利用者:ゴンドウさん/sandbox
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中小田井は愛知県名古屋市西区の地名である。中小田井地区は、岩倉街道沿いの一部が昭和62年(1987年)に名古屋市の町並み保存地区に指定されている。
沿革
[編集]- 1492(明応元)年に小田井城主織田丹波守常寛(つねとう)が創建した東雲寺。臨済宗妙心寺派の寺、名古屋の政秀寺の末寺である。願王寺と隣合わせの林は昼なお薄暗く早起きして兜虫を探し歩いた少年時代が甦る。尾張下四郡の守護代「織田大和守家」清洲城主織田敏定の弟といわれる。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。兄とされる敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築き城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、その城主となる。織田丹波守久孝と同一人物とされ、初め「久孝(ひさたか)」と名乗り、尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け「常寛」と改めた推定とされる。また織田氏には「常」の字を持った法名を名乗る人物が多いことから、「常寛(じょうかん)」という名の法号であるとも考えられる。永正3年(1506年)9月22日没。戒名は、東雲寺殿開巌化元居士。墓所は愛知県名古屋市西区中小田井の臨済宗妙心寺派龍光山東雲寺(津田氏菩提寺)に墓碑が存在するが、触ると「おこり」があると言い伝えられている。
- 1667(寛文7)年 岩倉街道は、枇杷島橋西詰(下小田井村)市場が開設され、岩倉近辺から野菜を運んだ人が、中小田井で帰りに味噌や油をこのあたりで買い求めました。これによって街道沿いには商家が立ち並びました[1]。
- 1671(寛文11)年 寛文村々覚書 家数 141戸 人数 664人
- 1757(宝暦7)年の「宝暦の洪水」西春日井郡誌にはこれ以降 10回の水害があった。江戸時代 尾張藩は名古屋城下を守るため、庄内川の堤防を、左岸より右岸を低くした。このことで庄内川右岸の水害頻度を多くなった。小田井人足という言葉があるが、庄内川水害に結びついたもので、城下と反対側の右岸堤防を切ることを村民に命じた。農民が駆り出されたが、自分たちの田畑や家を守るために作業をさぼり、水が減るのを待ったといわれる。
- 1822(文政5)年 尾張徇行記 家数 137戸 人数 564人
- 1891(明治24)年の濃尾地震などで昔の建物は残っておらず、現在の建物はそれ以降のものが多い[2]。
中小田井の建造物
[編集]- 中小田井に現在残っている歴史的建造物のほとんどが明治以降のものであり、明治24年(1891年)の濃尾地震で町の建物のほとんどが倒壊したためとされている。
- 中小田井の建造物の特徴の一つは、広い敷地を有しながら、建物が街道に直接面していることであり、商家が中心であったことを示していると考えられている。
- 建物の外観は、平入2階建ての建物に格子付きという構造になっている。
- 中小田井は、庄内川に近いことから、古来より河川の氾濫に悩まされていたところである。そのため、歴史的建造物にも洪水を意識した構造が見られる。2階をすべて物置にせず、居室を設けていることもその工夫の一つである。
- 浸水時に階段を使わずに荷物を2階へ上げられるように、2階の床板がすぐ外れるようになっていたり、仏壇を2階へそのまま巻き上げる構造を備えていたりするものもある[3]。
町並みの現状
[編集]- 現在は、家並みが連続するわけでもなく、街道贈位にポツポツと町家形式の雰囲気を残す建物や土蔵が散見される程度である。この地区の代表的な建物である平手家住宅も、平成14年(2002年)に地区内の願王寺境内に移築された。また、狭い街道を挟んだ各所では、個人受託の新規建て替えが頻繁に行われ、マンションが立ち並ぶようになり、町並みの風情は失われつつある[4]。