利用者:バレロン/sandbox/9
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日本全体
[編集]- (昭和中頃ぐらいまで)世帯人数が多い
- →子供を家族で見れる
- (江戸時代)身売りによって家計を助けた女性は孝女とされ、遊女であった経歴を隠さずに、一般の女性として生活できた{{Sfn|孝女お玉の墓|p=}1}。
新潟(蒲原)全体
[編集]- 水運で結ばれている。
- 都市と農村がとても近い?
- 衣装代などは女の実家が持つ
- →経済的に婚家から一部独立
- (18世紀後半)江戸や関東地方へ出稼ぎ増加[1]
- 「傾城(けいせい)を入れると越後八つ不思議」[2]
- 凶作が続いた後に娘が売られることが多く、江戸や関東各地の遊郭には越後の出身者が多かった。[2]
都市部
[編集]- 冬季は人が来ず、稼ぎがない[3]
- →冬は人口減る?
- 芸妓は若いうちは前に出て、年を取ると地方を担当する[4]
- →生涯現役
- 娼妓は若いうちは客を取り、歳をとったら少女を買って養う[4]
- 新潟生まれでないと芸者になるのが難しい[5]
農村部
[編集]- 湿地が多い。
- 一年中水に使って農作業
- →女性が身体を冷やすと悪いから魚を売りに行くことになった?
- 男は潟で魚を捕り、女は潟の水草を取る[6]
- →舟の扱いに慣れていた[6]
- 潟でとれたものを舟で売りに行った[6]
- 「潟では舟一艘あれば生きていけた」[6]
西区
[編集]西蒲区(角田浜など)
[編集]- 漁村では男が漁に出て、女が陸上での物のやり取りなどを担った[8]
- (明治以前)大凡、漁労が男、製塩が女だった[9]
- (明治)塩価が落ちて塩業衰退[8]
- (大正4)角田村で1戸平均2.15人が行商[8]
年表
[編集]- (戦国末期〜江戸前期)信濃川・阿賀野川下流域の開発が進む[6]
- 水運の要所のため男性の出入りが多い[3]
- →(江戸時代)遊女屋誕生[3]
- (明治辺りまで)普通の家と娼館が並んでいた[4]
- →性産業を賎しまない土壌を形成?
- (1799)遊女が産んだ子は性別問わず引き取り手があるため、堕胎せずに出産する[10]
- (1845、新潟奉行の触れ)離婚を恥とせず、蓄えがあれば女だけで暮らしていけるとの驕りから夫を軽蔑する風儀あり[10]
- (1850頃)下賤の女は荷ひ商になす。火事などのとき現場でものを運ぶ[10]
- →すでに経済的に自立している人がいた
- →離婚してもそんなに困らない?
- (明治15)「男を養えないなら結婚すべきでない」[10]
- (明治16)「新潟地方に一種の淫風あり」[10]
- (明治16)金に困ってなくても芸妓・娼妓として働く[10]
- (明治16)男は「妓になったことない女は其身修まらず」といって結婚したがらない[10]
- (明治20頃)娼妓・芸妓は殆ど現在の新潟市出身[10]
- (昭和3)人夫や内職、魚売りをする女がいる[10]。
- →経済的自立
参考文献
[編集]女性関連
[編集]伊藤祐之「新潟美人の歴史-江戸時代の新潟美人ー」、新潟市歴史博物館、2011年、2023年1月31日閲覧。
永野由紀子「佐藤康行著『毒消し売りの社会史―女性・家・村―』」『村落社会研究』2005年、doi:10.9747/jrs.11.2_56、ISSN 2187-2635、2023年1月31日閲覧。
湯本泰隆「孝女お玉の墓 もうひとつの越後の十九世紀」『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』第19号、2017年、doi:10.32257/kfa.2017.19_1、ISSN 2432-1087、2023年1月31日閲覧。
港町関連
[編集]「新潟開港150周年記念講演会「何が湊町新潟の繁栄を支えたのか」」、2023年1月31日閲覧。
花街関連
[編集]「職業としての芸妓-新潟の花街を中心に」、敬和学園大学。
土地利用関連
[編集]太田和宏. 新潟市西区に関する潟と人の共存(里潟)について 2023年1月31日閲覧。.
生業関連
[編集]“潟のくらし文化”. 新潟市. 2023年1月31日閲覧。
山崎光子「「越後縮」発展の要因」、2023年1月31日閲覧。
坂口安吾『[https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/49951_54981.html 安吾新日本風土記 第二回 富山の薬と越後の毒消し≪富山県・新潟県の巻≫]』中央公論社、1955年 。