利用者:おいしい豚肉/sandbox/ベーオウルフ (架空の人物)

30人力の超人であるが、水泳をする場面も多く、トールキンはベーオウルフの最大の能力は泳ぎにあるとしている[1]

イェーアトはプトレマイオスの『地理案内』によれば二世紀にスカンジナビア半島の南部にいた。六世紀 プロコピウスの記すところによれば独立した人口多き民族。物語のイェーアトはこのプロコピウスが記す時代 厨川183-184 エッジセーオウがデネを選んだのはフロースガールの妻ウェアルフセーオウの血筋故か 厨川172 ヘオロットはシェラン島ロスキレの南西レイレ英語版にあったと考えられる。(厨川206) 海賊時代以前の北欧の命名習慣に反し、母方の家系とも父親のエッジセーオウとも頭韻を踏まない名を持つベーオウルフは歴史上の人物ではない

『熊の子の説話』のなかで最も『ベーオウルフ』と類似しているもののひとつが『グレッティルのサガ』の『サンドハウガルの挿話』(64-66章)である(厨川220-221)。

渡部によれば英文学の歴史を詩の技術史から区分した場合、頭韻の『ベオウルフ』、押韻歩格チョーサースプラング・リズムホプキンスの三時代に大別することが出来る(物語英文学史43)


生い立ち [編集]

ヘレベアルド
ハスキュン
エオヴァル
先妻
フレーゼル
ヒイェラーク
ヘアルドレード
ヒュイド
ベーオウルフ
エッジセーオウ

叙事詩の主人公ベーオウルフと所縁の深いイェーアト英語版国は、同じく叙事詩『ベーオウルフ』に登場するデネやスウェーオンと言った他の諸国家と比較すると歴史上の国家との対応がさほど明確ではなく、かつては完全な架空の国と解釈されていた時代もあった。しかし#フリジア遠征失敗とヒイェラークの死の節で詳細を後述するが、グルントヴィの指摘によってイェーアトも他の国家と同様に歴史上の国家を指すと捉えられるようになり、現在ではガウタル(Gautar)を指すとみなす説が主流となっている。[2]。ガウタルはプトレマイオスによればスカンジナビア半島南部を支配しており、またプロコピオスの記録によると『ベーオウルフ』の時代背景である6世紀では「独立した人口の多い民族」であった(厨川183-184)。

ベーオウルフの母親はこのイェーアトのフレーゼル王の一人娘であり、父親はベーオウルフの言によれば「高名な戦士」であるエッジセーオウである。海賊時代以前の北欧には、子供の名は親の名と頭韻を踏むという命名習慣があったが、ベーオウルフの名は父親のエッジセーオウとも母方のイェーアト王家の人々とも頭韻を踏んでいない。したがって、ベーオウルフその人は歴史上の存在ではなく、作者によって創作された人物であると考えられる(厨川217)。

父親エッジセーオウは、ウュルヴィング英語版氏族のヘアゾラーフを殺害し、その賠償金を支払うことができなかった。ウュルヴィング氏族との抗争を嫌ったイェーアトから追放されたエッジセーオウは海を越えデネに渡る。デネの王フロースガールはエッジセーオウのために賠償金をウュルヴィング氏族に支払ってこの問題を解決し、エッジセーオウは王に忠誠を誓った。エッジセーオウが何故わざわざ海を越えデネのフロースガールを頼ったのか、その理由は写本からは明らかではない。しかし別の古英語の詩『ウィードシース』と照合すると、フロースガールの妻ウェアルフセーオウはウュルヴィング氏族の支配者層の出であったとの推定も可能であり、これが正しければ同氏族との調停役としてフロースガールは適任であったと言えよう(厨川172)。

王女とエッジセーオウの間にベーオウルフがいつ生まれたのかは明らかではない。エッジセーオウの追放以前にすでに誕生しており父親に連れられてデネに渡ったとも、デネで誕生したと考える事もできよう。どちらにしても、ベーオウルフが幼年期をデネで過ごしこの期間フロースガール王と顔を合わせていたことは確かである。7歳になるとベーオウルフは祖父フレーゼル王に引き取られ、イェーアトで暮らすことになった(2428行-)。

