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利用者:ソーメン猿/sandbox

アニータ・ガリバルディ(Anita Garibaldi、1821年8月30日-1849年8月4日)は、イタリア統一運動の英雄となった革命家[1]。夫は、イタリア統一運動を推進した革命家のジュゼッペ・ガリバルディ[1]ブラジル出身[1]

結婚後

ガリバルディとの結婚後もアニータは闘い続けた[1]

1842年から5年間、ガリバルディはウルグアイアルゼンチン戦争に参戦[1]。アニータは、戦争のあおりで皮革輸出が止まり、ブエノスアイレス屠殺場で働く労働者用の赤い布が余っていたのを安く購入し、それを使ってガリバルディたちイタリア人義勇軍シャツを作った[1]。以来、赤シャツはガリバルディの代名詞となり、アニータは毎日ガリバルディが帰宅するとシャツを洗濯し翌朝着せた[1]。アニータは赤シャツを用意したのみで戦いには従事していない[2]

しかし5年のうちにが病死。

1847年、ガリバルディが率いてくるはずの部隊の受け入れを準備するために3人の子供を連れてイタリアに行き、翌年1848年にガリバルディと再会。再会後、ガリバルディはイタリア各地で義勇兵部隊を率いて戦い、一時はローマを占拠した。

翌年1849年教皇ピウス9世シチリアからローマ奪回の呼びかけに応じてやってきたフランス軍の猛攻をうけ、ローマ包囲が一か月間続き、包囲がこれ以上持ちこたえられない状況のなかアニータはひとり敗色濃いローマにやってきた。当時、5人目の子供を妊娠、腸チフスに罹患しており、病気と疲労で憔悴しきっていた。1週間後ローマは陥落し、ガリバルディはヴェネチアへ退却しようとオーストラリア軍に追われながらもアニータを抱えて逃避行を続けた。

逃避行中の8月4日、ラヴェンナまで来たところでアニータは力尽き、ガリバルディの腕の中で息を引き取った。27歳だった。

アニータの遺体は埋葬する時間がなく、かろうじて砂をかけただけだったため、遊んでいた子供が砂から突き出ていた手を見つけた[1]

  1. ^ a b c d e f g h 伊藤慈子『女たちのラテンアメリカ下巻』五月書房新書、2022年5月1日、30-32頁。 
  2. ^ ケイト・ホッジス『世界は女性が変えてきた』東京書籍、2020年9月16日、12-13頁。