利用者:ウラサキトモユキ/sandbox


ムーチー(鬼餅)は、沖縄県で一般に食される菓子の一種。 生のモチ米粉に水や砂糖を加え練って平たくのばし、白糖や黒糖などで味付けを行い、サンニン(月桃)の葉に包んで蒸したもの。 旧暦の12月8日(グレゴリオ暦では1月)には健康・長寿の祈願のため縁起物として食される。鬼退治にムーチーが使われたことから「鬼餅」と呼ばれることとなった。

紫芋のムーチー


概要[編集]

餅には搗き餅(つきもち)と練り餅(ねりもち)と2種類の餅が存在するが、ムーチーは練り餅である。

古くは米粉を清水でこねて長卵形とした生もちを、粢(シトギ)と称した食法があった。ムーチーはその粢を蒸した食法。 粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)、豆、椚(くぬぎ)の実、楢(なら)の実などを粉にして水で練って団子状にしたものもシトギとして括られる。

作り方[編集]

黒糖ムーチー
餅粉と黒砂糖を混ぜ、水を加えてよく捏ねる。均質に耳たぶ程度の堅さになったら30分程度寝かせ、小分けにして月桃の葉に巻き、せいろで蒸す。


月桃[編集]

月桃を沖縄の方言でサンニンとよぶ。 サンニンの葉をムーチーの包装材に、種子を漢方に用いてきた。
旧暦3月2日はサンニン(月桃)の日

歴史[編集]

1713年「琉球国由来記」の巻一項目は「王城之公事」となっており、正月から12月までの王府が行う90の諸行事を列記し、「ムーチー」は82番目に公的な行事であったことが分かる。煤払いの前に行う行事で、王城内でもムーチーをつくって献上したことを記している。

名称の由来[編集]

  • 台湾語でmôa-chî(モワチー)と呼ぶ。台湾からモワチーが、沖縄ではムーチーとなり、日本本土ではモチに縮まったとも考えられる。[1]

ムーチー伝説の由来[編集]

1745年歴史書『球陽』本巻の中で、初代琉球国王舜天王時代(1100年頃)の一項目があって、その項の最後に「附 首里内金城邑の鬼人」とあり、文章内に鬼モチ由来の伝説が記載されている。
歴史書『球陽』本巻の全体構成からすると、民話・伝説類を扱った外巻の『遺老説伝』の方に載せられるべき記事と考えるが、政治的に重要な項目としてなのか、本巻に記載されている。

球陽での記載内容(現代語訳)[編集]

遺老伝に次のように記されている。  首里の金城村に兄と妹が住んでいた。兄の名は伝わらないが、妹は、一女がいて於太(オタ)といったから(その母という意味で)於太阿母(オタアム)とよばれた。 はじめ一緒に住んでいた。その宅は、今は封じて小嶽となっている。

後に兄は大里村の岩窟に移り住み、人を殺してその肉を食うと噂された。村人たちは大里鬼とよんだ。

ある日、妹は兄を問い詰めようして訪ねたが、兄は留守であった。しかし、の釜の中に人肉が煮えているのが見えた。妹が驚いて逃げ帰ろうとしたが、途中で兄に出会った。兄が言った。  「お前、なぜそう急ぎ帰るのか。うまい肉がある。食べてもらおう。」 妹が答えた。  「家に大事な用があります。」 兄はそれを無理やり引き止めた。妹は返す言葉もなくなり、一緒に兄の家に至った。

しかしそこで、奇策を考え出し、懐に抱いていた子の腿を密かにつねって大泣きさせて、そして言った。  「この子が便を下そうとしている。しばらくの間、窓の外へ出して下さいな」。 兄が言った。  「(外ではなく)家の裏で便をさせても何の差し障りがあるか」。 妹が答えた。  「家の裏では失礼になります」 と、強く請うて外に出た。

兄は小縄で妹の手を縛り、に行かせた。妹は縄を解いて外の木の枝にかけて、ひそかに逃げた。兄は妹がなかなか帰って来ないので怪しんで外へ出て見ると、逃亡していた。

兄が北の山の端まで追いかけて見ると、早くも遠くまで逃げている。大声で「待て待て」と叫んだ。妹は猛虎に追われたかのように、腹ばいになりながらも逃げ延びた。そのことに因んでその地(その時に渡った川)は“マテ川”と呼ばれる。またその坂を“生死坂(イキ・シニのヒラ)”という。