ベーオウルフの帰還後、イェーアト王家には不幸が度重なる。フレーゼルの長男ヘレベアルドが狩りの最中ハスキュンの誤射により落命し、フレーゼルは息子を失った無念の中この世を去る。王位を継いだハスキュンはスウェーオンとの戦で戦死し、最終的にはヘレベアルドとハスキュンの弟であるヒイェラークが王位に就いた。この時期のベーオウルフは、当人の言によればフレーゼル王に彼の息子であるヒイェラークらと同等の扱いを受けており(2433行-)、巨人や海の怪物の退治を経験していた(419行-)。一方でベーオウルフは武勇に劣り愚鈍で柔弱な人物とみなされ、宴の席においても軽んじられていた(2183行-)。またグレンデルの退治についても、ベーオウルフの言によれば彼の武勇を知るデネ人々から説得された(415行-)とのことなのだがベーオウルフの身を案じたヒイェラーク王は彼の遠征に反対していた(1992-)とやや矛盾がみられる[3]

デネでのグレンデル退治 [編集]

レイレの位置(デンマーク内)
レイレ
レイレ
ヘオロットが建てられた地と推定されるレイレ


恩返しともゲルマン人の武者修行の慣習ともとれる(古英語詩を読む112)

報酬は最終的には一頭の馬と二つの腕輪しか残らない計算になる(古英語詩を読む122-123)

部下であるホンドシーオーホが迎える死に対し、寝たふりをしているはずのベーオウルフは実に消極的である。トールキンはこれは原型となった民話の名残ではないかとする。(トールキン263)

北欧の伝承において巨人と手袋は定番の組み合わせである。エッダの『ギュルヴィたぶらかし』44章ではトールと仲間たちは大きな屋敷に宿泊するが、翌日トールはその「屋敷」が実はスクリューミルの手袋であった事を知る(トールキン397)。

フリジア遠征失敗とヒイェラークの死[編集]

ベーオウルフの叔父であるイェーアト王ヒイェラークはフリジアへの遠征を実施するが撃退され、ヒイェラークは討ち死にしベーオウルフはイェーアトへと敗走する。この遠征については叙事詩の四か所において[4]その概要が散発的に語られるのみで、情報量に乏しい。ともかくこれらを総合すると以下の通りとなる。

ヒイェラーク王は心の傲りの故に、海を越えてフリジアへと侵攻する。ヒイェラークはヘットワルドイツ語版族の襲撃を受ける。ヒイェラークは敵に切り殺され、彼の亡骸[注 1]や彼が遠征に持ち込んでいた財宝はフリジア人の手に落ちる。遠征に同行していたベーオウルフは、(おそらくはヒイェラークを殺害した人物である)デイフレヴンを素手で[注 2]握り殺してその剣を鹵獲する。ベーオウルフはヘットワル族の兵士たちの多くを倒した後に戦場を脱出し、一人海を泳ぎ帰還する。ヒイェラークの死の報せを受けた女王ヒュイドは王子ヘアルドレードでは外国の脅威から国を守り切る事は覚束ないと判断し、ヒイェラークの甥であるベーオウルフに戴冠を要請するが、ベーオウルフはこれを固辞してヘアルドレードの相談役となる。

トールキンはこの遠征について以下のような推定をしている。攻撃的で野心の強いヒイェラークに率いられたこの時期のイェーアトは拡張主義的な対外政策を採っており、仇敵であったスウェーオンの支配領域はイェーアトに圧迫され減退していた。こうしてスカンジナビア半島情勢において後顧の憂いのない状況を作り上げたイェーアトはフリジア遠征へと挑んだのだが大敗し、王と戦力の多くを失う。これを好機と見たスウェーオンは勢いを盛り返し、次の節で触れる第二のイェーアト・スウェーオン間の戦争が勃発することとなる(p.249)。

歴史的背景 [編集]

フランス大年代記英語版』の写本の挿絵。ジャン・フーケによる。テウドベルトゥスらに殺されるクロキライクス(ヒイェラーク)の図。
レーク石碑

グルントヴィの指摘以来、 このヒイェラークのフリジア遠征はトゥールのグレゴリウスの『フランク史』にヴァイキングの略奪として記録されている史実を背景とした物語であると見なされている[4]。 ヒイェラークは『フランク史』では「デーン人の王クロキライクス」として記録されているが、ここでは「デーン人」に「ヴァイキング」以上の意味はなく、ヒイェラーク/クロキライクスが人種・民族としてのデーン人を支配していたとは限らないことに注意を要する[4][注 3]

