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利用者:みっち/優れた記事ってなんだろ?

このごろぼんやり考えています。主題の説明として、十分なことが書かれているものが記事。では「優れた」とはなにか。

記事の選考基準として、よく見るのが、「ウィキペディアの方針を満たす」というものです。とくに、「検証可能性」の方針から、出典の有無、ひいては出典の示し方として脚注の有無・数が重視されている気がします。個人的には、出典はないよりあった方がいい、とはもちろん思います。しかし、出典があるから、脚注が多いから、「質」が高く優れている、といえるでしょうか? それは少し違うんじゃないかな。

記事の「質」と「検証可能性」[編集]

ある項目を書く場合に、代表的と思われる文献を引き、著名な研究家の資料を出典にして記事を書いたら、優れた記事になるでしょうか? なるともいえるし、ならないともいえます。同じ資料を使ったとしても、丸写しというわけにはいきません。文献のどこをどう使うか、そこには投稿者の取捨選択、つまり主観が入っています。極端な話、同じ資料を使って肯定的にも、否定的にも、あるいはデタラメを書くことだってできます。つまり、信頼性の高い文献を用いることは、記述の信頼性について、(善意に取れば)ある程度の蓋然性・期待度を示すということはできるにしても、ただちに優れた内容を保証しない、ということです。それに、そもそも代表的とか著名とかの資料の「信頼性」の判断はだれがするのでしょうか? そこには基準がありません。

また、例えば、項目名を中心主題とする文献で、内容が網羅的かつ信頼性が非常に高い(とされる)ものを用いる場合と、俗説巷説トンデモ本あるいはエッセイのようなものの断片を各種取り混ぜた記述と、どちらが優れていますか。ふつう、前者が優れていると考えるかもしれません。しかし、そうすると、代表的な文献ひとつを使った記事の方が、その他大勢をかき集めたよりよほど優れていることになります。とはいえ、主題のもつ拡がりや側面的な影響を見たいときに後者がむしろ参考になる場合もないとはいえません。信頼性は同じぐらいだが対立的な文献を扱う場合もあります。これらは結局バランスの問題であり、ものは使いようということです。ここにも客観的な基準はありません。

ひとことでいえば、「検証できる」ことと「内容が優れている」ことは違います。逆に、出典が示されていない記事であっても優れた文献に当たっていないとは限らず、出典が示されている記事以上に配慮されている場合だってあり得ます。したがって、出典の有無や数が記事内容の「質」を決める要件にはなりません。

しかし、出典を示すことはウィキペディアの方針なのだから、形式的であろうとこれを満たさなければランク付けなどに選出されるべきでない、と主張する人がいます。私は、そういう人がいてもよいと思います。大事なのは、考えを異にする利用者やその意見を排除せず、お互いに認め合う、ということです。意見の違いはあるのが当たり前であって、ない方が不気味です。いろんな評価基準や考え方が集まって、総体としてできあがっていくのがウィキペディアというプロジェクトではないでしょうか。

脚注方式について[編集]

出典を示す方法として、脚注方式を支持する風潮があり、これが理想形のようにいわれることが多いですが、どうなんでしょう。まず、これは「検証可能性」方針上の義務でも何でもないことを押さえておきたい。

文章ごとに脚注を付けることで、出典を明瞭にできるのは利点だと思います。引用やデータなど、個別に取り出して示すようなときには積極的に使った方が効果的です。ただし、出典が付いているから正しいとか適切、というわけではないことはすでに述べました。それに、脚注方式には欠点もあります。文章全体の流れとして見た場合、途切れ途切れでパッチワークのようになりやすい。読んで面白くない。つながりがいいように組み立て直そうとすると、脚注が邪魔になってさわりにくく、簡潔にできない。つまり、この方式を使った方がいい場合とそうでない場合があり、使い分けが必要だということだと思います。

