利用者:なぎはな/sandbox
野田焼
野田焼は江戸時代 寛政9年(1797年)から明治43年(1910年)に、兵庫県たつの市揖保川町野田字宮ノ前で
当時の龍野藩 10代 脇坂安菫氏によって開窯された連房式登窯で焼かれた陶磁器である。
この連房式登窯は現在も残ており、たつの市の重要文化財になっている。
野田焼は灰釉に鉄絵で松葉や草花を小筆で伸びやかにワンポイントで描いた徳利、
鉄釉に白釉を一部に流しかけした花器や蓋付きの味噌壷、
イッチンで菊などを描いた花器、
白化粧を施した鉢に魚や蝶や高瀬舟などを描き、鉢の縁に呉須で斜め線を伸びやかに描いた鉢や、
持ち主の名前や村の名前を鉄で書いた徳利やこね鉢や土瓶、
そのほかにもうるか壷、灯明具、仏壇用花入などが残っているが、
陶印はない。
野田焼の記録は文政年間(1818~1830)に林田屋平兵衛が記した 『都聞記』、
龍野藩 儒学者 股野玉川の日記 『幽蘭堂年譜』、
龍野藩の豪農 永富家当主 六兵衛定群・宗定・敏夫の三代にわたって書き継がれた日記『高関堂日記』,
定群の父定政が記した『台所小日記』など野田焼に関する記録が残っている。
また、「明治23年(1890年)2月9日付 半田野田村建物登記第7号」と書かれた資料に
野田焼窯場の図面が描かれている。
明治4年(1871年)廃藩置県以後、野田焼窯の所有者が龍野藩から野田の嶋津林兵衛に払い下げられ
民間経営になった。
その後、明治27年(1894年)窯を永富兵五郎に譲り、兵五郎は新宮焼の陶工 井戸伝吉に窯場を貸し与え制作させた。
伝吉は絵付けの才に優れ、各地の窯場に招かれた。
伝吉の子 玉治が跡を継いだが、経営不振から明治43年(1910年)野田焼窯は閉窯した。
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