利用者:シェン,アーナリー,ン,アーバァ./私論
私は基本的に、包摂主義のウィキペディアンであり、ウィキメディアのプロジェクトに対するすべての変更: 加筆・修正、新規作成、議論の参加、、、虚偽・いたずらなどの摘出・削除などを、良し悪しに関わらずひとまず「貢献」と総称します。加えて、ログインした状態での編集を推奨しています。
また私の貢献は、著作権について特に言及のない場合、パブリックドメインのもとに公開したつもりでいます。なお私も人間ですので間違えることがあり、貢献の著作権について特に言及していない場合でも、私の知らないところで著作権やその他の権利により保護されている場合があります。
包摂主義について
私の包摂主義に対する理解を説明することが難しいので、代わりに私のウィキペディアに対する考え自体を述べておきます。
- まず、ウィキペディアという百科事典が「完成」することはない。
- なぜならば、ウィキペディアの記事を含めたほとんどの部分には、ご存じの通り「紙の百科事典のような発行日」の概念が存在しないため、発行日の時点までの事実に基づいた「その当時、正しかったことをまとめることで完成した百科事典」を、ウィキペディアに作ることはできないからである。
- つまり、ウィキペディアの完成日がない以上、ウィキペディアのすべての記事や一部の要素は「時間の経過とともに修正の対象になる」ため、ウィキペディアという百科事典は完成しない。ウィキペディアという百科事典にあるのは、絶え間ない加筆と修正、および嘘やいたずらなどの摘出や削除による自己浄化、および新陳代謝である。
- これは「現状、ウィキペディアにふさわしくないページがある場合、最初に取るべき手段は削除ではない」という私の考える包摂主義の根拠のひとつです。
- 次に、ウィキペディアに不要な記述・記事であるかの判断は難しい。
- なぜならば、ウィキペディアが自らの方針をいわゆる不磨の大典としておらず、必要とあらば修正され、あるいは廃止すらされる — これ自体は、ウィキペディアの欠陥ではなく、無知の知とでもいうべき良き姿勢だと理解している — ため、ウィキペディアの方針がよく磨かれており則るに値する方針だと示すと同時に、ウィキペディアの方針から改善の余地がいつまでもなくならないことも示すからである。
- つまり、当時のウィキペディアの方針には反するが、方針を変えてでもウィキペディアにふさわしいものとして受け入れられる場合はあり、この際には既存の方針に頼らずともウィキペディアのコミュニティの内外にいる関係者がその判断を妥当だと理解できる証明が必要であることから、方針に則っているということ自体で判断の妥当性を証明することは不可能であり、改善の可能性だけでいえば、無限の時間をかけて不足した出典がそろい、独自研究が第三者の研究者たちにより研究され、醜い書式と稚拙な文章や用語が整頓された書式と洗練された文章や語彙に広い意味でウィキ化され、その名前空間にある記事としてふさわしいものとなりうる。また、方針や慣行のみに基づく判断自体は簡単であるが、方針や慣行自体に不備が存在する可能性についてを考えることができない。
- これは「ウィキペディアが終了するまでにおよそ無限に存在する編集期間と、その編集期間に編集に参加するおよそ無限の編集者によって、すべての記事や一部の要素にウィキペディアにふさわしいものになる可能性がある」、また「方針や慣行のみに基づいて機械的に判断することは簡単であるが、その方法では方針や慣行の欠点を見つけることが困難である点を忘れてはならない」という私の考える包摂主義の根拠のひとつです。
- また、ウィキペディアに貢献できることと編集者の意思は無関係である。
- なぜならば、迷惑行為の実行者がその行為の正当化のために使う屁理屈を丁寧に退ける中で、常識や慣行により特に意識していなかったウィキペディア内の法的・倫理的、およびその他の不備に気づかされることもないわけではなく、少なくとも記事とその内容の削除の前に、合意までいかなくとも十分な議論を行うことで記事の改善案が分かる可能性があり、その発見は類型的な記事の改善案としても有意義であるためである。
- つまり、実際に編集者が良き編集者であろうが、ウィキペディアに害をなそうという魂胆であろうが、あるいはもはや単なる荒らしであろうが、十分な議論のもと解決方法によっては、ウィキペディアに有益なものとして処理できる可能性があり、良き編集者がすべきことはごみのような記事を捨てることではなく、コメントアウトして議論に持ち込むなど、修正して新たに使えるようにする「リサイクル」が大事である。
- これは「ウィキペディアに対してどのような魂胆で編集をしたとしても、正解や完成形のないウィキペディアとしては何とかその貢献を有益なものに修正することや議論の機会とする」、また「ごみのような記述を捨てる前に、コメントアウトして議論にかけた方が、内容の拡充につながる」という私の考える包摂主義の根拠のひとつです。
