利用者:つちのとい/sandbox
表示
ここはつちのといさんの利用者サンドボックスです。編集を試したり下書きを置いておいたりするための場所であり、百科事典の記事ではありません。ただし、公開の場ですので、許諾されていない文章の転載はご遠慮ください。
登録利用者は自分用の利用者サンドボックスを作成できます(サンドボックスを作成する、解説)。 その他のサンドボックス: 共用サンドボックス | モジュールサンドボックス 記事がある程度できあがったら、編集方針を確認して、新規ページを作成しましょう。 |
了祥 | |
---|---|
1788年 - 1842年 天明8 - 天保13年4月8日 | |
院号 | 妙音院 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 真宗大谷派 |
寺院 | 満徳寺 |
師 | 義陶、慧琳、深励 |
著作 | 『歎異抄聞記』など |
了祥(りょうしょう、1788年(天明8年) - 1842年4月8日(天保13年))は、江戸時代の浄土真宗の僧。院号の妙音院を加えて、妙音院了祥(みょうおんいんりょうしょう)と称される。真宗大谷派に属する。号に亀水、鳳洲、管水などがある。特に『歎異抄』の撰者を唯円と特定したことで著名である。
概要
[編集]1788年、三河の満徳寺に義陶の三男として生まれる。父の義陶の薫陶も受けたようだが、高倉学寮の第3代講師の慧琳、第5代の深励にも師事した。特に深励は、『垂天結社簿』 に挙げられている点から裏付けられる。高倉学寮では寮司も務めた。
1822年、叔父の了実を継いで、満徳寺の住職となる。
豊富な著作で知られており、特に深励の三文一理を批判した『歎異抄聞記』は有名である。ただし、『歎異抄』の講義は都度4度に及び、同名の著作も複数ある。
了祥の評価が高まるのは没後になってからで、少なくとも『歎異抄聞記』が平松理英によって公刊されるのを待たなくてはならない。
著書
[編集]- 『歎異抄聞記』