こんなことがあった間、デーン人がクロキライクスという名の王の統率の下に船をくり出して海路ガリアを目指した。 彼らは上陸するとテウドリクス王領のとある村を荒らして略奪し、戦利品と捕虜を船に満載すると舵を故郷へ向けた。 彼らの船団が沖へ去った時、その王はまだ岸に留まっていた。彼は今からそのあとを追おうとしていた。 テウドリクス王のもとに、自領が外国勢に強奪された知らせが届いた時、 王は軍装の良い精強な部隊を率いた息子のテウドベルトゥスを同地方に派遣した。 彼は敵王を殺し、その船団を海上で撃破して略奪物をすべて取り戻した。[6]

ヒイェラークのフリジア遠征は520年前後と位置付けられることが多いが、この年代はレーク石碑英語版に刻まれたルーン文字の碑文から推測されたものである。テウデリク1世は『フランク史』に記録された略奪の意趣返しにスカンジナビア半島のイェータランドへと遠征したと考えられており、碑文はこのテウデリク1世の遠征が9世代前の出来事であったと記録している。碑文は835年前後に刻まれた物であり、1世代を35年に相当すると仮定するとテウデリク1世の遠征は835-35×9=520年と推定できる。言うまでもなくこの数値は概算の域を出ない。[5]

スウェーオンの内乱とヘアルドレードの死[編集]

読者・聴衆がこの戦いの詳細を知っていることを前提に引喩されているため物語の詳細が分からない 北欧の伝承から補う必要がある(厨川174)


ベーオウルフの少年時代に起きたイェーアトとスウェーオンの戦争で当時のスウェーオン王オンゲンセーオウは戦死した。この節で触れる第二のイェーアト・スウェーオン間の戦争の時点ではオンゲンセーオウの子の一人、オネラがスウェーオン王の座にあった。オネラの甥であるエーアドムンドとエーアドイルスの兄弟はこれを不服として反乱を起こすのだが鎮圧され、かつて祖父オンゲンセーオウを殺した敵国であるイェーアトへと亡命してくる。前節で触れた通りこの時のイェーアトはヘアルドレードが治めており、ベーオウルフは彼の相談役を勤めていた。

この状況説明は叙事詩の聞き手が背景となる知識を既に有していることを前提に断片的になされるため、現代人がこれを読み解くには北欧の伝承を併せ読み情報を補う必要がある。実はオンゲンセーオウの死後、一旦エーアドムンドらの父親でありオネラの兄であるオーホトヘレが王位を継承していたが、オーホトヘレの死後オネラが王位を継いでしまった。エーアドムンドらから見ればオネラこそが簒奪者という事になる。


注釈 [編集]

  1. ^ ヒイェラークの遺体については『怪物の書』にも記述がある。この書には、巨体の怪物であるイェーアト王ヒイェラークはフランク人に殺害されてその遺骨はライン川の河口の島に安置され、遠路はるばる見物に訪れる旅人たちの驚嘆の的となった旨が記されている[4]
  2. ^ この時ベーオウルフは後のネァイリングのように怪力故に自身の武器を失っていた可能性にトールキンは触れている。p.267
  3. ^ モルドンの戦い英語版』にも同様の用法が見られる[5]

参考文献 [編集]

  1. ^ 『トールキンのベーオウルフ物語』 p.268
  2. ^ 岩谷道夫『古期英語詩「ベーオウルフ」のGeatas』[1]
  3. ^ この矛盾について苅部は「それぞれの立場と気持ち違いが表れていてそこがむしろ面白い」と高く評価している(苅部278)
  4. ^ a b c d 厨川文夫 『ベーオウルフ』岩波文庫 1941 pp.195,218
  5. ^ a b 吉見昭徳 『古英語詩を読む ルーン詩からベーオウルフへ』 2008 春風社 p.80,104,219
  6. ^ 杉本正俊 『フランク史 10巻の歴史』 新評論 2007 pp.108-109