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利用者:チビクロ(偽)/sandbox

同年四月に關東管領上杉顯定は、弟民部大輔房能の讐、逆臣の爲景を誅伐せん爲、武州鉢形城を立て一萬五千計り、上田石白の泉福寺を經て越後へ打入被申候。亡主房能譜代の軍兵中條越前守藤資、新發田五郞長敦、八條左衛門大夫景國、宇佐美駿河守定行、柿崎彌三郞景持、風間河内守信綱、大熊備前守朝秀、庄新左衛門尉實爲、五十嵐小文四友常、島倉内匠助、長與三盛連、山吉彌右衛門、齋藤八郞、上野源六、篠塚摠左衛門、世良田九左衛門を始て顯定の手に馳加る。 — 『北越太平記』「長尾爲景企逆心上杉房能弑事」[1]
大永元年に顯定の養子、上條播磨守定憲再謀を被運、家老毛蓑四郞左衛門尉を使にて、舊功の軍兵を招候に、顯定の舊恩を慕、爲景が逆威を惡み、長尾一家の族も多分は定憲に隨、上郡中郡下郡の軍兵共大半馳加る。顯定、房能恩顧の輩は申に不及、八條左衛門大夫、宇佐美駿河守一黨、柹崎彌次郞、同彌三郞、風間、五十嵐一類を味方とし、多勢を以て能塞に城郭を構へ、軍兵を籠て猛威を振、上田へ推寄て、六日市と申所にて、長尾越前守房景と大に戰、爲景も大軍にて急後詰して、定憲と合戰度々に及云共、宇佐美駿河守、八條左衛門以下智勇の大將ゆゑ、每度に定憲不勝と云事なし。 — 『北越太平記』「長尾爲景企逆心上杉房能弑事」[2]
永正六年に上杉顯定越後へ打入給。爲景越中西濱へ敗北し、暫く人馬を休けるに、顯定より越中の侍どもに手入有て、神保、椎名、江波、唐皆顯定の命に應じ、其上爲景が恃切たる石田備中、大須賀志摩、五十嵐八郞逆心を企つゝ、滑川の陣へ切懸りしかば、爲景敗軍し、すでに討死と見ゑ候を、飯沼源太統久、高梨源三郞賴親、柏崎右衛門太夫是光討死して、其𨻶に爲景は佐渡國羽茂參河守高信を賴み落行、彼地にて謀を連し、高梨政賴と內通し、翌る永正七年三月に爲景潛に佐渡を出船し、越後の蒲原へ上り、六月上旬に旗を上げ、顯定を打亡。 — 『北越太平記』「宇佐美駿河與長尾爲景和談之事」[3]
永正五年に爲景逆心して、上杉房能を雨溝にて弑し、翌るに永正六年上杉顯定關東より打入、爲景打負、越中西濱へ引除候時、顯定より越中の神保、椎名、江波、唐人に内通有て、滑川と申所にて、爲景を攻討候刻、出頭人大須賀志摩守、石田備中逆心いたし、爲景を攻申候ゆゑ、爲景不叶、佐渡國へ落行、大須賀、石田は越後へ立還り、顯定へ附申候所に、九月七日に爲景方高梨播磨守多勢にて猿が馬場へ推寄、大須賀志摩守、石田備中守と合戰、古志駿河守秀景も高梨一味にて合戰、石田、大須賀勇氣を振ひ戰ゆゑ、爲景方黑田長門、金津外記討死し、爲景方引退し所に、高梨播磨守夜半に越中を忍出、間道より襲懸り、一戰に打勝、石田備中を討取しかば、五十嵐但馬守、大須賀志摩守敗軍して、上越後へ引取。其翌年三月十八日に爲景、佐渡國より椎屋浦へ著船するに、五十嵐八郞が聟、黑島甲斐守冬房出合て、爲景を支へ戰所に、高梨播磨守景宗此旨を聞、二千餘にて黑島が陣の背より切懸しかば、黑島打負て引退、關中島にて高梨勢追詰相戰所に、高梨が士梨本甚右衛門尉家綱渡り合、黑島甲斐守を虜。爲景は笠島へ推寄けるに、柿島大和守先手にて、五十嵐、大須賀が陣の背より切懸りければ、向陣より長尾藏人景忠切懸り、立挾て交戰。其時は同月廿日の宵闇に紛れ、五十嵐、大須賀は南雲浦より出羽國を指て引退所を、爲景方本庄大和守房長磯傳に待うけ、先を遮て交戰。其内に月出て晝の如になり、難遁見えければ、五十嵐が家人江平と云者、主の五十嵐が首を切て降參す。 — 『北越太平記』「昭田常陸介爲景奉公之事竝爲景討死之事」[4]
