利用者:のりまき/第十作業室
田老の津波対策(たろうのつなみたいさく)では、これまで津波によって大きな被害を受けてきた、岩手県宮古市田老地区における津波対策について説明する。
江戸時代における田老の津波被害
[編集]田老は1896年(明治29年)の明治三陸地震による大津波で古記録が流失した上に、昔の出来事を知る古老も津波の犠牲になったため、江戸時代以前についてはよくわかっていない点が多い[1]。しかし1611年(慶長16年)の慶長三陸地震による津波で田老地区の平坦部が全滅したとの記録があり[2]、慶長三陸地震時に田老を襲った津波の波高については、羽鳥徳太郎は15メートルから20メートル、都司嘉宣、上田和枝は21メートルと推定している[3]。また羽鳥は慶長三陸地震の津波波高について、田老は現山田町の石鳥谷と並んで高かったことを指摘しており[4]、津波研究家の山下文男は、慶長三陸地震の津波の推定波高が、田老に壊滅的な被害をもたらした明治三陸地震の津波よりも高いことに注目している[5]。
慶長三陸地震以後、江戸時代の田老は1677年(延宝5年)の三陸沖地震による津波で田老港に被害があったとされており、羽鳥徳太郎はこの時の田老の津波波高は2-3メートルと推定している[6]。続いて1856年(安政3年)の安政八戸沖地震時に田老に押し寄せた津波は、羽鳥徳太郎は4メートル、都司嘉宣、上田和枝は3.8メートルと推定している[7]。
田老に壊滅的な被害を与えた明治三陸地震による津波
[編集]1889年(明治22年)4月に田老村、乙部村、末前村、摂待村の四村が合併して田老村が誕生した[8]。現在の田老地区に当たる田老、乙部の住民は主に漁業で生計を立てており、三陸沿岸の中でも屈指の豊かな村であり、資産家も少なくなかったという[9]。
1896年(明治29年)6月15日、この日は旧暦で5月5日の端午の節句に当たり、当時まだ旧暦で祭事を行うことが多かった三陸地方では各地でお祝い事がされていた。しかし午後3時頃から雨が激しく降り始め、夜になっても雨は降り止まなかった[10]。
午後7時半頃、一、二度地震があった。地震は決して強いものではなく、揺れに気づかない者もいたくらいであった。ただいつもの地震よりも揺れが長く続いた。そして午後8時12分頃、北東の方角から空砲のような音が3回鳴り響いたかと思うと、すさまじい津波が田老を襲った[11]。
津波の大きさと被害
[編集]田老に押し寄せた明治三陸地震による津波の波高は、松尾春夫資料「三陸津浪調査報告」では14.6メートル、岩手県土木課の「震浪災害土木誌報告」では13.6メートル、今村文彦、渡邊智洋による1990年の調査報告では12.85メートル以上としている。これらの数値は測定場所が不確かであったり、また少なくともこれらの標高の場所を越えたという数値であると考えられ、つまり実際にはそれ以上の波高があったことが想定される[12]。
津波によって田老は壊滅的な被害を被った。明治三陸地震による津波被害については、岩手県内の沿岸部全域に及んだ甚大な津波被害による混乱のため、岩手県が集計した公的記録においても被害集計が十分にできなかったと考えられている。津波研究家の山下文男は、1896年(明治29年)7月10日の山奈宗真による「三陸大海嘯岩手県沿岸被害調査票」の数値が最も信頼性が高いと分析している[13]。
「三陸大海嘯岩手県沿岸被害調査票」による田老村の津波死者は1867名[14]。田老村、乙部村、末前村、摂待村の四村が合併してできた田老村のうち、山あいの旧末前村を除く旧田老、乙部、摂待地域はいずれも甚大な津波の被害を被った。「三陸大海嘯岩手県沿岸被害調査票」以外の統計でも田老村の死者は1859名に及んだとされており、明治三陸地震の津波によって、田老は1800名以上の死者を出すという惨憺たる被害を被った[15]。当時、田老村の津波被害は「三陸全沿岸のうちでもその被害の大きさにおいて、田老村の右に出るものはないであろうと思われる」と報道された[16]。
当時の田老村の人口は約3600-3700名とされており、1800名を越す死者ということは村の人口の約半数を一気に失ったことに相当する[17]。田老村の村長はたまたま赤十字社の総会に出席のため村に居らず無事であったが、助役、収入役は死亡し、村議会議員のも8名中6名が死亡、村の二名の巡査も死亡、また田老を代表する豪商であった鳥居伝右衛門も一家一族ごと津波にさらわれ、絶家となってしまった[18]。
