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利用者:らりた/下書き

郷挙里選(きょうきょりせん)とは中国代(前漢後漢)に行われていた官吏任用法である。中央・地方の各機関の長官が有能な人物を推薦すると云う形式を持って行われる。選挙・察挙とも。


名称について

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この制度の名称に関しては「郷挙里選」の語が定着しているが、この言葉は『漢書』・『後漢書』等にはわずか2例しか見られないように当時において定着した用語ではなく、後世の『文献通考』などで使われたものである。「選挙」の語に関しては宮崎市定は「郷挙里選」が約まって「選挙」となったとしているが、周代のそれに関しても「選挙」を使った用例があるなど「選挙」とは歴代中国の人事制度一般を指す言葉であり、漢代のそれに限定的に使うことは難しい。

察挙は

制度概要

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察挙制度は漢代を通じて行われた人事制度で、ある一定の地位を持つ官僚が人物を推薦し、それを朝廷が採用するという形で行われる。定期的に行われる常科と不定期に行われる制科に分かれる。更に常科は孝廉茂才、制科は賢良方正などの科目に分かれており、それぞれ察挙者の資格者と被察挙者の身分に違いがある。それぞれの察挙者・被察挙者の関係は以下の図のようになる。


制科は前漢文帝期に、常科は武帝期に開始され、漢代を通じて行われる。220年が成立し、九品官人法が制定されると察挙制度は形骸化するが、その後も存続し続け、後の科挙に影響を与えた。

科目 察挙者 被察挙者
常科 孝廉 太守 各郡内の無官の人物
茂才 刺史 各州内の無官の人物
制科 三公光禄卿 各郡内の無官の人物
賢良・方正 光禄卿 各郡内の無官の人物



孝廉

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孝廉制の始まりは武帝期の元光元年(紀元前134年)の董仲舒の建議から始まるとされる[1]孝廉での察挙者は各郡国の長である太守および国であり、被察挙者はその管内の下級官吏および在野の人間である。

孝廉は最初は各郡国、一年ごと一人を推薦することとされていたが、後に増員され後漢の永元五年(93年)の時に人口二十万の郡国は年に一人、以下四十万は二人、六十万は三人、八十万は四人、百万は五人、百二十万は六人、二十万に満たない場合は二年ごとに一人、十万に満たないは三年に一人、とされている記録がある[2]。孝廉に推挙される人数は毎年200名前後と推定される。

年表

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人口(万) 察挙人数
120 6
100 5
80 4
60 3
40 2
20 1
10以上20未満 2年ごとに1
10未満 3年ごとに1

脚註

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  1. ^ ただしこの董仲舒の建議の年次に付いては様々な疑問が呈されている。例えば
  2. ^ 『後漢書』巻三十七丁鴻伝

関連項目

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