逆臣昭田常陸介、其子黑田和泉守、二男金津伊豆守は、長尾平藏景康、同左平次景房兄弟をば殺しけれども、景虎を討洩けるに、屋形上杉定實軍兵を指向攻給ゆゑ、昭田、黑田、金津等府内に暫も不堪得、蒲原郡へ引退、長尾平六と謀を倂。平六大に悦、老功の兵を集、軍評定を改、河西城には金津伊豆守、昭田將監を入置、黑瀧城には森備前守、新山砦には山下又左衛門、刈羽には世良田九左衞門を指置、中郡の軍兵を防しむ。村松城には野本大膳、保田の砦には篠塚惣左衛門、菅名には藏王堂式部少輔利景、新潟には盛岡十左衞門を入置、諸窂人を引付、下郡の上杉方を令遮。平六は黑田和泉、八條、五十嵐、風間を先手として西古志、山東郡少々打隨へ、增々兵威を振と云ども、本庄美作守憲秀は橡尾城に在て、堅固に相支えければ、容易敵の可入樣なし。 — 『北越太平記』「上杉景虎於春日山林泉寺へ奉落事」[5]
長尾平六郞俊景は、軍勢を二手に分、大手へは平六自身大將にて、八條、風間、五十嵐を先陣にて、七千にて馳向。搦手へは黑田和泉守秀忠大將にて、戸屋、佐貫、松尾等六千餘にて差向、一戰に安否を決せんとす。 — 『北越太平記』「景虎爲誅戮黑田金津等智謀之事」[6]
大手は長尾平六郞俊景を大將にて、風間、五十嵐、八條等七千餘にて、晴景の先手大熊備前守朝秀、庄新左衛門尉實爲と挑戰て見えし處へ、景虎軍兵を左右に隨へ、眞黑に押向るゝに依て、寄手の大敵引色に成處に、大將長尾平六勇世に勝たる猛將なれば、命を一戰に期す、いづれの敵をも、不嫌、士卒に先立て自身敵に當り、切落事其數不知。 — 同上[7]
而朝夷名三郞義秀敗惣門。乱入南庭。攻擊所籠之御家人䒭。剩縱火於御所。郭内室屋。不殘一宇燒亡。依之。將軍家入御于右大將家法花堂。可遁火災御之故也。相州。大官令被候御共。此間及挑戰。鳴鏑相和。利劍曜刃。就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士䒭無免死。所謂五十嵐小豊次。葛貫三郞盛重。新野左近將監景直。礼羽蓮乘以下數屋から被害。 — 『吾妻鏡』[8]
二日辛未。五十嵐小豊次太郞惟重與遠江守朝時祗候人小見左衛門尉親家。日來有相論事。今日。於前武州御亭遂一决。亭主御不例雖未快。相扶之令聞食其是非云々。匠作渡御。主計頭師員。駿河前司義村以下評定衆等列參。是越中國々吉名事也。惟重則當所爲𣴎久勳功之賞拜領之處。親家押領之由訴之。親家亦。惟重知行分者全不可亘惣名。親家知行來之旨陳之。及究問答。親家依難遁其過。前武州殊有御氣色。於當座召侍所司金窪左衛門大夫行親。可令預守護親家之由被仰付。又其子細被仰遣遠州。遠州頗令恐申給云々。 — 『吾妻鏡』[9]
景虎御出陣之砌、三田弾正忠政実先陣而大幡ニ陣所、八王子之城主北条之氏照及一戦没落之処、五十嵐市左衛門武田之新次郎云武士討取二番ニ着到、賞功不踰、芝崎卅貫文之処ヲ被仰下者也、依如件、
永禄三年庚申閏三月七日 立川宮内
五十嵐市左衛門殿
設楽惣右衛門との
原佐渡との — 『新編武蔵風土記稿』[10]