 その後、兄は首里に妹を訪ねてやって来た。妹は取り急ぎ、一計を案じた。兄を招いて崖の上に坐らせ、鉄七つ(これは糯米モチを作り、中に鉄の玉を入れたものである)・蒜七根、自分が食べるための米餅七つ・蒜七根を作り、兄に鉄餅とを与えた。鬼人は鉄餅を食おうとしても食うことが出来なかった。時に妹は、兄の前に前を開いて、箕踞(キキョ)※琉球国由来記では蹲踞(ソンキョ)していた。兄が怪しんで問うた。妹は答えた。  「私の身には口が二つあります。下の口はよくを喰い、上の口はよく餅を喰うのです。」 と言って、自分の餅とを食べてしまった。これを見た兄は、あわてふためいた。そのため足を踏み外し、崖下に転げ落ちて死んでしまった。

 この謂れによって、毎年十二月、必ず吉日を択び、国人皆が餅を作って食べ、鬼災を避けるのである(ムーチーの行事はここから始まったのである)。古くは内金城邑では、毎年十二月内に六回ムーチーを作り、神に献じて、後これを食べたが、今は、初庚と次の庚の日の二回となっている。松川地頭(地頭は官職名)は、与那覇堂の田米二斗五升を出し、それを根神人に与える。根神人は鬼モチを作り、小嶽に供祭する。[2]

琉球国由来記[編集]

琉球国由来記の巻十二の記事も、ほぼ同様の内容なのであるが、一部異なる部分もある。上の読みのカタカナ部分などは『球陽』にはなく、『琉球国由来記』からの援用である。兄の前に座った妹の姿勢が、膝を折って股を開いた状態の「蹲踞」となっている。さらに、妹の「下の口」から血が出ているのを見て兄が、「血を吐いているお前の下の口は何であるか」と聞く表現が付加されている。その血は、女性の通常の生理の血ではなく、既に「何匹かの鬼」をって、血を吹き出していることが想定された表現と思われるからである。[3]

月桃[編集]

伝説の妹は、鬼になった兄に、月桃を使った事で、少しでも邪気を祓い再生させたい気持ちがあったと推測できる。

  • =東洋では月は陰の象徴となり、女性と関連すると考えられていた。
  • =日本は古くから桃には邪気を祓う力があると考えられている。『古事記』では、伊弉諸尊が桃を投げつけることによって鬼女を退散させた。『桃太郎』も鬼を退治する民話である。
  • =桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう[4]。似たようなシンボル的なのはしょうぶあやめかきつばたもそのとする節句のあることでも類推はできる。

兄鬼[編集]

沖縄の方言で鬼の事を「ウナー」といい、大里ウナーと言われる。

儒教的な基礎を身につけていた尚敬王は「琉球由来記」で編纂させた伝説の兄鬼を「人倫の道にはずれ、世の中を害するもの」として位置づけようとしていたと推測でき、妹が兄を殺すことを是いとしている。ここでの鬼は人でありながら、人の道にはずれ、人を食らうものを「鬼」としている。と解釈できる。

ムーチー崖[編集]

鬼が足を踏み外し落ちたといわれる崖の下には拝所(ウガンジュ)がある。崖の高さは約10m。

首里内金城御嶽[編集]

県道50号線 通称赤マルソウ通りから入る。ムーチー崖ルートと石畳ルートの2種類ある。首里内金城御嶽には、大御嶽と小御嶽がある。

  • 琉球国由来記」に、茶湯崎村(ちゃなざきむら)(現松川)の項に記され、大御嶽を男、小御嶽を女にかたどって子孫繁盛の祈願所とされている。また、最後の項には「今、鬼祭は、嶽前にて、を称えてをなす。鬼のは小嶽にあるという由、俗説に云う」とある。
  • 「南島風土記」[5]によると、今三丁目の略々中央に在りて北なるを小嶽、南なるを大嶽と稱(称)する。大嶽は名金の威部(イベ。聖域の中の神が鎮座する場所。最高の神職である女性以外は立ち入れない。)と稱し一村の鎭守(土地ないし施設を霊的な疫災から守護する神。)で、拜殿は尚質十三年(萬治三年)内金城村民の棄捐(キエン。 貸借関係を破棄すること)によって剏建(ソウケン。創立)さてたもの、小嶽は例の大里鬼の鬼餅傳説のある所である。
大御嶽[編集]

