎八某に五百石賜う。
  • 元和4年(1618年)真木清十郎・真木五郎八が長岡御打入り御供(元和四年御引越御人数帳)。
  • 年月未詳、真木五郎八の弟・真木新五左衛門(某)に家督相続仰せ付けらる(高二百石)。(→「寛文分限帳」に二百石・御番頭・御者頭。)なお、「寛文分限帳」は寛文13年(1673年)頃成立と推定。
  • (年月未詳)、新五左衛門の倅・藤右衛門(某)改易仰せ付けられ、家断絶。
  • 貞享2年(1685年)、真木藤右衛門の弟・勘八(貴光)御近従に召し出し。
  • 正徳2年(1712年)、御譜代の者、小身に罷り成り不憫との思し召しにて、高百石に御直し。


☆ 真木三郎左衛門関連事績

  • 永禄3年(1560年)真木(槇)三郎左衛門(某)三州富永口合戦に戦功。
  • 元和元年(1615年)真木(槇)三郎左衛門(某)の嫡子・重勝(初め新助のち三郎左衛門)、大阪(夏)之陣に部屋住み17歳(満16歳)にて御供、この時、二百石賜る。→よって新助重勝は慶長4年(1599年)生まれと推定される。
  • 年月未詳、真木(槇)三郎左衛門が能勢丹波守次男の能勢七郎右衛門と馬之儀にて喧嘩、主君牧野康成の仲裁により和睦、主命により能勢七郎右衛門の嫡子・籐七に三郎左衛門の妹を輿入れさせる。
  • 元和4年(1618年)3月、父三郎左衛門とともに新助重勝、長岡御打入御供(重勝20歳)。この時、弟・槇三左衛門(重武)と弟・槇平兵衛(重常)も一緒。
  • 元和5年(1619年)、牧野忠成の芸州広島城御請取仰せ仕る節、重勝は上使に御供(広島下向、21歳)。
  • 元和6年(1620年)、命により栃尾領1万石の御預け支配を仰せつかる(22歳)。
  • 寛永15年(1638年)、槇新助、「寛永分限帳」に高六百石と見える(40歳)。槇内蔵助の高二百石も直後に見える。
  • 寛永19年(1642年)、槇三郎左衛門重勝、越後三条城の破却の御用掛を勤める(44歳)。→この頃、高七百石か?
  • 年月不明、重勝に隠居免二百石を賜る。
  • 年月不明、重勝の嫡子・重明(内蔵助)、二代目家督継承(高六百石)、御番頭・年頭御引渡し着座を仰せつかる。
  • 延宝6年(1678年)、重明に寄合組入り仰せつかる。→宝永4年(1707年)の「宝永分限帳」に槇内蔵助が寄会組・六百石とある。


ここでお聞きしたいのですが、上記データ中の人物の実名は資料に付記されたものを掲げただけですが、鉄三郎さんは真木家系図をご存じのようですが、果たして通称と実名は一致していますでしょうか? また、永禄3年富永口戦功の槇(真木)三郎左衛門(某)は真木越中守の子として「真木家系図」で確認可能でしょうか?

以上のデータが検討された前提条件の上でお話を進めた方が、記事の編集もし易いと私は考えています。--故城一片之月 2008年2月5日 (火) 18:28 (UTC)[返信]

ご丁寧にありがとうございます。

まず結論ですが、実名は一致します。永禄3年富永口戦功の槇(真木)三郎左衛門(某)は真木越中守の子として「真木家系図」でほぼ確認できます。


独自研究によらず誰でも検証可能な文章という範囲に限定して上記を補足すると、牧野一郎所蔵文書・真木家文書(東大史料)及び、愛知県長谷寺が発行しているパンフレットが取り合えず確実な守備範囲だと思います。これらは成人であれば、多少の困難はあるかもしれませんが、その気になれば閲覧(写本・引用を含む)することができます。その他、槇三左衛門家の文書がかなり残っています。槇三左衛門家の文書は、女系の子孫が所蔵しているようなので(あくまで聞きかじりですが)、槇所蔵文書とは呼ばずその女系の子孫の苗字を冠した呼ばれた方がしていたと思います。この文書は長岡の展覧会で一般に公開されたことがあり、写本が長岡中央図書館にあるので、誰でも検証可能な文章に該当しますが、戦国期から安土・桃山期の記述はありません。

