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利用者:のりまき/第五作業室

友子(ともこ)とは、日本の鉱山で働く鉱夫たちの間で、相互扶助や技術職であった鉱夫の養成などを目的に結成された、基本的に鉱山経営者から独立した組織である。友子は江戸時代後半の18世紀後半頃に誕生し、明治時代に隆盛を迎え、大正時代後半以降、鉱山内の機械化の進展と労働組合の結成などでその歴史的役割を終えたが、一部の鉱山や炭鉱では戦後まで残り、日立鉱山石狩炭田の登川炭坑では昭和40年代まで存続した。

友子とは

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友子は日本の鉱山で採鉱に従事する鉱夫たちの中で発達した組織である。江戸時代から鉱山での機械化が標準となる昭和初期に至るまで、鉱山では主に手掘りによって採鉱が行なわれてきた。手掘りによる採鉱には鉱山や鉱脈に関する知識と経験、そして技術が必要であり、また手掘りの時代は鉱脈を深く掘り進める技術が不足しており、深部からの鉱石の運搬や湧水の処理が困難であったこともあって、一つの鉱脈の採鉱可能な寿命は短かかった。そのため鉱脈が掘り続けられなくなると鉱夫たちは別の場所への移動を余儀なくされた。また鉱夫にはじん肺や坑内の落盤などによる怪我などの危険がつきものであった。このような知識や経験、技術が必要とされる職場でありながら、長期間安定した雇用先の確保が難しい上に危険が伴うという鉱山労働の特殊性が、知識や経験、技術の伝承、鉱夫間の相互扶助、そして鉱山間の移動をスムーズに行なえるようにすることを目的として、友子と呼ばれる鉱夫間の組織が生まれることになった。

友子には徒弟制度の一種と考えられる「取立」という制度があって、知識や経験、技術の伝承が図られた。また傷病者や衰えによって鉱山で働くことが困難となった鉱夫に対する相互扶助を実施した。また友子には同一鉱山内の「山中交際」とともに、他鉱山の友子組織との「箱元交際」があって、組織同士の付き合いとともに、鉱山間を移動する鉱夫たちに対する支援を行なった。

友子の誕生

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友子は江戸時代に誕生したと考えられている。江戸時代の中でいつ頃から友子が存在したかについてははっきりしていないが、19世紀前半には資料からその存在が確認できるため、18世紀後半に成立を見たとの説が有力である[1]

江戸時代、日本の各地で盛んに鉱山が開発された。しかし当時の採掘技術は未熟な面が多く、採掘場所が深くなると湧水の処理や鉱石の運搬などがネックとなって採掘の継続が難しくなり、有用な鉱石を残しながら採掘を放棄せねばならなかった。また新たな鉱山の開発や鉱石の採掘には鉱山についての専門的な知識が必要で、鉱山について精通した熟練鉱夫が各地で求められることになった[2]

江戸時代における鉱山の採掘技術の未熟さは、必然的に鉱山の寿命が短くなることに繋がった。そのため鉱山で働く労働者の必要人員が短期間で大きく変動する要因となった。また鉱山の寿命が短いことは常に新規の鉱山開発の必要性があることに繋がり、鉱山の開発や採掘には熟練した鉱夫が不可欠であった事実とともに、江戸時代、基本的に一ヵ所に縛られた生活を余儀なくされていた農民とは異なり、鉱夫にはある程度移動の自由が認められる労働市場が形成されていた。比較的自由な移動が認められている鉱夫という立場は、鉱夫間の同職組織としての友子が誕生するきっかけとなった[3]

江戸時代の鉱山経営にはある程度移動の自由が認めらた鉱夫の存在が不可欠であったということは、逆にいえば鉱山には出自が明らかではない労働者が多く集まってくることが予想される。事実江戸時代前期には鉱山にかくれキリシタンが多く潜伏していたこともあり、キリシタンの存在を認めない江戸幕府としては鉱夫たちの間に結成された自主的な組織を公認することは困難だったと考えられる。しかし鉱夫間の自主的な組織を上手く扱えば鉱山経営に不可欠な熟練労働者の確保に役立つとともに、鉱夫たちの統制に利用することも可能であり、18世紀には商業資本が関与した銅山の開発が全国各地で進められ、鉱夫の必要性が高まる中、友子の存在を黙認するようになったと見られている。しかしあくまで鉱夫たちの間の自主組織の形成を認めない当局にとって友子の存在は「黙認」であり、鉱山で働く職人組織であった友子内では文章による情報のやりとりを行なう意識が希薄であったこともあり、江戸時代の友子の残存資料は断片的なものがほとんどである[4]

江戸時代における友子の存在については、尾去沢鉱山吹矢鉱山などに文書による記録が残っているとともに、細倉鉱山草倉鉱山周辺の寺院には、友子の習慣であった親分や同僚のために建立した「友子の墓」が確認されている。特に新潟県の草倉鉱山付近の寺院からは、18世紀末の寛政期に建立された友子の墓が確認されており、友子が18世紀末には存在していたことを示している[5]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 村串(1989)pp.59-61、村上(1996)p.141
  2. ^ 村上(1996)pp.138-143
  3. ^ 村串(1989)pp.53-59、村上(1996)pp.138-143
  4. ^ 村串(1989)pp.61-67、村上(1996)p.141
  5. ^ 村串(1998)pp.20-35

参考文献

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  • 村串仁三郎、1989、『日本の伝統的労使関係』世界書院
  • 国立科学博物館、1996、『日本の鉱山文化』国立科学博物館
    • 村上安正「江戸時代の鉱山開発」
  • 村串仁三郎、1998、『日本の鉱夫』世界書院、ISBN 4-7927-8101-9
  • 村串仁三郎、2006、『大正昭和期の鉱夫同職組合「友子」制度』時潮社、ISBN 4-7888-0603-7