ムーチー崖から降り、内金城御嶽の境内に入ると、左手の植え込みの中にこの御嶽がある。神名は「カネノ御イベ」で、「モジョルキョノ大神」とも称される。赤い格子の前に、香炉が三つ置かれて、石積みの左横にも小さな祠のようなものと香炉が置かれている。

小御嶽(ホーハイ御嶽)[編集]

首里内金城御嶽の小嶽。俗に、ホーハイ御嶽といわれる。沖縄方言でホーハイとは、日本神話にでてくる「ほと」(女性陰部)と同意語。 昔々琉球ではホーハイ(女陰)には悪霊を払う呪力(じゅりょく). があると信じられています。

  • ホーハイ

琉球では火事の時に叫ぶ、まじないの語。火事を見ればかならず二声叫ばなければ、ならないとされた。この声を聞けば男は火事場へかけつけ、女はヒヌカン(火の神)に水をあげ拝む。ホー hoo(女陰)は古来魔除けになっているので、ホー hoo をあらわにして見せるという意と思われる。-火事が起こるとホーハイ hoohaiの声がたちまち四方に相呼応して、皆火事場へ赴いたものであった。

ムーチー崖周辺[編集]

金城内御嶽内にあるムーチー崖以外にも、歴史的遺物がある。

首里金城町の大アカギ[編集]

天然記念物に指定。金城内御嶽内にある。

  • 日本での神秘的な巨樹ベスト10中7位にも入る神秘的な巨樹群。日本経済新聞社より[6]
  • アカギは琉球列島、熱帯アジアなどに分布する樹木ですが、このような大木群が人里に見られるのはここだけである。
  • かつて首里城周辺には多くのアカギの大木が自生していましたが、そのほとんどが沖縄戦で焼失し、金城町の大アカギ群は奇跡的に戦火をまぬがれた。
  • 根元にできた、自然の祠がある大アカギもあり、言い伝えによると、旧暦の6月15日にお参りをすると願いをひとつかなえてくれるといわれている。
  • 新納義馬 「首里金城の大アカギ」 『日本の天然記念物』[7]
首里金城町石畳道[編集]

沖縄県指定文化財史跡で、日本の道100選の一つ。NHKドラマ「ちゅらさん」の撮影地

類似民話[編集]

関連[編集]

ムーチー小屋[編集]

南部では、食べからや枯れ木などでつくった、ムーチー小屋を焼いてはやし、邪気を払う行があった。

カーサ(葉)ムーチー[編集]

月桃の葉で巻くことから、「カーサ(葉)ムーチー」と呼ばれることもある。

ムーチービーサー[編集]

ムーチーを食べる旧暦の12月8日(新暦の1月下旬から2月上旬)は沖縄では最も寒い時期であり、この時期を沖縄方言ムーチービーサー(鬼餅寒)と呼んでいる。

初ムーチー[編集]

年内に子どもが生まれた家では、生命を与えるとして、初ムーチーを親類や近所に配る習慣もあります。

サギムーチー[編集]

子供のいる家庭では、軒下に子供の数だけムーチーを紐で結び天井からさげて魔よけとするところもあります。


類似する食品[編集]

名前はであるが、沖縄以外ではもち米をついたものを餅と称し、餅粉を練ったものは「団子」と呼ばれる。また、甘みを添加することで菓子として供されるため、ムーチーは沖縄以外の日本ではより団子に近い。端午の節句に用いられるちまきによく似た縁起物である。

穀物の粉を原料として植物の葉に包んで蒸して作る団子等の郷土菓子では、新潟県笹団子の知名度が高いほか、熊本県みょうが饅頭岐阜県みょうがぼちも挙げられる。

また、小さな状でなく比較的大きな塊となった、穀物等の粉を練って蒸した食品という点では、名古屋市などのういろうに類似するといえる。


脚注[編集]

  1. ^ 日本の食文化大系 餅博物誌
  2. ^ 邪馬台国総合説 赤椀の世直し」
  3. ^ 邪馬台国総合説 赤椀の世直し」
  4. ^ 奥田継夫著『どこかで鬼の話』京都人文書院1990年、38頁、42頁。ISBN 4-409-16048-6
  5. ^ 南島風土記
  6. ^ 日本経済新聞 電子版
  7. ^ 新納義馬 「首里金城の大アカギ」 『日本の天然記念物』 加藤睦奥雄ら監修、講談社、1995年、514頁、ISBN 4-06-180589-4