真木家文書(東大史料)には、真木越中守という語は登場しますが、系図本編には、越中とか越中守という語は、まったく登場しません。越中守というのは僭称となるので、省いたのかもしれません。真木系図本編には兵庫之助重信には、清十郎重清と、小太夫重基の二人の男子がいたことが書かれています。そして清十郎重清の男子には真木三郎左衛門重勝(初名新助)がいたことが書かれています。

また水野氏から受け取った文書(添状)に名宛人として、真木越中守があったので、当家も受取人の一人であるので、添え状をそのまま真木家文書の中に引用しています。厳密に言えばこのときの当主が真木清十郎重清であるため、彼を真木越中守に比定しているに過ぎません。

--鉄三郎 2008年2月5日 (火) 20:14 (UTC)[返信]

次に牛久保城の合戦(永禄4年(1561年)4月11日-同12日、真木兵庫助(重信)牛久保城の戦いに家康軍を防戦・討死)についてですが、真木家文書(東大史料)には、この記述があるのですが、敵が誰であったかということが一切、書かれていません。

また私はこの合戦を牛久保城外の合戦として、牛久保城の中で記述したところ、故城一片之月さんに消去され、再編集されてしまいました。 故城一片之月さんによるとこの合戦は牛久保城の合戦で、牛久保城外の合戦は永禄6年6月のものであるとしています。

真木家文書(東大史料)によると、永禄4年(1561年)4月11日-同12日の合戦を牛久保城外の合戦と呼んでいます。ちなみに「去牛久保城外及一戦、父兵庫之助討死」と記述されています。少なくともこの文書から、真木兵庫之助は、城の外に出張して討ち死にしたことがわかります。

要するに合戦のネーミングの問題であり、また真木家文書(東大史料)の記述だけに則って、牛久保城の記述がなされなければならないという原則もないので、故城一片之月さんの投稿を再修正しませんでした。中にはネーミングの問題で投稿合戦をする人もいるようですが、少なくてもこれら合戦の呼び方について、まだ定説は定まっていないというか、あまり研究がなされていないのかもしれません。--鉄三郎 2008年2月6日 (水) 05:45 (UTC)[返信]


申し遅れましたが、前掲の真木越中守・槇三郎左衛門の関係データは『長岡藩政史料集』所収の「諸士由緒記」の記述を基本に、同書シリーズ掲載の長岡藩各時代分限帳と「元和四年御引越御人数帳」、有鷲山長興寺の『平成新修長興寺史』所載の「牛久保城古図」、及び『新編岡崎市史6・史料編』所収「槇文書」にて補ったものです。
さて、お答えの件、ありがとうございます。なるほど、岡崎市史史料編の「槇文書」の真木兵庫助・真木清十郎・真木小太夫に注記されている実名の重信・重清・重基が東大史料の『真木家文書』の「真木系図」に一致してることが確認できました。
また、真木清十郎(重清)に新助重勝という子が確かに存在したとのお話ですから、結局新助は同族の真木三郎左衛門(某)の養嗣子になったと考えられます。実際、「諸士由緒記」に槇三郎左衛門家の所伝に新助重勝をのせているので。
ところで、「元和四年御引越御人数帳」には真木五郎八のほかに真木清十郎の名があるのが目を引きます。また、真木(槇)新助は槇三左衛門や槇平兵衛ら弟たちのほか、父親と思しき槇三郎左衛門も一緒に長岡入りしたことが確認できます。

牛久保城(外)の戦いの件

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  • 永禄4年4月11日-12日の戦いは、真木氏の牛久保城外の戦いの記述があるそうですが、城外・城内含める概念として「牛久保城の戦い」が一般的で無難ではないでしょうか。『戦国合戦大事典』(新人物往来社刊)など一般書籍は普通にそう紹介しています。この戦いは敵勢は宝飯郡一宮方面、あるいは八名郡賀茂方面から牛久保城目指し進攻したと推定されその途上に真木氏本拠地の鍛冶村(中条町)があるため、牛久保城の防衛ラインとして真木氏が抗戦したのかも知れませんね。そのお陰で、稲垣重宗等の後詰めが間に合ったのでしょうね(城内で戦っている)。
  • 永禄6年3月の合戦。これは牧野保成・牧野成定・稲垣重宗等が牛久保の西方・小坂井の東岡付近に出陣し、吉田城からの今川勢とともに徳川軍と激戦した戦い。「牛窪密談記」では牧野出羽守(保成)が城外12-13町(約1.3-1.4㎞、小坂井はその範囲に含まれる)まで出張し火花を散らして二時ばかり戦ったと記述。これにより「牛久保城外の戦い」と紹介する文献も見受けられ、主戦場が牛久保城からやや距離があるので、私もそう表現したのですがこだわってはいません。そもそも、城攻めは城外の攻防から始まるのが常でしょうから。城外もどこまでの範囲か曖昧なので、戦いを示す固有名詞として事典には適当ではないかもしれません。前掲の『戦国合戦大事典』は「牛久保城の戦い第一次」「牛久保城の戦い第二次」のような区別をしています。