新田武藏守ハ、將軍ノ御運ニ退緩シテ、石濱ノ合戰ニ本意ヲ不達シカバ、武藏國ヲ前ニシテ、越後・信濃ヲ後ニ當テ、笛吹峠ニ陣ヲ取リテゾオハシケル。是ヲ聞テ打ヨル人々ニハ、大江田式部大輔・上杉民部大輔・子息兵庫助・中條入道・子息佐渡守、田中修理亮・堀口近江守・羽河越中守・荻野遠江守・酒匂左衞門四郞・風間信濃入道・舍弟村岡三郞・堀兵庫助・蒲屋美濃守・長尾右衞門・舍弟彈正忠・仁科兵庫助・高梨越前守・大田瀧口・干屋左衞門大夫・矢倉三郞・藤崎四郞・甁尻十郞・五十嵐文四・同文五・高橋大五郞・同大三郞・友野十郞・繁野八郞・禰津小二郞・舍弟修理亮・神家一族三十三人・繁野一族二十一人、都合勢二萬餘騎、先朝第二宮上野親王ヲ大將ニテ、笛吹峠ヘ打チ出ル。 — 『太平記』「笛吹峠軍事」[11]
大彦命越中に至り給ひ、伊豆部山の下、杉野に玉趾を留め給ふ。大田郷中地山に保を築き、椎摺彦を置き給ふ。また、荒地山に庄園を定め太刀摺彦を副として置き給ふ。椎摺・太刀摺彦、保庄に在りて。民に彝倫の道を教え、稼穡を勧め務めしむ。時に黒牧彦と云ふ者あり、能く力耕し農功殊に優れければ、命賞し給ひ郷将とし早稲比古と名づけ給へり。またその功を永く示さんとて黒牧を村号とし給ふ。後次第に田野辟け、また各功労によって郷将となす。室生彦居りし所を山室郷と称す。豊生彦居りし所を三室郷と云ふ。八千彦と云ふ者は能州羽咋郡釜生彦の後なり。居し処を糸岡郷という。(砺波郡なり)。吉田久美彦・津地幸比古居し所を加積郷と云ふ。 — 『肯構泉達録』「大彦命越中に下向、ならびに保郷庄の事」[12]
豊生彦の後、寿永年中、侍となり、五十嵐小文治と云ふ。『源平盛衰記』にも見えたり。早稲彦の後、相継いで、畦田某、侍となり、三室郷湯端に城を築く。河上中務と戦ふ。畦田入道円空に及んで戦ひ疲れて農に帰す。同苗、寒江村に別居す。本郷を冒して寒江本郷と称す。八千彦は銅鉄を鋳、鍛冶を善くす。末孫、能越の間にあり。久美彦・幸比古の後、継いで魚津に住す。久阿弥幸因と云ふ。 — 同上[13]
不作有 参拾町五反弐拾苅 同保 五十嵐方 — 蒲原郡段銭帳(上杉文書)[14]
皆納 拾六町参段肆拾苅 同保 五十嵐豊後入道方 — 同上[15]
皆納 参拾四町四段苅 同保 五十嵐豊後入道方 — 同上[16]
今度錯乱之處遂籠城走廻之段神妙候依之赤川新兵衛分五十嵐式部分充行候弥可抽忠信事肝要候仍執達如件
天正六年九月十六日 景勝
草間正左衛門殿 — 景勝公御年譜[17]
如尊意之、其後者不申通候条、御床敷奉存候、近所之義与申、貴所へも五十嵐方へも申談候故、あミかき之事預置申候キ、然間、拙者取合之筋目、諸人存知之義候間、先々某ニ被為置候而も不苦候歟、就之公理御越度ニハ罷成間敷候哉、対其方申努々疎義を存子細無之候、恐々謹言、
極月廿一日 平三郎景行
長尾弥四郎殿 — 長尾景行書状(上杉家文書)[18]
如仰名春御吉兆、珍重幸甚不可有際限候、為御祝儀、御太刀一腰拝領、祝着候、抑太刀一腰令進候、誠表一儀計候、随而五十嵐豊六方、旧冬依頼被抑結子細、度々預御尋候、畏入存候、雖諸公事相止候、雪消候者、被入検見、堺之様体可被害抑付事専一候、若又文六方申所も候者、可存其意候、委御使たゝ見方へ申入候間、不能重説候、恐々謹言、
二月廿三日 大江広春
謹上 長尾弥四郎殿 — 毛利広春書状(上杉家文書)[18]
文明十七八月廿三日
一、本田四千八百弐拾苅 御料所 五十嵐豊後守
増分九千八百四十四束苅
合壱万四千六百六拾四束苅 — 長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)[19]
文明十六十一月廿一日
一、本田壱万六千弐十苅 石坂御料所 五十嵐豊後守
増分七千参百拾六束苅
同十九九月廿八日
再検知増分壱万伍千弐百五拾苅
