利用者:のりまき/共楽館のおはなし
共楽館とは
[編集]共楽館とは1917年に建造された元日立鉱山の劇場で、1967年に日立市に寄贈され、翌1968年から現在まで日立武道館として使用されている建物です。 記事を執筆することになった経緯ですが、2017年5月29日に行われた、日本科学史学会第63回シンポジウム報告「ウィキペディアと科学史」で、日立鉱山のウィキペディア記事に関して発表することになったため、日立鉱山のことを改めて勉強し直す意味を込めて、日立鉱山の劇場である共楽館を執筆してみようと思い立ちました。ちなみに同様の経緯で立項した記事が日立鉱山の大煙突です。
現地に行けば感じると思いますが、共楽館は和風の赤く大きな屋根が目立つ建物です。初めて見る多くの人はきっと「いったい何の建物だろう?」との疑問を持つと思います。正解はもともとは劇場、現在は武道館なのですが……ずいぶんと大きな劇場なわけです。定員は980名でしたが、詰め込むだけ詰め込んだら4000名が入場できたとの記録があるくらいです。
主執筆者からみた記事のポイント
[編集]主執筆者として共楽館の記事でポイントとなるのが、以下の3点です。まずかつて鉱山の劇場として建てられた建造物の中で、用途の如何を問わず現役で使用されているのは共楽館を含め日本で3か所しか無く、鉱山劇場のあり方を遺す貴重な遺産であるということです。 共楽館が建てられた1917年は第一次世界大戦中の好景気下にありました。日立鉱山も大戦景気の中、多くの利益を挙げていました。好景気という機会を捉え、鉱山で働く人々やその家族のための福利厚生施設として劇場を建設することにしたわけです。設計に当たり東京の歌舞伎座、帝国劇場をモデルとしたとされ、歌舞伎の上演を念頭に置きながら、映画、各種の集会、相撲の巡業会場など多目的の使用が可能で、しかも当時としては充実した設備が備え付けられました。
第2の点は、取り壊されることなく残され、築100年を超えた現在でも現役である理由は、優れた建物であるからです。戦前はほぼ建築当初の目的に従って使用されてきたのですが、戦後になると歌舞伎の上演は廃れ、映画全盛期であったこともあってほぼ映画館としての使用に特化したものの、鉱業の斜陽化、そしてなんと言ってもテレビの普及によって1960年代半ばになると映画館としての使命も終えてしまいます。全国各地の鉱山劇場もほぼ共楽館と同様の運命を辿り、映画館としての使命を終えた後、順次取り壊されていきます。しかし共楽館は新たな役割を担うことになったため、生き残ることが出来たわけです。そして日立市が耐震面での課題が指摘された後、東日本大震災前に耐震補強を行ったのは、優れた文化遺産であることに加えて武道館としても利用価値を認めたからに他なりません。
第2の点で付け加える点として、日立空襲時に焼夷弾の直撃を受けながら不発弾であったこと、日立武道館として生き残ることが出来たこと、そして東日本大震災直前に耐震補強工事が終わっていたことから、共楽館はとても“ツイている”建物と言えます。私はこのツキは共楽館自体が呼び込んでいる気がしてなりません(笑)。
第3点としては、共楽館は劇場としての復活を求める声があり、その在り方について議論が続いているという点です。鉱山劇場として建設され、劇場としての使用がいったん中断した後に復活して現在に至る小坂鉱山の康楽館のように、共楽館も劇場として“復活”させたいというわけです。ただ改修費用面等の課題があり、実現する目途は立っていません。
私は可能ならば記事を書く際に現地取材を行い、現地の様子を実見して写真を撮るとともに地元図書館に行って資料探しを行います。共楽館執筆に際しても現地取材と地元の図書館での資料探しを行いました。また原宿のファッション史でも行ったのですが、記事のイメージ作りの一環として体験談を聞くこともあります。実は共楽館の記事を書くに当たり、日立出身の知人に共楽館のことを聞いてみました。すると学生時代、日立武道館で剣道の稽古に励んだことを教えてくださいました。実際問題、劇場、そして映画館として使用された時代よりも武道館の時代の方が長くなっています。もはや共楽館は武道館としての歴史無しには語り得ないのです。
参考文献
[編集]最後に記事の参考文献について触れたいと思います、参考文献の多くは日立鉱山の加筆時の使用したものを使いました。中でも日立鉱山関連記事の執筆では1952年に刊行された『日立鉱山史』は必読文献です。またNPO法人「共楽館を考える集い」による『史料集共楽館 地域と共に歩んだ五十年』、『共楽館をみつめて十年』もよく使わせていただきました。
舞台芸術関連の記述については、徳永高志『芝居小屋の二十世紀』雄山閣、1999年が大変に優れた著作で、とても参考になりました。