--故城一片之月 2008年2月6日 (水) 17:35 (UTC)[返信]

ありがとうございます。あなた様がおっしゃるように、城外・城内含める概念として「牛久保城の戦い」が一般的で無難だと存じます。別掲の真木氏の履歴につきましては、本日は多忙のためゆっくり読ませて頂きたいと存じます。--鉄三郎 2008年2月7日 (木) 13:54 (UTC)[返信]


槇勘左衛門

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また一つ、お尋ねします。 槇勘左衛門が病気(疱瘡)で総領退身の上意を受け、代わって弟・権左衛門は嫡子となったたようですが、その後に勘左衛門は病気回復し復帰したのは本当ですか?それならば、長岡藩「宝永分限帳」の槇内蔵助が勘左衛門と推定しても年代的に符合していると思われます。--故城一片之月 2008年2月10日 (日) 03:48 (UTC)[返信]

真木家文書(東大史料)によると、疱瘡に感染したが、治癒したこと。高六百石を給付されたこと。番頭を勤めたことが書かれています。治癒したのちに再び役目に復帰したかどうかは、明確には書かれていません。権左衛門に関する記述は真木家文書(東大史料)にはありません。小諸真木氏文書(仮称)には、記載がありますが、ご本家(家老)から小諸に使わされたことが書かれていますが、自分が槇内蔵介の当主であったとは、書かれていません。--鉄三郎 2008年2月11日 (月) 16:16 (UTC)[返信]

すると、やはり病気快癒した、槇勘左衛門が槇内蔵助として先法家の家督を継いだというわけですね。--故城一片之月 2008年2月11日 (月) 17:09 (UTC)[返信]

はいそのようですね。--鉄三郎 2008年2月13日 (水) 13:25 (UTC)[返信]


お気を付けて

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4月より海外赴任とのことで、ご丁寧の挨拶を頂き恐縮です。 しばらくはウィキペディアでお会いできないようで少し淋しくなりますね。 条件が整いましたらどうぞまた編集においで下さい。 長岡藩・真木(槇)氏等のことではいろいろ教えていただき改めて感謝申し上げます。 真木(槇)氏・長岡藩関係などのページについてお留守の間、何かあれば私のノートまで遠慮なくどうぞ。 まだ、少し日にちもありますれば。--故城一片之月 2008年3月16日 (日) 12:12 (UTC)[返信]

今晩は、故城一片之月です。真木(槇)氏関係の記事まとめに追い込みかけておられる所と察しております。 製鉄との関連性を盛り込まれておられるので興味深く感じております。また、真木(槇)氏についてひとつ面白い話題がありますがすでに赴任されたようですのでそれはまたの機会に。

さて、ウィキペディアにお戻りの際には次の御願いがありますので宜しく。 鉄三郎さんの真木(槇)氏関係投稿の主要な出典である、加藤誠一氏の著作についてはその書誌情報を掲載されることを強く希望致します。すなわち、出版社・発行年あるいは所蔵機関などです。他では目にできない非常に注目すべき内容が豊富ですので閲覧者のために書誌情報を添えていただきたいと切に願う次第です。また、某荒らし編集者は再三の無期限ブロックとなっていますが、復活すれば、その様な荒らし編集がまたあるかもしれませんが、典拠文献の情報を備えていただければ、お留守中に不測の事態が起きても対処し易いとおもいます。お身体大切に、それでは。--故城一片之月 2008年3月31日 (月) 18:41 (UTC)[返信]

恐縮ですが、もう一度フォントを"Arial Unicode MS" にして送信しましたので、お手数ですが見ていただけますか? これで駄目ならウィキメール使用はあきらめなければなりません。--故城一片之月 2008年4月11日 (金) 14:51 (UTC)[返信]

会話ノートに英文はOKとのことですが、英文以外も文字化けしてないとのお知らせもあります。英文・和文の両方OKとの意味でしょうか?それなら