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利用者:けんぎょう/sandbox

清拙正澄

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清拙正澄(せいせつしょうちょう 咸淳10年(1274)- 暦応2年(1339)1月17日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代臨済宗の渡来僧。

 中国(福州に生まれ、鎌倉時代末期に来日。北条氏の庇護を受け、南禅寺建長寺ほか五山派寺院の住持を歴任した。大鑑派の祖。は大鑑禅師。 

略歴[1][2]

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 咸淳10年(1274)福州の連江に生まれる。俗姓は劉氏。月江正印は俗兄にあたる。

 15歳のとき福州報恩寺で出家し、開元寺で受戒、平楚□聳に師事。23歳で福州を離れ杭州浄慈寺の愚極智慧に師事、27歳のとき愚極が亡くなると方山文寶に従い、そこで15年ほど過ごした。その間霊隠寺阿育王山、蒋山等を訪ね古林清茂らと交わった。のち聖因寺、真浄寺に入山した。

 泰定3(嘉暦元)年(1326)6月、日本からの使者月山友桂らとともに来日。同年8月に博多に到着した。嘉暦2年(1327)正月に京都入りしたのちに鎌倉へ移り、建長寺に入山した。鎌倉在住中に浄智寺円覚寺の住持を歴任した。元弘3年(1333)に再び上洛し、建仁寺住持に着任、引き続いて勅命により南禅寺住持に就任した。 暦応2年(1339)1月17日に66歳で入寂した。

 唐僧百丈懐海の忌日である正月17日に営む「百丈忌」の法要を日本で初めて励行した。清拙を派祖とする一派は大鑑派と称され、天境霊致や霊希世彦、黙庵霊淵といった漢詩や水墨画を能くした名僧を輩出した[3]。著作に「大鑑清規」「大鑑小清規」「禅居集」、語録二巻がある。  

清規の重視

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 清規(禅宗寺院において僧が則るべき規範・儀式)の実践を励行した清拙は、「大鑑清規」を定めた。「大鑑清規」は、禅宗寺院における仏事の詳細から僧たちの日常生活における規律などを日本の実情にあわせてまとめたもの。 また喫茶儀礼に関する記述が多くあり、禅刹における喫茶の諸形態を知ることのできる資料としても注目されている[4]

大鑑派の派祖

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 『五山禅林宗派図』に記される清拙の法嗣は33名いる。この一派は大鑑派と称され、のちに天境霊致にはじまる南禅寺聴松院と、建仁寺禅居庵という二つの拠点が形成された。このほか日本国内で清拙にゆかりある禅刹として、建長寺と博多聖福寺の禅居庵、能登安国寺、山城興聖寺、相模成願寺、そして信濃開善寺がある。このうち聖福寺禅居庵、安国寺、興聖寺は廃寺となった。

エピソード

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臨終に際して[5] 

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 前年の暮れに死期を悟った清拙は南禅寺住持を辞し、退去先の建仁寺禅居庵で最期を迎えた。清拙は禅林において百丈懐海の命日に営む仏事「百丈忌」を設けたが、正月十七日は奇しくも百丈の命日であった。伝えるところでは清拙は最期の日を迎えてもいつもと変わらぬ様子であったが、土岐頼貞親子らに永訣の意を表し形見と遺偈を与えたのち、侍者に末期の句を会すと述べ、絶句する侍者をよそに「今日は百丈和尚の命日なり、吾将に行かん」と大笑、そして集まった弟子たちに説法したのちこの遺偈を書し、筆をなげうって示寂したという。

 遺偈は「棺(龕)割の墨跡」の名で世に知られる。これは臨終に間に合わなかった弟子のために清拙が棺を割って眼を開き法を授けて再び眼を閉じたという釈迦涅槃の説話のごとき伝説にちなむ。現在は常盤山文庫(神奈川県鎌倉市)の所蔵に帰している。

摩利支天信仰[6]

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摩利支天は陽光や陽炎を神格化した仏法の守護神である。清拙自身に摩利支天への信仰があったのかは定かでないが、建仁寺禅居庵や南禅寺聴松院など大鑑派の拠点となった寺院には、鎮守として摩利支天像が安置され、清拙と摩利支天とのゆかりを伝える縁起が伝わる。

脚注

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  1. ^ 「大鑑禅師塔銘」
  2. ^ 玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(新装版 思文閣出版、2003年)
  3. ^ 香山里絵「清拙正澄周辺の絵画活動-初期禅宗水墨画の一様相-」(河合正朝教授還暦記念論文集『日本美術の空間と形式』河合正朝教授還暦記念論文集、2003年)
  4. ^ 祢津宗伸「中世信濃の喫茶-開善寺文書、守矢文書、定勝寺文書、盞、湯瓶および瓦質風炉による考察」(『中世地域社会と仏教文化』法藏館、2009年)所収
  5. ^ 「大鑑禅師塔銘」、「大鑑小清規」
  6. ^ 織田顕行「清拙正澄ゆかりの摩利支天像をめぐって」西山美香編『古代中世日本の内なる「禅」』(アジア遊学142、勉誠出版、2011年)

参考文献

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  1. 『大鑑禅師語録』(東京大学史料編纂所本、web版)
  2. 『禅居集付録』(東京大学史料編纂所本、web版)
  3. 田山方南『禅林墨跡』(禅林墨跡刊行会、1955年)
  4. 『信濃史料』(第5巻、信濃史料刊行会編、1963年)
  5. 玉村竹二「臨済宗大鑑派について」『日本禅宗史論集』(二之下、思文閣出版、1981年)
  6. 西尾賢隆「日元における清拙正澄の事績」(『日本歴史』第430号、1984年。西尾賢隆『中世の日中交流と禅宗』吉川弘文館、1999年に再録)
  7. 小野勝年「一渡来僧の生涯―清拙正澄のこと―」(『東洋藝林論叢 中田勇次郎先生頌寿記念論集』平凡社、1985年
  8. 玉村竹二『五山禅林宗派図』(思文閣出版、1985年)
  9. 尾崎正善「大鑑広清規について-『大鑑広清規』の紹介を中心に-」『宗学研究』第37号、1995年)
  10. 尾崎正善「翻刻・聴松院蔵『大鑑清規』」(『鶴見大学仏教文化研究所紀要』第5号、2000年)
  11. 香山里絵「清拙正澄周辺の絵画活動-初期禅宗水墨画の一様相-」(河合正朝教授還暦記念論文集『日本美術の空間と形式』河合正朝教授還暦記念論文集、2003年)
  12. 『中世信濃の名僧-知られざる禅僧たちの営みと造形-』(飯田市美術博物館、2005年)
  13. 祢津宗伸『中世地域社会と仏教文化』法藏館、2009年
  14. 織田顕行「清拙正澄ゆかりの摩利支天像をめぐって」西山美香編『古代中世日本の内なる「禅」』(アジア遊学142、勉誠出版、2011年)