個人的には、脚注の有無はオーディオでいう「アナログ対デジタル」論争のようなもので、方式を持ってどっちが上か下かというような問題ではなく、それぞれの中身や品位の問題だと考えます。脚注や参考文献欄のように別記せずに地の文で紹介する方法も含めて、読者にとって読みやすいか、必要と思うところにあるか、それらはやっぱりバランスと工夫が問われることではないでしょうか。

「中立的な観点」[編集]

以上は、主として「検証可能性」方針およびその関連について考えていることですが、なぜ「検証可能性」に量を多く割いたかというと、ウィキペディアにはこの方針をとりわけ重視する利用者がいて、とかく出典や脚注の有無が「選考基準」になっていることが多いからです。「検証可能性」を強調したいあまり、「中立的な観点」がおざなり、ということさえあるくらいです。これは、出典や脚注は外形的に明らかなので、「読まなくとも見りゃわかる」ということもあるのではないでしょうか。

「中立的な観点」は、「検証可能性」とは違い、記事の質に直接影響します。偏った書き方をした記事を、優れているとはとてもいえません。ウィキペディアに書いてあったからこれが正しい、などという理解をされたらいちばん困るのが偏った記事です。

二つ上の節で述べていることは、実は「中立的な観点」の問題でもあります。資料に当たる場合に、その資料がどういうものか、記事にどの程度反映させてよいか、説明としてそれで十分か、といった判断が必要です。この中立的な観点は、資料一辺倒でもダメで、かといって単純に足して二で割ればいい、というものでもありません。どこに重点を置いて記述するかは、投稿者の批判精神(資料に対しても自己に対しても)が試されます。

この方針に関していえば、選考基準として掲げることについては当然だと思いますし、ランク付けの判断をするなら、むしろもっと厳しく見る必要があるかもしれません。しかしそれには、主題に対する周辺知識を含めた総合的な判断力が必要です。審査する人間にどこまで求めるか、ということと関わってくるので、難しいところでもあります。

長い記事が優れているか[編集]

「執筆コンテスト」などでは、長い記事が高い評価を得る傾向があります。長いことは、それだけ内容が豊富ということが期待でき、読み物としての面白さ・興味深さにつながる場合があるので、評価されること自体はおかしくありません。綿密な取材を元にした力作記事に対して、敬意を表したくなるのもよくわかります。しかし、短い記事が劣っているか、といえば、そんなこともないでしょう。

一般的には、同じ内容ならより簡潔な文章の方が優れている、といえます。長さが評価されるのは、主題の説明として必要であり、適切な分量だと判断される場合だということを、再確認した方がいいかもしれない、と思います。ウィキペディアに限らず、百科事典には大項目主義・小項目主義といった方向性の違いもあるので、画一的には決められません。ただ、ウィキペディアは紙製ではなく、分割や統合といった、あまり長い記事や短い記事は適量になるように調整できる機能があります。それを活かす工夫は必要だと思います。

面白さという観点[編集]

もう、ぽろっと書いてますが、読みやすいか、読んで面白いかどうかというのは、記事が優れているかどうかのひとつの指標なんじゃないでしょうか。言い換えれば、形式でなく中身。知情意兼ね備えた、主題に迫る文章は、出典が付いているかどうかよりよほど優れた記事としての要件にふさわしいと思いますし、ウィキペディアの方針以前に、普遍的に求められるべきものでしょう。ただ、これにも問題があって、面白いと思うかどうかは本人の主観でしかないということです。記事の性格によっても、求められる面白さというのは異なるので、どこをどう面白いと思うかは、評者も試されます。しかし、出典の信頼性を判断するのも本人の主観だったりしますから、いいとこ勝負ではないでしょうか?

自分が書いた記事をほめてもらったら、それはうれしいです。けど、「出典や脚注がある」といわれるより「面白い」といわれた方が百倍はうれしいです。ていうか、出典や脚注がある、ってほめ言葉じゃないですよね。それが「質」の評価につながること自体に矛盾があるのではないでしょうか。

関連項目[編集]