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利用者:イエスチャン

初めて、初心者マークなので、よろしくお願いいたします。

会話をする人々に対し、少し自分の立場を説明しておいた方が良いかと思っています。

1973年に、田川建三の「原始キリスト教史の一断面」を読み、キリスト教と言うものに初めて触れました。それまでは、聖書を読むようなこともしていませんでした。 その時の感想は「本当にイエスがこのような人ならば、キリスト教がこのようならば、自分の人生と無関係ではないな」と言う思いでした。歴史上のイエス=史的イエス=ナザレのイエスに心が惹かれました。

新約聖書学というものがある事も初めて知りました。それから、次々と荒井献、八木誠一、佐竹明さん達の本を読み始めました。そこで繰り広げられていたのは、新約聖書学という共通の場所で共通のルールの下で、田川建三、荒井献、八木誠一、佐竹明の各々が徹底的に相手を批判していました。田川さんのを読んでいる時は田川さんが正しく、荒井さんのを読んでいる場合は、荒井さんが正しく思えました。八木さん、佐竹さんの場合も同様でした。 この結果良かった事は、毒の強い(?)のが中和され、強力な個性の人々の中で飲み込まれることを免れることができました。八木さんの「ヨハネ福音書」の翻訳などは、ヨハネ福音書が作成途中の状態であることから、本来ヨハネはこのように福音書を書きたかったはずだと、再編集などしており、新約聖書にその様なことができるという事も、新約聖書学の立場として新鮮な感じがしました。因みに「マルコ福音書」田川さんが訳していました。荒井さんは確か「使徒行伝」でした。

4つの福音書は「1世紀の生き生きとした信仰」が「冷凍保存(2世紀以降で改竄されていない)」されたものであり、それを調べて、良く分かったのは、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの信仰が異なっている(イエス理解が異なっている)と言う事でした。(これは、福音書記者が、所属教会&育ちも、地域も、時代も異なり、自分の信仰に沿って忠実に記述しているのですから、異なって当たり前のことですが・・・) つい先日の田川建三さんの講演で、「異なったイエス理解/信仰であると言う事は、新約聖書は、イエスを知るための「聖なる書」ではあるが、「正典:カノン」ではない」とおっしゃっていました。福音書自体がそれを示し、証明しており、多様性、神の豊かさを表しています。


その10年後の1983年に、イエスを中側から知りたいという思いから、日本基督教団の横浜にある教会(伝統的な信仰の長老派)で洗礼を受け20年間在籍しました。現在は縁あって東京の教会に移り、2年目になっています。

1973年から一貫していたのは、実際のイエスを識りたい、イエスご自身の抱いており、人々に教えた「神ヤハウェ信仰」を知りたいという事でした。 現在でも同じです。

ですから、初期ローマカトリックに達してようやく築き上げられた現在のキリスト教/歴史的に形成されたキリスト教の教義と、(それはそれで重要であり、キリスト教のメジャーですが)、イエスご自身の信仰とは、一旦は分けて考えた方が良いと思っています。各々分けて追及し、同じものであるとなるならばそれで良く、護教的と考え最初から歴史的キリスト教の教義と同じと考えて、ナザレのイエスの理解にそれを織り込み、追及する姿勢に疑問を感じています。

新約聖書学で、ますます深められたナザレのイエスを少しでも多くの人に知って貰いたいと願っています。 イエスはすばらしい人であり、神ヤハウェの公正と慈愛を祈り求め、それを行じた人と思っています。

また、仏教にも関心があります。1970年頃から文献学、経典批判を経た「原始仏教(初期仏教)」つまり、「歴史上の釈尊の教え」を読み始めました。その当時は、増谷文雄中村元の著作が中心でした。 その下地があったため、田川建三さんの福音書の文献批判も、抵抗なく受入られました。(同じ学問的方法)

今、宗教で特に問題になるのは、原理主義です。 原理主義では、歴史的に作られてきたところの、旧新約聖書や経典(法華経・・・)などを絶対化し、それによって自分を絶対化します。その結果、他の信仰、他者を認めない、否定抹殺するという姿勢になります。 歴史的な観点を取れば、この絶対化は避けることができ、歴史を担った各々の人を相対化できるようになります。そして多元主義、多様性を認めることができる様になります。

このためにも、聖書や仏典の文献学的、批判的研究が重要であると考えています。 以上