明治三陸地震津波からの復興
[編集]復興への困難な道のり
[編集]田老村は明治三陸地震津波によって人口の約半数を一気に失った上に、村政を担っていた助役や収入役、そして村の有力者らも津波の犠牲となった。津波によって村役場、小学校、郵便局などは建物が流失しており、また津波を生き延びた人々の多くは重傷を負い、非常に厳しい中での復興開始となった。復興の中心となったのは津波の翌日に村長代理となった扇田英吉であった。先述のように当時の田老村の村長は津波襲来時には村外にいて無事であったが、なぜか村長代理が復興を指揮することになった。なお村長代理となった扇田英吉はいったん津波にさらわたものの九死に一生を得たが、英吉以外の一家全員を津波で無くしており、また本人自身も重傷を負いながらの村長代理就任と復興の指揮であった[19]。
田老では復興にあたり生存者に活力をもたらすため、まず老若問わず男女を結婚させたとの話が伝わっている[20]。村政を担う役場の職員は津波後に新たに雇用せねばならなかったが、慣れない新人の職員による事務はどうしても滞り、復興への障害となった。甚大な津波被害は人的被害ばかりではなく田老の基幹産業である漁業にも深刻なダメージを与えていた。津波によってほとんどの漁船や漁具も流失してしまっていたのである。しかし復興にあたり恵まれたこともあった。1896年(明治29年)の夏は暑い夏であり、当面不十分な仮小屋でも何とか生活ができた。また多くの漁船や漁具を失っていたためなかなか満足には漁に出られなかったものの、この年のイカやカツオは豊漁続きであり継続した現金収入も入るようになって、義援金を漁船の新造など生活再建に充てことも可能となった。やがて漁船の新造も進み、大津波の被災直後は気力を失っていた田老の人々にも活気が戻ってきた[21]。
断念された津波対策
[編集]田老には活気が戻ってきたが津波対策は上手く進まなかった。扇田村長代理は船越村(現山田町)で集落移転を実行した吉田九平を田老に招請し、田老の集落の山ろくを2メートル弱土地をかさ上げし、津波の危険地域に住んでいた住民全体を移住させるという恒久的な津波対策を行おうとした。そこで田老では被災者への義援金の配分を行わず、義援金のうちまず3000円を投じて道路の整備を行った。津波によって多くの人命が失われた田老では、当初扇田村長代理の津波対策に多くの人が賛成し、実際、5、6軒の家が計画に従って高所へ移転した[22]。
しかし集落移動の計画は義援金だけでは到底工事費用を賄えそうもなかった。また津波被災者への援助を目的とした義援金を被災者に分配せずに津波対策に充当することの是非や、2メートル足らずのかさ上げが果たして効果的な津波対策となり得るのかといった計画への疑問が噴出するようになり、結局わずか50センチ弱の土地のかさ上げが行われた時点で津波対策工事は中断され、いったん高地へと移った5、6軒の家も一軒を残して退去することになり、結局は元の津波の危険地帯に集落が再建されることになってしまった[23]。ただし扇田村長代理は小学校だけは安全な高台での再建を譲らず、田老尋常高等小学校だけは山ろくを切り開いた高台に再建された[24]。
明治三陸地震津波の後、田老での集落移転が失敗に終わった原因について、山口弥一郎はまず田老ではあまりにも津波による犠牲者が多かったため、田老在住者の親類、縁者はもとより、これまで田老に縁がなかった人々も数多く呼び寄せた上での集落再建を行わざるを得ず、田老における津波体験者が数少なくなったため、結果として津波対策がおろそかになったことを挙げている。また復興を進めていく過程において、まずは利益を得ようとする動きの中で、何をさておいても復興を急ぐ拙速さも津波対策を行わないままでの復興に繋がったのではと推測している[25]。一方山下文男は大津波はそうしばしば襲ってくるものではないという油断や思い込みが、津波危険地帯に田老の集落が再建された最大の要因と分析している。しかし田老は明治三陸地震後わずか37年後の1933年(昭和8年)3月3日、再び昭和三陸地震による大津波に襲われ、田老は再び壊滅的な被害を被ることになった[26]。
