利用者:キリカ/萌えの服を、神話学で脱がそうとすれば、透きとおった肌は・・・。
ひどく長くなったので、ノートで書く事にしました。めちゃくちゃ乱文で雑文です。節がないのも仕様。
うーんと・・・えーと・・・。historyとstoryは同じ語源だよ、ってことでして、そのhistoryの中のstoryを取り出そうとするのがnarratologyであり、narratologyでは文体や構造のほうを研究して、historyの中のetymologyを取り出そうとする研究もあり、etymologyでは語源が取り出されて・・・・。
それを日本語に直しちゃうと、歴史と物語は同じ語源・・・・にならなくちゃっちゃ訳(わけ)で、ナラトロジーも訳(やく)がないので、物語学と訳すのですが、これでは日本語として通じなくなり、中国語では叙事学となって、エチモロジーを語源学と訳しても、これでは言葉の由来を探る学問に見えてしまい、語の歴史の研究には見えなくなってしまう。言語は文化の影響を受けて生き物のように変化するので、そもそも日本では神話学が、民俗学と呼ばれたりもしていて、あまり盛んではなく認知の度合いが少ないから・・・・えーっと・・・だから。
- うわーーん・・・・また私、荒らしてるよぉぉぉ・・・・違うの、そうじゃないの。私は荒らしたいんじゃないの。でも私は荒らしなの。だからね・・・・あの・・・・助けて。長くなっちゃう・・・・長くなっちゃう・・・あらしになっちゃうよぉぉ・・・・シクシク。
おそらく、私が今書いているのは「論」ではなく「パラダイム」だと思うのです。つまり「概念」です。分かりやすく書くと分かりにくくなり、分かりにくく書いた方が分かりやすい気がしてきました。
橋川桂さんの、言いたいのは、思考法の解説の要求だと思うのです。それを今からやってみます。
橋川桂さんは「分かりません」と言いました。なぜ「分からない」のでしょうか? 反対に何故人は「分かる」のでしょうか? また「分かってしまう」のでしょうか? 本当に「分かっている」のでしょうか? 人間が認知する、理解するとはどう言った事なのか? それを考えるのが人文科学的な発想です。
- 以下、《1》現実 《2》私たちの認識 《3》1と2を認識する領域 とします。
《2歴史》は《2現実》であると私たちは認識します。しかし私たちは《1歴史》を目撃した訳ではありません。織田信長を見た訳でもありませんし、福沢諭吉も見ません。江戸時代で暮らした経験もないのです。ですが《2歴史》は《2現実》であると認識するのです。本当の《1現実》では何が起きているのでしょう? ディスプレイの前に座り、キーボードを叩いています。これが本当の《1現実》です。しかし私たちは《2歴史》を《2現実》であると確信をもって抱いています。しかしそれは明らかに《1現実》ではないのです。また《3現実》ではない領域を《2虚構》と言います。日本語の場合は《2虚構》を《2物語》と称することで、《3物語》の中にある《1歴史性》を排除し、《2歴史》は《3物語》ではないと認識させます。しかし本質的には同じです。
- 「すなわち《3歴史》とは『《2歴史》は物語である』と『《1歴史》とは現実である』の複合領域です」
- 《2歴史》も《2物語》であるのには変わりないのですが、《2歴史》は《2現実》だと認識するのです。
そしてこの様に、番号を振りますと、人間は無意識のうちに「単語」の意味を変えているのが分かります。番号を外すと意味が分からない文章になります。神話学では「単語」を別の意味に置き換えて解釈をし、意味のある文章にしようとします。それが、クロノスは時、ガイアは大地、アポロンは太陽、と言った解釈をもたらしました。
- ミル「あーん、まってぇーー」
- キク「きゃははははは、わーい、わーい」
- ミル「それぇ〜」
- キク「やーん、掴まっちゃった」
- ミル「掴まえちゃった」
- ミル・キク「えへへへへ」
また、近代以降でも、こういった話が事実だとして伝えられました。
- 米国初代大統領のワシントンが桜の木を切ったのを正直に告白した。
- ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見した
- 在日の多くは、日本に強制連行された
- ミミズ入りのハンバーガー
と言う、逸話がありますが、これは嘘だったと後世の私たちは分かっています。しかし、これが現実だと認識された時代も確かにあったのです。またこれらの話が嘘だと分かったとしても、《2歴史》には変わりないのです。ですから嘘だと分かってからは《2虚構》にはなりますが、その真実性を尊重し、《2虚構》として大切に語り継いでいきます。桜の木からは誠実さを尊重を学び、リンゴからは閃きの重要さを学び、ミミズからは都市に住む不安を表します。
こういった、歴史の中の、《2虚構性》と《2現実性》は、古くは混然としてました。ですが近代以降は、この両者を厳格に分ける方向へと進みます。まるで世界に国境を描くように、物語にも線引きが始まったのです。ファンタジーや漫画などは《2虚構》と呼ばれる様になりました。医学や物理学は、その実用性からも《2現実》におかれました。しかしどちらも情報である事には変わりないのです。本質は同じなのです。この様に線引きをする事で私たちの生活は混乱する事なく、安定した生活を送ることができます。本当の《1現実》では、紙があり、そこの文字が記されているだけです。また《1現実》の蓄積は《1体験》と《1経験》です。それが《2知識》と重なった時に《3知恵》となります。
しかし、時折、天然の《3物語》が発生する事があります。それは政治ではよく生まれます。フィクションとしての話を打つことで、それを《2現実》だと認識させるのです。もちろん《1現実》ではあるのですが、《3物語》を《2現実》として認識させるのは、いささか強引な手法なのです。
あるいは、都市伝説と呼ばれるものや、似非科学と呼ばれるものもそうです。後世の人は、作り話でありデマゴギーだ、と認識します。けれど、一時的にせよ、本当だと信じられた時期はあり、それが《1現実》にも影響を及ぼすのです。
なぜ私は、歴史を現実と認識するのでしょう? 本当の現実は自分の体験したことだけです。この場合の『歴史は現実』はどこから来るのでしょうか? 人が物語を築きを現実の影をなぞろうとする知的活動の背後にある法則性。それは探れるのでしょうか? それでは探ってみよう。
と言う、思考です。ですが、方法論が確立されたとは言いがたく、また人文科学は自然科学と違い、まだ道具がないので正否の判断は未だに分からないです。
この思考法を踏まえて、萌えの諸説をひも解くと『なぜ人は萌え説を生み出すのか?』という問題設定です。この問題設定は、説が極僅かなら「誰かがシャレで作った冗談話」で流されるのでしょう。あるいは「ツンデレ」や「セカイ系」では、この様な現象は起きていないようです。おそらく発祥元が分かるからだと推測されます。
「萌え」の場合は、諸説が多すぎます。これは〈社会〉の中に、神秘主義信仰のような力が発生しており、その力が諸説を生み出してしまうのではないでしょうか。また起原の調査が不可能とするのなら、まさに今日私たちが認識する〈神話〉と同じ性質を持っているかもしれません。何が起原なのかが問題なのではなく、私たちが、ある「構造」や「要素」に着目し、それを物語の形にしたのが神話だからです。〈萌え〉がその性質を持っているのなら、様々な場面で〈神話素〉ならぬ〈萌え素〉が、同時期にネットで発生し、それが一つの大きな流れとなったとします。同様になんらかの「物語構造」を生み出す力が〈萌え〉に影響を及ぼして〈社会〉の中で「萌え誕生物語」を生み出してしまうのです。と、言った様な仮説です。あくまで仮説。
もしかしたら、「ロマン」なのかもしれません。あるいは「構成主義」なのかもしれません。「実体」ではなく「観念」を基軸とする、世界観の構想です。導き出される答えは、その都度変わるのです。それが「萌え」にあるのです。もちろん仮説。
一部の変なのも仕様です。キリカ 2007年1月17日 (水) 19:47 (UTC)