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永楽帝のモンゴル親征とは中国の3代目(あるいは2代目)皇帝永楽帝モンゴル北元オイラト親征した戦争である。永楽八年(1410年)から永楽二十二年(1424年)にかけて、5回にわたって行われた。

事実経緯[編集]

事前の経緯[編集]

明側の経緯[編集]

元朝末期の混乱の中から出て、江南にて明を建てた朱元璋(洪武帝)は華北に残る元に対して呉元年(1367年)に北伐をかけてこれをモンゴル高原に押し出した(北元)。更に洪武二十一年(1388年)にモンゴルに軍を派遣して打ち破り、その後にモンゴルのハーンが殺されたので分裂状態に陥っていた。

洪武帝は防衛のために自らの息子たちを藩王として各地に封建し、北の守りには次男・三男そして四男の朱棣を配置した。これにて北辺の守りは安定した。しかし洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位する(建文帝)と藩王たちに自らの地位を脅かされることを恐れて、藩王たちの地位を削り始めた。朱棣はこれに対して乱を起こし(靖難の役)、建文帝に勝利して自ら皇帝位に就いた(永楽帝)。

永楽帝は自らの事例が再現されないように北辺の藩王たちの地位を順次削っていった。このことで永楽帝の地位は安定したが北辺の守りは不安定となった。

モンゴル側の経緯[編集]

分裂状態にあった元(以下モンゴルと称す。)であったが、ティムールの元に亡命していたベンヤシリがハーン位(オルジェイ・テムル)に就くと部族をまとめ上げて勢力を張った。モンゴルは西の新興のモンゴル系部族オイラトと度々抗争を繰り返し、この状況にオイラトは明に入貢(朝貢を行うことで臣従しているとの態度を示すこと)し、明の援助を求めようとした。対してモンゴルはオルジェイの支配下で明に対して度々反抗的な態度を示し、オルジェイに派遣した使者が二度にわたって殺されるにいたり、永楽帝はモンゴル討伐を決意した。最初は靖難の役で功績を挙げた丘福を大将軍として派遣したが、丘福軍は全滅、丘福たち軍の首脳部は捕虜と成るという惨敗になった。

第一回親征[編集]

この結果に激怒した永楽帝は自ら軍を率いてのモンゴル討伐を決めた。これは極めて特異な行動であり、中国皇帝でありながらモンゴルに親征した皇帝は北魏太武帝康煕帝の事例があるのみである。さらに言えば漢人皇帝としては永楽帝が唯一である。永楽八年二月、留守を皇太子に政治を夏原吉に任せて永楽帝は北へと進発した。永楽帝この時51歳であった。

三月に長城を越え、二ヶ月後の五月の初めに敵と遭遇した。永楽帝はここに殺胡城と名付けた要塞を建ててタタールを討つ準備を整えた。捕らえたタタールの捕虜の話ではタタールはオルジェイに反抗したアルクタイは東に分かれたという。永楽帝はオルジェイを打ち破り、オルジェイは逃がしたものの大勝利となった。永楽帝はこれを記念してここを滅胡山と名付ける。さらにアルクタイを東に追撃してこれも打ち破る。アルクタイは家族とともに逃げたものの二度の勝利で一度目の親征は大成功に終わった。ここで兵士の疲労も溜まり、食料も少なくなったため引き返すこととなった。擒狐山と清流泉というところに記念の詩を岩に刻ませた。七月に北京に凱旋。凱旋後、オルジェイはオイラトに降伏後に殺され、アルクタイは明に恭順の姿勢を見せることとなった。第一回親征は大成功に終わった。

第二回親征[編集]

ところが明軍によりモンゴル側が衰退すると敵対していたオイラトが勢力を伸ばし、モンゴルの本拠カラコルムを占拠してモンゴル高原に覇を唱え、明に対して反抗的になるようになった[1][2]。永楽帝は永楽十二年(1412年)三月に五十万と称する大軍を率いて再び北京を出立した。再び皇太子が留守を任されたが、皇太子の子の朱瞻基(後の宣徳帝)も同行を命じられた[1][2]

六月初めにフラン・フシウンの地で敵軍と相見える。この戦いで神機銃砲と呼ばれる新兵器でオイラト軍に多大な被害を与えたが明軍も゙大きな被害を出して追撃はままならず、八月に北京に帰還した[1][3]

この戦いの結果、オイラトは明に恭順し、しばらくはモンゴリアは平和であった。

  1. ^ a b c 寺田 1997.
  2. ^ a b 寺田 1998, p. 312.
  3. ^ 寺田 1998, p. 313.