再び田老に壊滅的な被害を与えた昭和三陸地震による津波
[編集]豊かな海の幸に恵まれた田老は明治三陸地震津波による壊滅的な被害から比較的早期に復興を果たし、再び賑わいを見せるようになった。しかし田老村、乙部村、末前村、摂待村が合併して成立した田老村では旧四村間の地域対立が長く尾を引き、村政の混乱も目だっていた。このような中で1925年(大正14年)3月、宮古町長や郡会議員を歴任した関口松太郎が町長として招聘された。関口は1927年(昭和2年)9月に普通選挙によって行われた岩手県議会議員選挙でも当選を果たす[27]。
1933年(昭和8年)3月3日の午前2時31分、昭和三陸地震が発生した。明治三陸地震の時とは異なり地震の揺れはかなり強く、三陸沿岸部の震度は4から5で、壁の亀裂や石垣の崩壊など地震の揺れによる比較的軽微な被害もあった。しかし今回も地震発生後約30分で三陸沿岸に大津波が襲来し、甚大な被害をもたらすことになった[28]。
津波の大きさと被害
[編集]田老を襲った昭和三陸地震津波は、最大遡上高約10メートルとの記録が残っている。これまで田老を襲った津波の波高については、測定場所や津波の波高についての定義が異なるため比較が困難であるが、昭和三陸地震津波は明治三陸地震津波の約四分の三の規模であったとの推定がなされており、明治の津波よりはやや小さかったと考えられている[29]。
昭和三陸地震津波による被害は明治三陸地震津波よりもかなり少なく済んだ。これはまず津波の波高が明治よりも低かったことが最大の要因と考えられている。また地震の揺れが明治の時よりも強かったため避難行動に結びつきやすかったこと、あと津波そのものの勢いも明治の津波よりも緩やかであったと見られること、そして37年前の津波の被災体験を生かして高台に避難した住民が多かったことが要因として挙げられている[30]。
しかし田老においては、他の三陸沿岸の集落の多くで行われた地震後の住民たちによる海面監視などは全く行われずに、逆に津波が来る前には井戸や川の水が引いて空っぽになるなどといった俗説がまことしやかに唱えられ、避難を行わなかった人たちが出てしまうといった事態が発生していた。これは明治三陸地震津波によって壊滅し、他の地域からの移住者によって集落の再建が行われた田老には、真の意味での津波の被災体験者が極めて少なかったことが影響したとも考えられる[31]。津波は田老村の田老地区、乙部地区を飲み込み、かつて扇田村長代理が中心となって高台に再建された小学校の校庭直下まで押し寄せた[32]。
昭和三陸地震津波による田老の被害は、死者・行方不明者は資料によれば889名(三陸津波に因る被害村町の復興計画報告書)、911名(田老町史津波編)、972名(岩手県昭和震災史)とされ、三陸沿岸の中でも最悪の被災地となった[33]。明治、昭和と津波によって壊滅した田老は「津波田老(太郎)」とも呼ばれるようになってしまった[34]。このように田老の津波被害が甚大となった理由としては、集落が低地にあったこと、防潮堤などの津波対策が皆無に等しく集落が津波の襲来をまともに受けたこと、そして集落から山手に向かう道路が少なく避難場所も限られており、その上集落から山手の避難場所への距離も遠くかつ道も険しく登りにくかったことが挙げられる[35]。
昭和三陸地震津波からの復興
[編集]復興の牽引車となった村長関口松太郎
[編集]高台移転の断念と現地復興の決断
[編集]防潮堤の建設開始
[編集]防潮林の建設、避難しやすい道路の整備など
[編集]第一防潮堤の改修、そして第二防潮堤、第三防潮堤の建設
[編集]津波対策の充実とその綻び
[編集]津波防災の町宣言
[編集]三たび田老に壊滅的な被害を与えた東北地方太平洋沖地震による津波
[編集]津波の大きさと被害
[編集]田老の防潮堤と東北地方太平洋沖地震による津波
[編集]効果的であった津波対策
[編集]三たび歩み始めた復興への道のり
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 高山(2012)p.50
- ^ 田老町教育委員会(2005)p.2