削除主義について
私の削除主義に対する理解を解説することも難しいので、代わりに私の削除主義に対する形容を述べておきます。
- 削除主義者は、複雑なことを考えることが不得意である。
- なぜならば、私が言うところの削除主義者は、概して削除や差し戻しなどの操作や要求を十分な議論がなく断行し、事後説明で済ましたり、もはや何も言わずにこっそりと削除を要請したり、差し戻しをしてしまったりするためである。
- 前提として、記事の作成に対して関連記事などで合意を得るべきだが、合意を得ていないうえにその時点で必要性のなさそうな記事が作成された場合、包摂主義者はそもそも包摂を断行できないが、削除主義者は削除を断行するから削除主義者などという。
- つまり、削除主義者は定義の時点ですでに合意形成や記事の改善などの複雑な行為ができず、とりあえずつたない記事や編集を削除し差し戻すしかしないものである。
私のノートページにやってきた削除主義者だと思しき方の発言に、こんなものがあります。
「削除依頼が提出されました。」 |
—先日作成した転送について、私の最近の会話ページより |
- しかし、実際には、これをいってきた発言者本人が提出しただけでした。つまり、自分で提出した削除依頼を議論の結果のようにいっていたのです。ウォッチリストを30日にしているので、何も通知が来なかったことから、議論の上でなく、方針や慣行にのっとって即時で判断したのでしょうが、いまだに判断の根拠となる直接的な方針や議論の過去ログを紹介してもらっていません。
- 一般的な転送の方針へのリンクを出されただけで、どこが悪かったのか何も解説されていません。これではよいウィキペディアンは育ちませんし、物分かりが良い人間が立ち去ってしまう反面、方針に則ったりなどするつもりの端からない強情で悪質な編集者はおそらくいつまでも居座ります。
こういうことをするなというだけの警告は、学習意欲のある編集者を遠ざけることにより、ウィキペディアのコミュニティ内の学習意欲はないが書きたいことだけはあるような、質の悪い記事を作りがちな編集者の割合を増やすことになります。他の編集者の編集を否定するならば、なぜそれがだめなのかが相手の編集者に説明できなければいけません。これは、ウィキペディアに限らず、理由もなく他人を非難してはいけないという一般的なことです。
また、大概の質の悪い記事は、そもそもそれについてのある程度の質の記事がないために作成されます。ということは、誰かがその名前の記事を作るということは、その記事名の記事を欲する人が必ずいるわけです。つまり、いったん削除したところで、ほとぼりが冷めればそのうちそこに再び質の悪い記事が作成されます。であれば、ウィキペディアにふさわしい記事になるように最大限包摂したうえで、すでに記事は存在する状態にしておいた方が、下手な編集者による悪質な記事が作成される可能性をなくせる点でよい解決策であると考えます。
その他の雑多なこだわり
私は、管理者を管理人と呼ぶことに反対しますし、ウィキペディアを管理する役割の利用者グループは存在しないと信じています。特殊な操作の実行ができるだけなので、実行者とでも言いたいのですが、これでは通じないので、管理権限を持つ利用者などと、利用者であることを前面に出したり、あるいは管理者との日本語版の記事名に則って管理者と呼びます。
- 私は「管理者のことを管理人と呼んだこと」に限ればおそらくないです。
また、ウィキペディアをウィキと略すことに反対します。なぜかというと、ウィキペディアしか使用しない利用者にとっては感覚がつかめないと思いますが、単に、ウィキといわれると何のことであるかわからないためです。ニコニコ大百科を編集したり、ニコニコ静画に投稿したりしているうp主にとってニコニコといった場合、ニコニコのどのサービスのことかわからなくなってくるのと一緒です。まぁ、私はニコニコ動画くらいしか使わないのでよくわかんないですが。
- 私は、ウィキといわれると、MediaWikiやその他のウィキエンジンによるウィキサイト、匿名共同編集的なサイト一般、あるいは、WikiTextのことを想像してしまいます。
- 「ウィキで書く」などというと十中八九、「文字列ではなくWikiTextとして書く」などの意味で理解します。
- 逆に私が「ウィキを参照する」などといった場合、「ウィキメディアのプロジェクトを参照する」などの意味で言っている場合があります。
年別の私論の一覧
年別で節を分け、新しい年のものほど上に記載。
2023年
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