合参万八千六百六束苅 — 同上[19]
長尾為景様永正三年ノ時、五十嵐・石田・大須賀・高家一党逆心ノ輩追罰有テ、
尾形御本意安堵之御祝儀ニ付而、
霜月十五日御太刀ノ次第
飯沼日向守殿 金覆輪
高梨播磨守殿 金覆輪
桃井讃岐守殿 同
長尾蔵人殿 同
中条与次良殿 同
本庄弥次良殿 同
鳥山越中守殿 同
色部与三良殿 同
長尾縫殿頭殿 糸牧
柿崎但馬守殿 金覆輪
新津越前守殿 同糸牧
加地弥太良殿 同
新発田備前守殿 金覆輪
五十公野信濃守殿 糸牧
長尾小太良殿 糸牧
竹俣久三良殿 同
大川下野守殿 同
金鞠伊与守殿 金覆輪
長尾四良左衛門殿 糸牧
池八良左衛門殿 同
唐崎孫次良殿 同
大治屋上野守殿 同
大崎大膳助殿 同
黒田乙松殿 同
金沢鶴寿殿 同
五屋清蔵殿 金覆輪
高松次良左衛門殿 同
松川伊豆守殿 糸牧 — 越後侍衆・馬廻衆・信濃・関東大名衆等祝儀太刀次第写(上杉家文書)[20]
越後国高田春日山城主 上杉謙信
……
虎千代殿親者為景殿と申三十五万石也、家老ハ直江大和守同与板ノ城主、二番家老北条丹後守、三番家老五十嵐上総之助、右三人為景譜代なり、然る所五十嵐上総之助嫡男金津伊豆守、次男黒田和泉守両人親不孝にて主人にも不忠之者ゆえ、父上総之助此事不宜とて皆外養子ニ遣す、第三番目之男子久太郎と申江家老職譲り角田浜五十嵐之城主是也、長尾重景之時代ニ越後武士兵乱発し合戦夥敷、其節鎌倉より上杉民部太夫憲顕を下し給ひ、越後古志郡上条村と申所ニ館を立、長尾重景両人にて兵乱太平におさめ終り、彼長尾為景家老五十嵐上総之助子金津伊豆守、黒田和泉守両人心替りし加賀之国大聖寺之城より伊豆守発り立、手勢四万五千騎ニ而春日山を取り巻、為景殿を生捕り越前之国仙檀野にて首を切ル、
……
— 北越城主抜書[24]
古志郡芹川村城主 五十嵐上総之助
此仁、長尾家老にて子供三人有、惣領者金津伊豆守加賀国大聖寺ノ城主、次男黒田和泉守越中富山城主也、三男久太郎親ノ家督相続ス、然るに惣領金津伊豆守、主人長尾信濃守為景を攻落し、高田ノ城江移ル、為景殿子息虎千代殿生長し親ノ敵を討、春日山へ移上杉謙信と申なり、 — 北越城主抜書[25]
五十嵐ノ城主 小文治吉辰
此小文治出生者蒲原郡下田之山奥池ノ水神ノ小也、北陸道に化鳥飛行し牛馬始め人間を取り喰ふ事夥敷き、小文治退治し、代々越後に無隠武士に繁昌ニなり、鎌倉右大将頼朝殿御代下野国那須与一宗高を預り、其末長尾信濃守家来となり上総之助と改め、其子金津伊豆・黒田和泉両人主人へ不忠臣、為景を殺ス、弟久三郎五十嵐苗字を続、上杉家家老になり会津より米沢江参り忠臣夥敷有之、 — 北越城主抜書[26]
丹後の国には、田那部の小太夫、大内の末武。若狭の国には、安賀の高傔仗国正が末子青の太郎、鳥羽の兵衛。越前の国には、天夜、白崎、堀江、本庄。加賀の国には、富樫の文盛、林の六郎、井上左衛門、能登の国には、土田、建部。越中の国には、石黒、宮崎、南部の殿原、むくだの兵衛、宮路の左衛門。越後の国には五十嵐の小文治。信濃の国には、仁科、高梨、海野、望月、くらはきの安藤次、安藤内、根津の甚平惟行、上の宮の祝、下の宮の祝、深山隠れの甲斐源氏、一条、板垣、南部、下山、逸見、武田、小笠原。下野の国には、那須、塩谷、宍戸、佐竹の人〻。上総の国には、伊北、伊南、長北、長南、あひろ、河上、うさ、山の辺。下総の国には、安西、かなきり丸、東条。武蔵の国には、横山党、平山党、私の党、丹の党、西野党、児玉党、七党、これ党、惣じて四十八の党の人〻は、屋形を並べ、ひつしと打つて、君を守護し奉る。 — 『夜討曽我』[27]