- ^ 羽鳥(2000)p.40
- ^ 羽鳥(2009)p.5
- ^ 山下(2003)p.165
- ^ 羽鳥(2000)p.40、田老町教育委員会(2005)p.2
- ^ 羽鳥(2000)p.42
- ^ 高山(2012)p.54
- ^ 山下(1982)p.144-146
- ^ 高山(2012)p.54
- ^ 山下(1982)p.144、高山(2012)pp.54-55
- ^ 今村、保田、堀川(2012)p.25
- ^ 山下(1982)pp.63-81
- ^ 山下(1982)pp.364
- ^ 田老町教育委員会(2005)p.3、高山(2012)pp.56-57
- ^ 山下(1982)p.145
- ^ 小松(2012)p.41、高山(2012)p.56
- ^ 山下(1982)pp.146-147、高山(2012)p.57
- ^ 山下(1982)pp.146、内閣府中央防災会議、2005、『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1896 明治三陸地震津波』、高山(2012)pp.65-66
- ^ 村松、安藤、五十嵐、赤谷(1991)p.88
- ^ 内閣府中央防災会議、2005、『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1896 明治三陸地震津波』、高山(2012)p.66
- ^ 山口(1943)pp.69-70、p.99、山下(2003)p.166
- ^ 山口(1943)pp.99-100、山下(2003)p.166
- ^ 高山(2012)pp.86-87
- ^ 山口(1943)pp.99-100
- ^ 山下(2003)p.166
- ^ 高山(2012)pp.86-89、pp.127-133
- ^ 村松、安藤、五十嵐、赤谷(1991)p.87
- ^ 今村、保田、堀川(2012)p.25、山下(2008)p.49
- ^ 山下(1982)pp.201-203
- ^ 山下(2008)pp.55-56
- ^ 村松、安藤、五十嵐、赤谷(1991)p.87
- ^ 村松、安藤、五十嵐、赤谷(1991)p.87、田老町教育委員会(2005)p.3、山下(2008)p.56
- ^ 山下(2003)p.166
- ^ 村松、安藤、五十嵐、赤谷(1991)p.88
参考文献
[編集]- 赤谷隆一「岩手県田老町田老地区における津波避難所の配置に関する基礎的研究」『岩手大学工学部技術部報告第4巻』、2001年、岩手大学
- 安藤昭、赤谷隆一、村松広久「岩手県田老町における津波被災後の復興計画について」『土木学会東北支部技術研究発表会(平成2年度)』1990年
- 今村文彦、保田真里、堀川亮祐「宮古市田老地区での2011年東北地方太平洋沖地震津波に関する現地調査」『津波工学研究報告(29)』2012年、東北大学災害科学国際研究所
- 小松幸夫「防災レポート 東日本大震災における津波対策の効果に関する実態について」『消防科学と情報(107)』2012年、消防科学総合センター
- 高山文彦「大津波を生きる 巨大防潮堤と田老百年の営み」新潮社、2012、ISBN 978-4-10-422205-6
- 田老町教育委員会「田老町史津波編」田老町教育委員会、2005年
- 羽鳥徳太郎「三陸沖歴史地震津波の規模の再検討」『津波工学研究報告(17)』、2000年、東北大学災害科学国際研究所
- 羽鳥徳太郎「三陸大津波による遡上高の地域偏差」『歴史地震』、2009年、歴史地震研究会
- 村松広久、安藤昭、五十嵐日出夫、赤谷隆一「津波被災後における市街地拡大への津波防潮堤建設の影響について 津波常襲地域の岩手県田老町を対象として」『土木史研究第11号』、1991年、土木学会
- 山口弥一郎「津浪と村」、恒春閣書房、1943年
- 山下文男「哀史 三陸大津波」青磁社、1982年
- 山下文男「三陸海岸・田老町における「津波防災の町宣言」と大防潮堤の歴史」『歴史地震第19号』、2003年、歴史地震研究会
- 山下文男「津波と防災 三陸津波始末」古今書院、2008、ISBN 978-4-7722-4117-5