五十嵐小文次藤原家忠、可任同左衛門尉也、
文明六年二月十一日 景永
五十嵐左衛門尉殿 — 長尾景永官途状(歴代古案)[28]
去年以来、石田・五十嵐依謀反ニ、国中没落之処ニ、被抽忠孝、昼夜之粉骨就無比類、录子住安堵ニ也、扨亦、越中滑河之於軍乱ニ、被傾本国無力躰、行方可沈土ニ処、子息源五郎殿・飯沼源太殿、各兄弟進二人、被遂討死故開命運、佐州ヘ退、此度令入国、逆徒追罰、思之侭令誅戮、雖雪会稽恥辱、御辺父子之忠力也、因茲、本領壱千貫之所、永代諸役為不入ト進是候、此旨、自今以後於有別心者、可蒙神罰、右之忠益為父母ト、代々子孫不可有疎意者也、仍守護不入之朱印、如件、
永正三年五月七日 為景
高梨播磨守殿参[29]
其比當國新川郡高野鄕佛生寺村ニ平左衛門尉信正トイフ侍アリ此人ノ祖ハ平相國清盛之子ナリト云トモ左ニハアラズ何レ平家ノ公達方之息也シカ平家滅亡ノ時未當歳ナリシヲ當國主五十嵐越中守盛嗣此人ノ家人ニ五十嵐何某ト云者彼當歳ノ子ヲ懐ニ隠シテ京都ヨリ逃下リ山林ニカクレ後山ギバノ里ニテ守育シニ哀哉此人静ナル世ニ生レ玉ハヾ金襴纐纈ヲ褓ニ縫貴服目出度育レ玉フヘキニ麻ノ一衣ニ押マカレ命ノ有ト云ノミナリ — 『喚起泉達録』「平三郞之由緖㕝并布峅嶽平氏祭由來之事」[30]
又左衛門尉ヲ養育セシ者陰德ハ必天命ニ續ノ理ニ叶ヒタル歟富タル百姓ニテ今ニ家ツヾキタリ平左衛門ガ末ナリト今自賛シテ云リ然レ𪜈是ハ思ヒ誤レリ彼ハ五十嵐氏ニテ尤小文治ガ末ナリトゾ — 同上[31]
一、五拾七貫五百四文 百姓こたへ
此分きつと□おさめへきもの也
永禄七甲子六月三日 長家 忠家 盛惟 能信
百姓中 — 飯田長家等四名連署状[32]
式部丞朝時は五月晦日越後ノ国府ニ付て打立けり北国の輩悉ク相従ヒ五万余騎及べり京方仁科次郎宮崎左衛門糟屋左衛門先立て下りけれども加賀国林がもとに休みゐて国々の兵共を召ニ井手左衛門石見前司保原左衛門石黒三郎近藤四郎同五郎是等をめしけり参らざりける物故に日数を送る所に宮崎と云所をもさゝへす田脇と云所ニ逆茂木を引けれども関東の兵乱杙のはづれ海を泳がせて通りにけり六月八日越中の砺波山を越くる処に京方三千余騎を三手ニ分けてさゝへんとしけれ共大手山のあなたに陣を取りて夜をこめて五十嵐党を前として山をこえける上は仁科宮崎一軍もせずして落ちにけり糟屋ばかりそ討死しける林次郎石黒三郎近藤四郎同五郎弓をはづして関東方へ参る北陸道の在々所々の京方一堪へもせずみな落にけり少々相戦ふ輩頸共道々切かけて上りけり何面を向べき様ぞなき — 前田家本『承久記』「武家宇治勢多手合之事」[33]
越後国月岡城主小文治道房末裔五十嵐筑後惟良当祖
天文廿辛亥六月廿四日三十八一誉佛誓居士[34]
越後国月岡城主小文治道房持年百二歳而
文治院殿道房栄耀大居士
正治元年己未之六月十七日逝去[34]
納頸城郡内大貫村山之御年貢請取事、
合六貫文 者
右、於御蔵御百姓御皆納、仍如件、
永禄十三年庚午十二月廿一日 河隅忠清 五十嵐盛惟 飯田長家
色部弥三郎殿参 — 飯田長家等三名連署年貢請取状(越後文書宝翰集)[35]
為堪忍分、北条之内小黒分・向四郎左衞門分・保科源助分・大屋分・五十嵐与次郞分宛行之候、猶軍役等厳重ニ可勤之者也、仍如件、
天正九十一月吉日 景勝
三矢清三殿 — 上杉景勝朱印状(別本歴代古案)[36]

脚注[編集]

  1. ^ 雪菴 1932, p. 5.
  2. ^ 雪菴 1932, p. 6.
  3. ^ 雪菴 1932, p. 7.
  4. ^ 雪菴 1932, pp. 12–13.
  5. ^ 雪菴 1932, p. 16.
  6. ^ 雪菴 1932, p. 21.
  7. ^ 雪菴 1932, p. 22.
  8. ^ 黒板勝美 編『国史大系 第32巻 新訂増補』国史大系刊行会、1932年、682頁。 
  9. ^ 黒板勝美 編『国史大系 第33巻 新訂増補』国史大系刊行会、1933年、241頁。 
  10. ^ 蘆田伊人 編『大日本地誌大系 第6』雄山閣、1957年、245頁。 
  11. ^ 『日本古典文学大系 第36』岩波書店、1962年、187-188頁。 
  12. ^ 野崎 1974, p. 11.
  13. ^ 野崎 1974, p. 12.
  14. ^ 見附市史編集資料 1976, p. 34.
  15. ^ 見附市史編集資料 1976, p. 37.
  16. ^ 見附市史編集資料 1976, p. 38.
  17. ^ 『上杉家御年譜 2』米沢温故会、1977年、72頁。 
  18. ^ a b 新潟県 1982, p. 94.
  19. ^ a b 新潟県 1982, p. 485.
  20. ^ 新潟県 1982, pp. 533–534.
  21. ^ 宝賀 1986, pp. 626–627.
  22. ^ 宝賀 1986, pp. 627–628.
  23. ^ 宝賀 1986, pp. 628–629.
  24. ^ 新潟県 1987, p. 94.
  25. ^ 新潟県 1987, p. 110.
  26. ^ 新潟県 1987, p. 113.
  27. ^ 佐竹昭広 編『新日本古典文学大系 59』岩波書店、1994年、538頁。ISBN 4-00-240059-X 
  28. ^ 『史料纂集 古文書編 第33』続群書類従完成会、2000年、49頁。ISBN 4-7971-0415-5 
  29. ^ 上越市史専門委員会中世史部会 編『上杉家御書集成 1』上越市〈上越市史叢書 no.6〉、2001年、229頁。 
  30. ^ 越中資料集成編集委員会 2003, p. 71.
  31. ^ 越中資料集成編集委員会 2003, p. 72.
  32. ^ 上越市史編さん委員会 編『上越市史 別編 1』上越市、2003年、198-199頁。 
  33. ^ 日下力; 田中尚子; 羽原彩 編『承久記 前田家本』汲古書院、2004年、255頁。ISBN 4-7629-3522-0 
  34. ^ a b 伊藤丈 編『祐天寺史資料集 第4巻 下』祐天寺、2007年、816頁。ISBN 978-4-500-00721-9 
  35. ^ 矢田俊文; 新潟県立歴史博物館 編『越後文書宝翰集色部氏文書 1』新潟大学「東部ユーラシア周縁世界の文化システムに関する資料学的研究」プロジェクト、2010年、84頁。 
  36. ^ 『史料纂集 古文書編 44』八木書店、2011年、15頁。ISBN 978-4-8406-6044-0 

参考文献[編集]

  • 雪菴 著「北越太平記」、今泉鐸次郎 編『越佐叢書 第5巻』越佐叢書刊行会、1932年。 
  • 野崎雅明『肯搆泉達録 越中国取りの記』KNB興産、1974年。 
  • 『見附市史編集資料 第1集』見附市史編集委員会、1976年。 
  • 新潟県 編『新潟県史 資料編 3 中世 1』新潟県、1982年。 
  • 宝賀寿男 編『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年。 
  • 『新潟県史 別編 3』新潟県、1987年。 
  • 越中資料集成編集委員会 編「喚起泉達録」『越中資料集成 11』桂書房、2003年。ISBN 4-905564-56-5